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30・兄の決壊



 トーカの部屋から殿下が出てきたのは、夜更けになってからのことだった。

 薬を飲んで眠ったというトーカのそばにしばらく付き添い、やっと重い腰をあげた殿下にいつもの冷淡さは感じられなかった。

 普段の殿下はどこへ行ったのか。

 トーカのことを見舞って、看病して。……どうしたいのか。


 親切心ならまだいい。だけどもし、もしだ。殿下の心がトーカへと振れてしまったら?


 偽りの婚姻が、真実になってしまったら……?


 そんな最悪な想像のせいで、ろくに仮眠も取れなかった。


 トーカには決して手を出さない約束でこの話を受け入れたのに、あいつ……。


 ここにいない相手を浮かべて宙を睨みつけていると、


『ケント……くろい』


 仮眠室に誰もいないのを確認してから、俺はひそめた声で返した。


「こっちが地だよ」


 ちら、と見遣るが、そこにはもう精霊はおらず、窓の外には青い月が狭い仮眠室の寝台に淡い光を落としていた。その窓を開けて、俺は地面へと降り立った。

 ここのところ、トーカを避け続けていた。

 近づいたら最後、離せなくなりそうだったから。

 殿下と見つめ合っていた日、嫉妬でどうにかなりそうだった。心穏やかになんて、いられなかった。


 なんでそんな、他の女を愛している男を――。


 日々仲良くなっていくふたりに、イライラが募る。

 適当に中庭を歩いていると、トーカの部屋の窓の下へと出た。

 偶然のつもりでも、身体は素直にここへと来てしまったことには気づかないふりをして、そこにいた同僚と少し早めに交代し、窓を仰いだ。

 気まぐれなのか、俺に気を遣ってるのか、ふよふよと宙に浮かんだ精霊が、トーカの部屋の窓を開ける。

 風邪が悪化するだろ、と睨むと、すぅっと闇に溶けて消えた。

 窓は放置だ。


「はぁ? ……閉めろって、こと?」

 

 そう文句を言ったものの、トーカの様子が気になっていたから、すぐに壁に手をかけてよじ登った。

 それにしてもこの壁の登りやすさ。侵入してくださいって言ってるものだ。


 昔からトーカの投げたぬいぐるみを取るために、木や屋根を登らされたりしていたせいで身軽になった、俺だけかもしれないけど。


 足音を立てずに部屋に入って、気配を殺して寝台へと近づく。部屋の外にはおそろしい隊長がいる。見つかったらおそらく、ただでは済まない。

 警護対象者以前に、未婚女性、しかも未来の王太子妃の寝室に忍び込んだのだ。兄という立場を言い訳にしても、説教くらいは食らうだろう。

 それでも、間近で見て、具合を確かめたい欲求が勝った。

 寝台でよく眠るトーカの、布団からはみ出た白い手の甲へと月明かりが注ぐ。頰は微熱で火照り、子供みたいなりんごほっぺだ。

 額に乗ったタオルが半分ずり落ちていたから、すっかりとぬるくなっているそれを、起こさないように直した。

 そのとき、ふるっとトーカの長いまつ毛が揺れて、中途半端な姿勢で息をとめる。そのまま十秒数えてもまぶたがあがらなかったから、ほっと息を吐き出して寝台の縁に肘をついた。

 トーカに見つかっても、妹の看病という大義名分があるのに、どうしても後ろめたさが胸を占める。

 はぁ、と陰鬱なため息をつくと、目の前にあったトーカの手がぴくりと動いて、なにかを探し求めるようにこちらへと伸ばされた。

 とっさに、その手を握る。すると眠ったまま安堵の表情をしたトーカが指を絡めてきて、心臓が嫌な具合に跳ねた。

 しかし喜びはすぐに、戸惑いに変わっていく。


 こんな繋ぎ方……俺とは、したことがない。

 

 無表情のまま、その手をぎゅっと握り返すと、


「うぅ……ん?」


 なにかを探すようにこちらへと顔を向けたトーカの額から、タオルがぽとりと落ちた。

 ぼんやりとした瞳がまぶたから一度覗いて、へにゃっと笑ったと思えばまた閉じる。夢うつつの状態で、寝返りを打ち、俺の方へともう片方の手も伸ばしてきた。


 …………誰と、間違えてるんだ。


 どうしようもなくイラついて、それでもその手を取ろうとした――瞬間、思いの外強い力で引き寄せられた。

 気を抜いていたから、とっさにバランスを崩した。このままだと押しつぶす。反射的にトーカの顔の横に手を突いて身体を支え、どうにか勢いを殺した。


「あ、危なっ……、かったー……」

 

 騎士の中では体格のいい方ではないけど、さすがにあのままのしかかってたら怪我をさせる自信がある。肋骨が折れたりとか、シャレにならないだろう。

 ほっとした拍子に、視線を感じて見下ろした。

 トーカの、熱に浮かされて潤んだ瞳と絡む。


 え、と思った。驚いた。こんな顔するんだ、と。


「……夢?」


 トーカがなにか呟き、聞き取れずに顔を寄せた、そのときだった。トーカが幸せそうに微笑んだ。

 また心臓が鳴った。こんな笑顔、いつぶりだろう。

 特に離れてからは、こんな風に笑顔を見せてくれることもなくなった。

 見惚れていると、距離が詰められた。唇に、熱くて、ふわりとしたものが触れる。


「――っ!?」


 目を見開いた。近すぎて表情がわからない。……だが、キス、してる。今。

 妹と。……トーカと。


 かぁっと、全身の血がのぼった。

 額にしたことはあった。寝ているときに。だけど、唇にしたことなど、一度だってない。幼いときにだって。

 それはお互いの想いが通じたときにだけ、許されるものだから。


 それをこんな、事故みたいに……。


 俺が呆然としている間に、ゆるりと唇が離れた。寝ぼけていたのか、トーカは目を閉じると枕へと深く頭を沈め、すぅすぅと健やかな寝息を立てはじめる。


「……」


 その寝顔を見ていたら、無性に腹が立ってきた。


 誰とキスしたつもりでいるんだ。殿下か? 一瞬浮かれた自分が滑稽すぎる。ぎり、と枕を握り、ふと思いついた。


 ……俺だと知ったら、どう思うんだろう。


 肩を揺らすと、トーカがうっすらと目を開けた。焦点が合っていない。完全に意識が戻るのを一秒も待つことなく、俺は唇をそこへと押しつけた。

 嫌われてもよかった。別に。嫌ってくれていい。

 どうせもうすぐ、俺はここを去る。

 ぱちっと瞬きをしたトーカが、なにかを紡ごうと唇を動かすけど、それを阻止して口づけ続けた。

 熱が見せた夢だと思ったのか、それ以上トーカがなにか言おうとすることはなく、されるがままに受け入れた。

 次第にまどろんでいく彼女に、俺は名残惜しくもう一度だけ唇を重ねる。


「……全部、夢だから」

 

 囁いて、そっと彼女のまぶたを下ろす。


 夢でもいいから、覚えていてほしい。


 夢だから、忘れてほしい……。


「悪い、夢だから……」


 どちらを本当に願ったのかわからないまま、ぬるいタオルを戻して、静かに身体を離した。

 見下ろす先で、赤くぬれた唇が息をする。その唇のやわらかな感触がなかなか離れない。

 手で顔の半分を覆い、ため息をつく。発熱したみたいに顔が熱い。



 頭を冷ましてから、俺は部屋を後にした。

 きっちりと窓を閉めることは、忘れずに。





やっと、ここまで……。長かった。

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