7・兄の煩い
ケント視点
トーカ・コーエン侯爵令嬢に動きがあったと報告があったのは、隊長に何度目かの叱責と催促を受けていたときのことだった。怒られていた理由は言わずもがなだ。隊長いわく、トーカはとんでもないわがまま高慢娘とのことだ。
なにも知らないくせに、とイラっとしたが、それをここで口にするほど命知らずなバカではない。
「モリス隊長。使用人の話では、コーエン侯爵令嬢さまは明日から王都にいる叔父の元へ出かけられるそうです」
それに併せて、すでに叔父であるロベルトさまに爵位が譲られることが正式に承認されて、彼女がコーエン侯爵令嬢から、コーエン侯爵の姪に肩書きが変わったのだと知らされた。
だからと言ってトーカはトーカであり、彼女の本質が変わるわけではないので、自分は眉を動かした程度の反応を示しただけだった。
むしろ、ロベルトさまで本当に大丈夫なのか? あの人、精霊のことしか頭にないのに……。と、そちらの方を不安に思ったほどだった。
そしてトーカも、わがまま娘ではないにしてもあの年になるまで邸に引きこもっていた、どこまでも世間知らずの箱入り娘だ。誰かに庇護してもらわなければ生きていけない、根っからのお嬢さま。
そして自分にとっての、かけがえのない大切な……お姫さまだった。
願わくば優しい夫に守られて、子供を産み育てて、これから先の人生に希望を持ち、幸せにすごしてほしいと思っていた。それが自分であればと、考えたことがないとは言えない。……いや、本当は、何度だってそういう未来を思い描いていた。
だけどなにも持たず、コーエン侯爵家の人たちに助けられて生きてきた自分が、誰かを守ることなんてことができるはずがない。
騎士になることを決意したのだって、はじめはただ彼女の隣に堂々と立つためだけの、不純な動機でのことだった。
そして邸を出るときに、一人前になるまでは自分の気持ちは封じようと心に決めた。
そのときにまだ彼女が俺を想っていてくれたのならば、たとえそうじゃなかったとしても、今度こそその手を離しはしない。迎えに行こうと――。
だがそれももう、過去の話。
俺はずっと勘違いしていた。
この先もここで生きていくのだと。永遠に彼女といられるのだと。
だけど運命は残酷で、俺はここにいていい人間ではなかったのだと知った。
だから、これでよかったんだ。
想いなんてなにも伝えないままで。誤解されたままで。……兄のままで。
俺にはトーカを守り続けることはできないのだと、嫌というほど思い知ったから。
だからもしいつか、俺の身になにかあったとき、彼女の悲しみが少しでも軽減するように、自ら距離を取るようにした。
この三年、会いたくても決して会いに行くことはなかった。
手紙で気丈にふるまう彼女を、見て見ぬふりをした。
そしていつしか、返事のひとつも書かなくなった。
――最低な兄だ。
そして今度は、望まぬ結婚を押しつけようとしている。
だけど今回の話は、ちょうどいいものだった。
……そう。ちょうど、よかったんだ。
トーカが望む相手でなくても。
トーカを愛していない、相手だとしても。
いや、だからこそ、だ。
浅ましいな、本当に……。
「向こうから行く気になってくれたんだから、ラッキーじゃないですか。外に出れば隙もできるし、サクッと捕獲して宮殿に連れて行けばこっちのものですよ」
レオが楽観的な感想をもらす。
トーカのことなど地面に根を張った荷物くらいにしか思っていないのだろう。引っこ抜けば、そのまま軽々運べると。
そう簡単にことが運ぶだろうか。
なにか突飛なことをしでかさないか、そこだけが気がかりだった。
髪を切ったくらいならばどうとでもなるが、あれが頸動脈だったならと考えるとぞっとする。
トーカが身体に傷をつけたりしないとわかっていても、心配なものは心配なのだった。
……たとえ彼女が、精霊によって守られているのだとしても。
「いや、そう見せかけて、途中で逃げる算段を立てているかもしれない。随行して、終始見張るように」
素早く明日の出発のための準備を始める仲間とは違い、この懐かしい土地をまた離れることに、少しだけ名残惜しさのようなものを感じた。
次はいつこの地を踏めるだろうか。
もしかしたら、もう二度と……。
「なーに感傷に浸っちゃってるの?」
レオが肩を拳で突いてきたから、同じ力加減で突き返した。
こいつは俺に構いすぎる。
「おまえ、また勝手にトーカと接触したら、今度こそ本気で殴るからな?」
普通の若い娘ならば、いくら顔見知とはいえ不審な男が窓から侵入してきたら大声を出して人を呼ぶくらいするものだ。なのにのんきに会話するなんて、男の恐さをまるで理解していないトーカに憤りすら感じた。
諸悪の根源は、目の前にいるこの軽薄な男の方なのだが。
「うげぇ。出たよ、シスコン。あーやだやだ。あんな綺麗な髪をバッサリ切っても、残念より先に、短くてもかわいいなぁ、とか思ってだんだろう、どうせ」
そもそも髪の長さごときで人の美醜を判断するこの風潮が間違っている。が、一応、否定はしておく。
「かわいいなんて、言ってないだろ」
だが本音のところ、しばらく見ない間にトーカはすっかり年頃の女性に成長していて、抱きつかれたときは内心かなり戸惑った。そして凛として髪を切り捨てた彼女を、かわいいではなく、綺麗だと思った。……ほんの一瞬だが。
怒りはしたけど、いつまでたっても俺の小さなお姫さまはやることが子供で安心した。中身が変わっていなくて、ほっとした。
だがそんなこと、言えるはずがない。
それにこいつに言っても仕方ない。
「へぇ、そう? 俺は結構かわいいと思ったけど? 髪短くても全然いける。あれ着痩せしてるけど、実は隠れ巨乳で抱き心地よさそうだし」
こいつ、こんな邪な目で俺のトーカを見ていたのか?
こんな男に、大事な妹が汚された。
下心を隠しもしない下衆な女たらしを、このまま野放しにしておくべきか否か……。
「顔怖っ! ……そんなに男を警戒するくせに、なんで結婚に賛成なんかするんだよ?」
「そんなこと……レオには、関係ないだろ」
「トーカちゃんの本音を聞き出してきた俺から言わせてもらえば、おまえのやってることって、夢見る乙女には酷なことだよ? 初恋のお兄さまに政略結婚させられそうになってて、しかもお相手の殿下にはもう――」
――ガンッ!
壁に拳を打ちつけて、レオを黙らせた。
「うるさい!! おまえが知ったような口を聞くな!」
わかってる。レオの言い分が正しくて、自分の考えが間違っていることくらい。……わかってる。
「はいはい。八つ当たりはやめてねー。かわいい妹に、ぼっこぼこにされた顔なんか見せたくないだろう?」
「……おい、てめぇ、なんで俺が一方的にやられることになってんだよ」
「あぁ? じゃあ、試してみる?」
睨み合ったところで、殺気とともに横面めがけて真っ赤なりんごがふたつ、勢いをつけて飛んできた。とっさに避けたが、壁にぶつかった衝撃とともに、りんごの果肉と果汁が飛び散る。
「うえぇ〜。汁ついた」
レオが顔についた汁を手の甲で拭い、顔をしかめる。
りんごを投げた張本人である隊長は、静かな怒りの形相でこちらを見据えていた。
「くだらないことで喧嘩をするな。そんな理由で怪我をして任務に支障をきたしてみろ、二人ともそのりんごみたいになることを覚えておけ」
どんな力で投げたら、りんごが砕けるのだろうか。
自分たちの身体のどこかが粉砕するさまを想像をして、レオと揃って青ざめながら震え上がった。
トーカには絶対に見せませんが、ケントは意外と口が悪かったりします。レオ限定かもしれませんが。