記憶
女性の名はサレナと言った。平民の身分で、農夫の出自だったが、二週間前に村が野盗に荒らされ、家族が殺され、身寄りもなくなった。首都ジーゼマクシリアに来たのは、働くためだ。
帰りを待つ者はいない。悲しみに暮れる時間も、途方にくれる時間もない。ただ、カクテルを飲んで、ひたすら現実から逃れる時間しか。
「お嬢さん、大丈夫かな?」
そんな中、声をかけてきたのは髪が全て白く染まった男。フラフラと歩くセレナの肩に両手を軽く添える。酔っ払っていて顔はよく見えないが、その身なりから貴族であることには間違いない。
「……放っておいてもらえますか?」
平民のナンパをする貴族は多く存在する。彼らにとっては体のいい使い捨て。いざとなれば、貴族特権を駆使してしらばっくれればいい。
「そんなことできるわけないじゃないか。そんなに寂しげな瞳を見ていたら、紳士である僕には放っておけるわけがない」
「……ふっ」
なんて軽い言葉だ。思わず、鼻で笑ってしまった。貴族であれば、平民は誰でもなびくと過信している。
「ミラ、そろそろ君は帰っていいよ」
白髪の男は、後ろに立っている女性に言う。彼女は、無表情であったがまるで絵画に描かれた女神のような美しさだった。
「アシュ様、差し出がましいようですがその方はあなたに一片たりとも心を奪われてはいないと思います」
「おいおい。君の冗談がハイレベルなことは知っているが、嘘はよくないな」
「私は今まで冗談は一度たりとも言った覚えはありませんが」
「ククク……はいはい。さすがは、僕だね。機知に富んだ女性さえ造れることができてしまうとは。自分の才能が恐ろしいよ」
その執事らしき美女との短いやり取りで、サレナは悟った。
アシュという男は、クズだ。
「離してください!」
強めに力を入れて突き放すと、案外素直に距離をとれた。どうやら、無理やり手篭めにする気はないらしい。
「おっと……女性の心と秋の空。変わり移ろいやすいのは……」
突然、白髪男の言葉が止まる。即座にサレナに近づいて、その漆黒の瞳でジッと眺める。
「な、なんですか!?」
「ミラ、治療できるかい?」
「はい」
執事らしき美女はサレナの前に立って、魔法の詠唱を始める。
「治療って……どういう意味ですか?」
「僕の診断が正しければ君はジライド病に侵されている」
「……そんな」
ジライド病はナルシャ国で猛威を奮った病だ。その前兆は瞳孔の微かな揺らぎのみ。潜伏期間は3週間。発症してからでは治療自体が非常に困難なものとなる。
「君は運がいい。僕が優れた魔法使いでなかったら、その兆候を見逃していたよ」
そう言い残し、アシュと呼ばれた男は身を翻して歩き始める。
「……どこに行くんですか?」
「彼女の魔法といえど治療には数時間ほどの時間を要するからね。残念だが、今日は失礼するよ」
「あ、あの……私は治療費なんて……」
「僕が女性に対し、お金などという無粋なものを求めるとでも?」
「……っ」
というか初対面なんですけど、とは平民娘の密かな感想である。
「そうさな……今日はいい月だ。君と過ごすはずだった甘美なひとときの代わりに、夜空を眺めながら帰るとするかな」
酔いが回ってきたのだろうか、フラフラと千鳥足で去って行く白髪の男。
彼が消えた後、執事の女性はサレナの額に光る手を当てる。
「少しばかり眠っていてくだされば、目が覚めたときには全て終わっております。どうか、心地よい夢が見られますように」
その優しい声に惹き込まれるように。
サレナは薄れていく意識の中で、先ほどのことを思い返していた。
白髪の男が見つめる瞳。
どこかで、見たことがあるような気がする。
「ああ……」
彼女はボソリとつぶやきながら、ふと思い出す。
あの男が彼女を見つめたように。
黒髪の少年もまた、彼女のことを眺めたんだったと。




