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29・微熱



 道中が危険だからと、わたしたちはしばらく宮殿内に留まることになった。

 それはそれは暇で退屈な毎日だ。あれ以来、特に危険を感じることもないというのに。

 嵐の前の静けさなのか、それとも、鉄壁のガードによって手出しできない状態なのか。

 このままではうつらうつらしている間に結婚式当日になってしまう。

 結婚はしたくない。だけどこの頃は、仮病も使いすぎて信憑性を失いつつある。

 騎士たちはまたか、というように、しらーっとした目を向けてくる始末だ。


 ……え。わたし、このまま結婚するの?


 愕然とした。もう手札がない。


 いっそわざと隙を作って殺されたふりでもしたら……、いいえ、それはだめ。わたし殺しの犯人の思惑通りにことが運ぶのは気にくわない。


 そうなるとわたしが折れるしかないのだけれど、わたしにもわたしの望みがある。

 殿下のことははじめほど嫌いではなく、多少打ち解けたものの、恋い焦がれるような切ない想いを抱くことは一生ないと思う。それに好きな人のいる相手を好きになるなんて、虚しすぎる。

 そうでなくてもわたしの心にいるのは、相変わらず、あの人だ。

 最近めっきりとわたしの前で口を開かなくなった……ケント。

 なにか怒らせるようなことをしたのかもしれないけれど、これといって思いあたる節が見あたらない。

 今日は叔父さまがめずらしく仕事に集中しているらしく、ノアも忙しくしているので話し相手がいない。

 わたしはそろりとドアを開けて、廊下を窺った。


「用がないのなら室内から出ないでください」


 あっさりと見つかり、モリスさんに叱られた。

 わたしにだって、なにか用事があるかもしれないというのに。


「庭に出たいです」


「庭でなにを?」


「……」


 言い返せずに、そろりと引き下がった。


 モリスさんたちも、わたしのために護衛をしてくれているのだから、たまには労わらないとね。


 ため息をついて窓辺に近づくと、ふいに外から争うような声がした。

 興味本位で窓を開けて下を覗くと、ケントレオの仲良しコンビが、喚く少女をどうどうとなだめているところだった。


 あれは……マイヤー侯爵の娘の……。


 名前を記憶の底から引っ張り出そうとしていると、わたしが上から見下ろしていることに気づいて、今度はこちらへと叫んできた。


「引きこもりの卑怯者ー! 出てきなさいよっ!」


 私だって好きで外出制限されているわけではないのだけれど。

 身を乗り出すと、彼女かますます怒りをあらわにした。


「なんであんたなんかが王太子妃で、そんなところで守られているのよ! どんな汚い手を使ったの!?」


 前から思っていたけれど、ずいぶんと苛烈な令嬢だ。ひゅん、と石が飛んできた。しかし、かすりもしない。

 室内に入り込んだ石を眺めていると、ケントが慌てた声をあげた。


「トーカッ! 大丈夫か!?」


 当たっていないどころか石が大きく逸れて部屋に飛び込んできた瞬間を見ていたはずなのに、ケントは今までの沈黙が嘘だったかのように、大急ぎで壁を這う蔓を伝って登ってきた。


 こんなに楽々人が登って来られるこの部屋の、安全性に問題がある気もする。


 それでもケントがこうして血相を変えて飛んできてくれるのは嬉しい。顔に出しはしないけれど。

 ケントは部屋に入り込んでくると、内側からぴしゃりと窓を閉めた。

 外からはまだ、マイヤー侯爵令嬢の喚き声が聞こえてくる。


「なんで顔を出す」


「……騒ぎが気になったので」


「ちょろちょろと顔なんて出してたら、意味がないだろ」


 ケントはまだピリピリが続いているらしい。口調がぞんざいだった。


 わたしは一体、なにを怒らせたのだろう……?


「なにか……怒ってますか?」


 おずおず尋ねてみると、ケントは一瞬だけ目を見開いて、それから緩く首を振りながら苦笑した。


「怒ってないよ。なんで俺がトーカに怒るの? 全っ然、怒ってないから」


 いえ、怒っていますよね?


「じゃあ、まだ仕事があるから」

 

 その仕事がわたしを守ることならば、まだここにいてくれてもいいはずだ。


 そばで守ってくれる方が確実ではないの?


 それとも、そんなにわたしと一緒にいたくないの?


 そんなことは言えるはずなく、わたしは退室するケントの背中を見送るしかなかった。

 せめてもの反抗で、さっきケントが閉めた窓を全開にしておいた。








「トーカさま! また窓を開けっ放しで寝て! 風邪を引きますよ!?」

 

 ノアに肩を揺すられて、ぼぅっとしながらテーブルから顔を起こした。寝ぼけ眼でノアに焦点を合わせると、頬を手のひらで掴まれた。


「あぁっ、ほらぁ! 頰が少し熱い!」


「そう……ですか?」


 寝起きだから頭がぼんやりしているのかと思っていたけれど、ノアは熱があると断定した。

 最近やけに眠かったのはその前兆だったらしい。

 そこへ窓を開けてテーブルに突っ伏していたものだから、余計にいけなかった。


「熱があると言われると、そんな気もしてきました……」


 だるい……気もする。


「だから窓は閉めるようにいつも言っているのに!」


 ノアに寝台に直行させられて、布団を何枚も重ねられて、寝るように命じられてしまった。


「お医者さまを呼んできます。それと、ロベルトさまにも伝えますからね」


「……はい」


 ぷんすかとしたノアが出て行き、わたしは額に乗せられたぬれタオルの位置を正して、おとなしく両腕を布団の中へと入れた。

 風邪なんて引いたのは、いつぶりだろう。


 殿下に嫌味を言われそう……。


 そう思っていたところに、殿下が現れて、開口一番こう言った。


「なんとかは風邪を引かないというのに」


 病人に対して、容赦のない一言だった。


 こうして執務中に駆けつけてきたのは体裁のためかというわたしの卑屈な考えを読んだのか、殿下は寝台のそばまで椅子を持ってきて腰を下ろすと言った。


「お望み通りにしばらくそばにいてやる。感謝することだな」


「まったく嬉しくありませんけれど……」


「喜ばせようとは思っていない。……しかし、病弱もあながち嘘ではなかったか」


 都合がいいのでそこは沈黙しておいた。

 遅れて宮廷医が来て、物々しい様子で診察を受けたときには、なにかめずらしい病なのではないかとどきどきとしていたのに、ただの風邪だと告げられ拍子抜けした。

 微熱だからと熱冷ましの薬ももらえず、だるいまま二、三日安静にしているよう言われた。

 どの道部屋から出してもらえないのだから、寝ているしかない。


「執務とか、……あの子とか、放っておいていいのですか?」


「嫉妬か?」


 素で訊かれた。

 なにを自惚れているのだろう、この人は。


「痛い人を見る目で私を見るな。……おまえが、余計なことを詮索してくるからだ」


 殿下が腕を組んで、ついっと目を背ける。


「殿下って、たまにかわいいですよね」


「……。よいか? 男に対して、かわいいは褒め言葉ではない。それよりも、話していて平気か?」


「ええ。ぽわぽわしてて、いい気分です」


 へら、と笑うと、殿下が深刻そうな面持ちでわたしの首筋に手を当てて、サイドテーブルに置かれた冷水を無理やり飲ませてきた。


「熱が頭にまで影響を及ぼしている」


 わたしだって、へらへらすることぐらいある。

 彼に背中を支えられて、グラスを唇に当てられたので少しずつその水を嚥下した。

 冷たくて、喉が気持ちいい。


「手のかかる娘だな。……弟の世話をしているような気分だ」

 

「せめて妹に、ごくっ、してもらえませんか……ごくん」


「妹か……」


 なんとなく今後、わたしは妹的な立ち位置の友人になりそうな気配がする。


「私では、あの兄のようにはなれないがな」


「ケントが、どうかしましたか?」


「たまに殺気を感じる」


「まさか」


 ケント……君主相手に、なんて無謀なことを。


「口ではおまえのことを大切にしろと言うくせに、目では触れるなと訴えてくる。結局どうしてほしいのか。シスコンの度がすぎる」


 殿下の口から、シスコンなんて言葉が出てくるとは思わなかった。

 昔なら、わたしの言うことはなんでも聞いてくれたからシスコンと言われてもわかるけれど、今はそこまでではないと思う。


「おしゃべりはここまでだ。眠って早く回復することだ」


 殿下の手のひらでまぶたを下される。わたしが根負けして寝息を立てるまで、そのあたたかい手は目元を塞いでいた。




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