運命の輪
ナルシャ王国首都ジーゼマクシリアの中心部に位置するロッサム自治区はアリスト教徒の聖地である。日々、数千人もの信者が巡礼に訪れ、神に祈りを捧げる。街ほどある広大な敷地のため、順路通り歩くだけで3時間はかかるが、その列は規定のある8時から19時まで途切れることはない。
しかし、この日、まだ誰もいないこのサン・リザベス聖堂で、サモン=リーゼルノ大司教が祈りを捧げていた。
地平線から垣間見える朝の光が、背を向けて子を抱く聖母像を一層神々しく輝かせているのに対し、彼女の前でひざまずくこの老人は、死人のような暗い影を落とす。病魔に犯されたその痩せ細った身体は、伝統的な白い法衣でさえ隠すことはできない。
「はぁ……はぁ……サモン大司教! 見つけました」
息をきらしながら、侍従であるケリー=ラークが静寂を破った。黒褐色の髪に精悍な面立ちをした青年であり、その肉体は若々しさに満ち溢れていた。
「……確かか?」
「そ、その前にこれを!」
慌ててケリーは紅に染まった厚手のガウンを差し出した。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
「ご自分の身体をもっと労ってください!」
専属魔法医からの宣告は余命半年、当然養生して過ごした場合の話である。真冬の早朝に、法衣一枚で祈りを捧げるなどもってのほかだ。大司教をこの上なく敬愛している若い青年は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「願かけをしてたんだよ」
「ぐっ……神に仕える者がそのような行為を」
いたずらっぽく笑いかけて投げた老人の言葉は、この生真面目な青年に更なる苦悩をもたらす。
「どうやらその甲斐があったようだ。それで?」
「対象はホグナー魔法学校にいます」
「どうやって知った?」
「……っ、それが」
サモンの問いかけに、ケリーが言いよどむ。
「まさか……下法を犯したのでは」
「い、いえ。本当に偶然なんです。たまたま知り合いと話していたら、大司教のおっしゃる特徴を備えた生徒がいると噂を聞いたようで。だからその……」
依然としてケリーは複雑な表情を浮かべている。実に3年。彼だけでなく、数多の信者たちが捜索してきた。しかし、一向に手掛かりはおろか、糸口さえも見当たらない始末だった。それが、知り合いの世間話で判明したことに抵抗を抱いているようである。
「ふっ……それこそ、神の思し召しじゃないか」
「は、はいっ!」
サモンの言葉にホッと胸を撫でおろすケリー。実際にそういうものだと、老人は得心していた。いくら追い求めても、神の慈悲なくば届かず、与えられることはない。ふと隣を見れば寄り添うようにそこにあるのだ、と。
「その知り合いはどんな方なんだい?」
「……ええっと」
ケリーは顔を真っ赤にしながら答えに躊躇する。
「大切な女性なのかな?」
「なっ……私は神父ですよ!?」
戒律では、神父の結婚は認められていない。
「ふふふ、冗談だよ。やはりケリーはからかい甲斐があるね」
「ぐっ……」
サモンは今年で56歳になる。歳を経るたび、彼ら若き信者たちへの慈愛が増していくのを感じる。それを『老い』と嫌う人もいるが、己の中にそんな感情がかけらほども存在しないことに、密かな誇りを感じる。
「誰なのかは特定できたのかい?」
「あっ、いえ……あくまで噂で……しかし、確かに聞いたと」
「疑ってなどいないさ。いいかい? 慎重に探してくれ。私のことは気にしなくてもいいからね」
「そんなこと……おっしゃらないでください」
「私はいいんだ……むしろ、長すぎたぐらいさ」
どうやら自分の代では、この世界の歪みを取り去ることはできなかった。でも、いい。若き世代に望みを繋ぐことも、それを支える土台もここにはある。たとえ我が身が朽ち果てようと、楽園への夢は消えないのだから。
「……失礼します」
深くお辞儀をして、ケリーは聖堂を出て行った。ふと気がつくと、雪が彼の頬をなでていた。
その日も、雪が降っていた。そこになんの感情も抱かず、ただ生ばかりを欲していた。下手を打ち、魔衛兵たちに重傷を負わされこのサン・リザべス聖堂に逃げ込んだ。止血し、凍える寒さを抑えようと両腕を交差させ震えていると、「誰だい?」穏やかな声が堂内に響き、身の毛がよだつほどの震えを感じた。奪い、傷つけ、脅す日々。その終わりがついに来たのかと、最後の力を振り絞り放った魔法は、その声の主にいとも簡単にかき消された。「……なにか望みはあるかい?」そう尋ねられた。「妹がいる。死んだ後が心配だ」そう言い残して意識を失った。
翌日、眼前にあったのは見知らぬ天井。身体はベッドに横たわり、隣にはケリーの手をしっかりと握っている妹がいた。
「美しい……」
大司教、私はこんなにも世界を感じています。この白い奇跡を眼前に見上げ、こんなにも世界は尊いのだと。教えてくれたのはあなたです。私にとっては、あなたは偉大なる父であり、慈愛に満ちた母だった。
歩を進めながら、青年の胸に去来する想いは、雪のような純白たる決意だった。




