3・髪は女の命
『トーカの髪は、見てて落ち着く』
それはケントが昔、膝に乗せたわたしの頭を撫でながらぽつりと呟いた言葉だった。たぶん、自分でも気づかずに口にした本音。
嬉しくなって振り返ったのに、その視線はわたしではなく、どこか遠くを見つめていた。
思えばケントの横顔はいつも……そう。寂しそうに、わたしのいない場所ばかりを求めていた――。
好きでもない人と結婚なんて、わたしには到底受け入れがたいものだった。はっきり言えば、死んだほうがまし。
とはいえ本当には死にたくないから、拙い頭でとっさに考えた。
そうだ。結婚したくなくなるような、不美人になればいいのだ、と。
この国で、髪は女性にとって命と言っても過言ではない、わかりやすい美しさの基準だった。
とくに貴族の間ではそれが顕著で、どれだけ容姿が優れていても、髪に艶がなかったり、枝毛があったりするだけで、美への意識が低いと評され男性から嫌煙された。
短い髪なんて、もってのほか。男の人と大差ない扱いを受けることになる。
わたしは頭を振って、それから落ちた髪の束を集めると、唖然とする男たちへと突きつけた。
「わたしは死んだと、ご報告ください」
ざんばら髪の令嬢は、どう見ても王太子妃にはふさわしくない。わたしはたった今、女として、死んだ。
大人であり騎士の意地なのか、わたしから目を逸らさないモリスさんと視線をぶつけ合っていると、我に返ったうちの使用人たちが、ようやく状況を飲み込み、いくつもの悲鳴が轟いた。
恐ろしいことに、とさっ、と人の倒れる気配までした。
一旦睨み合いを中断させて、そちらへと振り返る。
すぐそこで、ノアが白目をむいて倒れていた。
たかが髪を切ったくらいで気絶までしますか、と本気で呆れた。
「トーカ!」
その叱責はケントのもので、反射的に身体がすくむ。
悪いことをした子は、誰であろうときちんと叱る。母さまの教えがまだ身についていたらしい。
こんなときばっかり、兄ぶって。
内心むすっとしていると、驚きの早さで鋏が取り上げられる。そして肩口で揺れる髪を、しばらく眺めていたケントは、はぁ、とため息をついた。
「啖呵を切ったり髪を切ったり……。やることが子供だ」
こつん。頭を小突かれた。
……あれ?
「怒って、ないの?」
てっきりそのままお説教コースだと思っていたのに。
「いや? ものすごーく、怒ってる」
ケントの貼りつけたような、にぃーっこりした笑顔が、言葉よりもそれを如実に物語っていた。
ケンカが怒っている。それもかなり、激怒している。
なにに、対して?
やっぱり髪を切ったこと? それとも死亡宣言したこと? もしかして、こっそり騎士たちをピシャリとやったのが、わたしの仕業だと気づかれてはいないよね……?
ケントを窺うと、まだ怒りが続いているのか、わたしをじっと見据えて睨んでいた。
「ケント……?」
「なんでもない。それより、髪をこちらへ」
ケントがわたしの手に握られていた髪の束を引き取り、モリスさんを仰いだ。
目だけで持ってこいと命じられたケントが、それを手渡すと、モリスさんが制服を漁って取り出した麻ひもで、ひとまとめに括った。そしてハンカチで包む。
「これでかつらを作れば、髪が伸びるまで凌ぐことができます」
そんな……、そんな解決策があっただなんて!
窓から捨ててしまえばよかった。
敵に塩を送ってしまったのは、痛恨のミスだ。
「かつらができあがる頃には、わたしはもうここにはいないかと思います」
「先ほどは油断していましたが、我々を出し抜いて行方をくらますのは不可能だとお思いください」
「こんな小娘に出し抜かれて恥をかく前に、撤退をしたほうが身のためです」
「任務を放棄することの方が我々にとって恥に当たりますので」
嫌味の応酬をなんとも言えない複雑な表情で聞いていた騎士の中で、ぷっ、と噴き出す声がした。レオと呼ばれていた、あの青年だ。
他の騎士たちは、わたしの断髪阻止の失敗を悔いているというのに。
「かわいい顔して言うことキツイねー。どうです隊長、一旦退いては? このまま本当に死なれても困りますしね」
頭の固そうなモリスさんは、レオさんからケントへと目を移した。
「ケント。お前をここに連れてきたのは道案内のためだけではないと、わかっているな?」
「はい」
「ならば率先して任務遂行することを心がけろ」
ケントは神妙に頷いた。
わたしを好きでもない相手と結婚させることに、唯々諾々従い、同意している。
胸が張り裂けそうに、痛む。だけど、胸を押さえて平静を装う。
気づくとレオが、こっちをじっと見つめていて、わたしはそっと顔を背けた。
「今は驚かれて心の準備もできていないのでしょう。今日のところは一旦引くことにいたしますが、邸の周囲に警備は置かせてもらいます。邸の出入り口をすべて、お教えください」
「ハドソン」
名前を呼んだだけですべて承知した彼に後のことは任せ、わたしは踵を返した。
一刻も早く、その場から離れたかった。
命令によってわたしに接触してくるケントに、やり場のない憤りをぶつけてしまう前に。
短くなった髪を、まだぷりぷりしていたノアが切り揃えて梳き、せめて艶だけはと香油をたっぷりとつけられた。
「本当に、本っ当に、トーカさまには驚かされます! この美しい濡烏色の髪を切るだなんて!」
何度目かのごめんなさいをすると、今度はしぼんだ声で尋ねてきた。
「あの、本当に……殿下との結婚を断るのですか? それで今後、どうするのです? 結婚しなくていい立場と言うとたとえば、修道院とかに行かれるおつもりですか?」
「そうですね。爵位は叔父さまが継ぎますし、わたしとしてはそれでも構わないとは思っています。修道院ならば、うまく逃げ込めさえすればその後は安全ですので」
どこか遠くにあてもなく逃げ続けるよりも、神に祈り続ける方が、まだ向いている。
わたしは死んだことにして、修道院に匿ってもらうのが今の最善策だった。
「そんなの、寂しいですよ! 修道院なんて、家族の面会ですらままならないところなのですよ?」
「それでも、好きでもない人と結婚するよりましです」
「もう……」
この件についてあれこれ言ってもだめだと理解したのか、ノアは諦めてため息をついた。
「あの、ところでトーカさま。騎士の……ケントさまとは、どのようなお方なのですか? トーカさまの兄代りで、確か元は……孤児、だと聞きましたが……?」
ノアがそうためらいがちに切り出した。
これまで邸で、ケントの話が話題にのぼることなかったのは、わたしの前では禁句というのが、使用人たちの間では暗黙の了解だったからだ。
母さまに続いて父さまがいなくなってしまったとき、悲嘆に暮れたわたしを慮り、昔から仕えてくれていた使用人がよかれと思ってケントを呼び戻そうとした。学院を出て、ようやく念願の騎士になったばかりのケントを。
もちろんそれは使いが出させる前に、わたしが自ら阻止をした。
わたしが寂しいと弱音を吐けば、せっかく努力して騎士となったケントの足を引っ張る。そう思った。
だからケントからこちらを気遣う手紙が届いたとき、平気だと、問題ないと、返事を書いた。
ケントの人生は、ケントのもの。彼が幸せになる権利を、わたしがじゃまするわけにはいかなかった。
わたしの想いに縛りつけては、いけない。
だってケントの本当の居場所は、ここではないから。いくら望もうと、どんなに願おうと、それはわたしのそばではないのだから。
わたしはただ彼に、彼が望む場所で、幸せになってほしかった。
ケントと初めて会ったのは、わたしがまだ五歳のとき。母さまがどこからか子供を保護して、うちへと連れて来た。その子供が、ケントだった。
事故か、事件に巻き込まれたのか、母さまが言うには記憶に曖昧なところがあって、ケントは名前以外の詳しいことはなにも話そうとはしなかったし、わたしも聞こうとはしなかった。
あの頃はそれを知ってしまえば最後、ケントはどこか遠くに行ってしまう気がしていたのだ。
結局のところ、ケントはわたしを置いて、行ってしまったのだけれど……。
「ケントはとても、優しい兄さまでしたよ」
そしてとても聞き分けのいい兄だった。優しい兄だった。大好きな……兄だった。
そしてわたしの手を離したのは、騎士になると家を出たときのたったの一度きりだった。
「そう、ですか。……ですがそのお優しいお兄さまが結婚を認めていらっしゃるのに、トーカさまはなぜ拒絶なさるのですか? 側妃ではなく正妃ですよ?」
「王太子妃なんて、わたしには荷が重すぎです。それに、王都には小麦畑もないですしね」
「まぁ、トーカさまが、王都よりもこの田舎の小麦畑の方が好きなのはわかりますけど……」
「ええ、小麦畑に勝る景色はありません。また彼らが説得にいらしたら、塩でも水でもかけて追い返してくださいね」
にっこりすると、ノアが「はぁ〜」と大げさなため息をついてうな垂れた。
わたしのお願いと、騎士たちの厳しさの間で板挟みとなり、困り果てるノアを想像して、少しだけ申し訳なく思った。