2・兄との再会
精霊信仰がかすかに残るコーエン侯爵領の、半分こそ未開で広大な森に占められているが、残りの半分は領民が暮らすには十分な土地の広さを持ち、農作物を育てるに適した肥沃と気候に恵まれていた。
特産は小麦であり、収穫時期になると、村は見渡すかぎり一面の黄金色に輝く。それは圧巻で、わたしはそれをこの世界で一番綺麗な景色だと思っている。
今はその光景にはほど遠く、まだわたしの膝よりも低い背丈の青々とした苗が整列しているだけだ。
それはそれでかわいいのだけれども、成長が待ち遠しい。
そしてその畦道とも呼べる狭い道を抜けてきたのだろう、このあたりでは見ない当風の馬車は、昨日まで降り続いた雨のせいか泥が跳ねて、その威厳をいくぶんか失って見えた。
厩舎には、騎士が乗るような目つきの鋭くがっしりとした馬たちが増えていて、うちのおっとりした性格の馬たちが完全に萎縮してしまっている。
かわいそうだから、ここは早くお帰り願わないと。
しかし、これだけ見れば、確かにノアの話が冗談などではなく、城からの使いが来ているらしいことは理解した。
だけど領地に引き込もって数年、病弱設定の侯爵令嬢であるわたしが、なぜ矢面に立たされなければならないのかがわからない。まったく。
邸に入ると、使用人たちが猫に追われたねずみのように方々から駆け出してきた。
「トーカさま、王宮からの使いの騎士がいらしております」
みんなを代表して、家令のハドソンがノアと同じことを神妙に告げた。
その表情を見るかぎり、どうやら全員でわたしをかつごうとしている様子ではなさそうだった。
だけどわたしが王太子殿下に嫁ぐなんて、ありえることなの?
「それで、トーカさま。落ち着いてお聞きくださいませ。その騎士の中にケ――」
家令が続けようとしていた言葉を遮るように、いくつかの足音が廊下を鳴らし、わたしは意識ごと視線が逸れた。
応接室から現れたのは、軍服をかっちりと着こなした青年が数人。
使いが騎士だけなことを怪訝に思っていると、その中でひとり、わたしと同じ髪の色をした青年がいることに気づいた。その瞬間、思考していたことをすべて投げ出し、はっと息を飲んだ。
「ケ、ケント……?」
いくら時を重ねて大人っぽくなっていても、本当の兄のように自分をかわいがってくれた人を、そうそう見間違えるものではない。
記憶の奥底から湧き上がった子供のころの思い出が、ぶわっと脳裏に駆け抜けた。それらはまだ、少しも色褪せることなく、わたしの身体のそこかしこにしっかりと刻みこまれている。
繋いだ手の優しさだったり、おんぶしてくれた背中のあたたかさだったり……。
彼は他の騎士たちよりも若干背が低く細身に見えるけれど、その身体が鍛え上げられていることは服越しにでもよくわかった。
それは離れてからの年月の苦労をそのまま物語っているようで、胸がきゅっと締めつけられる。
ハドソンがさっき言いかけたのは、きっとこのことだったのだ。どうでもいい結婚話なんかよりももっと重要な、彼が帰ってきたというその事実を、なによりも真っ先に伝えようとしてくれたのだ。
わたしは涙を堪えて、もう一度はっきりと彼の名を呼んだ。
「ケント……!」
こうして顔を合わせるのは、何年ぶり?
前に手紙が来たのは、もういつのことだった?
感極まって抱きつくと、ケントの、困ったような小さな吐息が落とされた。
顔を上げ、おそるおそる頰へと触れてみる。
身体も顔つきも、もう大人の男性へと成長してしまっていた。
確かめるようやわやわと何度か撫でると、その瞳にわたしが映った。やっと、こちらを見てくれた。
ああ、ケントだ!
ほっとして、同時に少しむくれた。だけどそれを悟られないよう、隠した。こんな子供じみた感情、見せたくはない。
再会を見守る周囲の静寂ののち、ケントの手がそっとわたしの肩へと触れた。
その手から感じたのは、かすかな……拒絶。
あ、と思った。引き離される。あのときのように。
――嫌だ。
だめなのに、身体が勝手にしがみつこうとしたそのとき、ケントの隣から、場違いな口笛の音が響いて空気が変わった。
「やるねぇ、クラウチくん。女に興味のない堅物だと思いきや、実はいい子がいたってわけか」
軽薄でつまらないその揶揄に、ケントの表情に険が混じる。ただ、本気の怒りではない、気安さも感じられた。
誰……?
「……くだらない冗談はやめろ、レオ」
咎めるケントに彼は、「はいはい」とめんどくさそうにあしらう。
その間合いは仲の良い友人関係に思えて、どちらにともなく問いかけてみた。
「……お友達?」
その質問に、二人揃って、うげぇ、と顔をしかめた。
これは母さまの国の諺でいうところの、『喧嘩するほど仲が良い』というやつだ。なんだか、羨ましい。
二人の脇から、別の騎士が前へと出てくると、ケントは抱きつくわたしをそっと引き離して、かしこまった礼をした。この中でのトップが、彼らしい。髪を撫でつけ鋭い眼光をしている彼は、立ち姿だけで隊を率いる者としての風格がにじみ出ていた。
そしてあのケントが、仕事用の、わたしの知らない顔をして後ろに下がる。
こんな、精悍な顔つきをするようになったのね……。ふとした拍子に、今にも泣いてしまいそうに顔を歪ませていていた、あの少年が、もう立派な騎士に……。
――父さまと母さまに、見せてあげたかった。
それがもう二度と叶わないことだとしても。そう思わずにはいられなかった。
「申し遅れました。私は近衛騎士隊第三部隊隊長トーマス・モリスです。お嬢さまが、トーカ・コーエン侯爵令嬢さまご本人でよろしいでしょうか」
所属や役職を言われても、騎士の組織についてはまったく詳しくはない。無知を隠して、そこには触れなかった。
「はい。トーカは、わたしです。それでこれは一体……なにごとなのでしょうか?」
「お聞きになってはおりませんか?でしたら私から改めてご説明いたします。――王室より、トーカ・コーエン侯爵令嬢さまを、ジェイド王太子殿下の正式な婚約者として警護し、宮殿へと無事にお連れするよう命令を賜って参りました」
後ろに控えていたノアが、ほら見なさいとばかりに鼻を鳴らす。
「それなのですが……本当のことですか?大がかりな、ドッキリとかではなく?」
「ドッキリ、ですか?」
反応に困ったモリスさんの背後で、ケントがかすかに首を横に振った。
『ドッキリ』は、わたしとケントの間にしか通じない、母さまが教えてくれたいたずらだったことを思い出して言い換えた。
「わたしが王太子殿下と結婚だなんて、悪い冗談にしか聞こえないのですが」
未だ訝るわたしに、なぜかノアが誇らしげな顔で耳打ちしてきた。
「トーカさまのお立場ならば、なんらおかしいことではありません。元を辿ればコーエン家は、王家の血筋ですからね」
何十代も遡ればそうではあるけれど、今のコーエン家に栄光も威信もあったものではない。
小麦好きな、ただの一侯爵家だ。領民に慕われていることだけを誇りに、地味に細々と暮らしてきた。
今さら王家やら王子やらと関わる気はさらさらないし、興味もない。
病弱を理由に社交界デビューもしなかったわたしが、間違っても見初められるはずがないのに。
まったくおかしなことになったものだ。
「悪い冗談、ですか。王子さまと結婚、というのは女の子の憧れだと思っていましたが……」
「わたしの王子さまは、わたしが決めます。わたしは一度も話したことのない相手と結婚する気はございません。どうぞそう、お伝えください」
お帰りはあちらです、と玄関を示す。
騎士たちには、どんより重たい空気がよぎった。
普通のご令嬢ならば、喜び勇んでついて行くから、簡単な任務だと高を括っていたに違いない。
あいにくわたしはこうだし、後押しするような両親もいない。
ただひとつ問題だったは……わたしの兄代わりが、敵陣にいたことだった。
「トーカ……いえ、トーカさま。突然のことに驚かれたのはわかります。ですがよく考えてください。これはとても名誉なことです」
ケントが他人行儀な敬語で諭してきた。
いかに王太子妃になることが難しく栄誉なことかから始まり、果ては国王の意向に背いてコーエン家が取り潰されてもいいのか、とか、そうなったときに混乱するのは領民だ、とかなんとか。
わたしの気持ちなんてまるで無視。これっぽっちも、考慮してくれない。
そのことが一番、悲しかった。
他の誰でもなく、彼に言われることが、どうしようもなく……苦しい。
けれどそれを、表に出したりはしなかった。むしろ逆。わたしは彼らを、半眼で見据えて堂々と対峙した。
「……ノア」
「なんでしょうか?」
「鋏を」
前を見たまま右手を差し出すと、ノアは青ざめて、嫌々と首を振った。
同時に騎士たちの間に、緊張が走る。
「鋏を貸しなさい」
わたしが誰かに命令することはほとんどない。だからこそ、彼女は臨機応変に対応できなかった。どうすればよいか判断する余裕も与えず、逆らえないようにさらに厳しく要求した。
「鋏を貸して。誰も傷つけたりしません」
武器として使うのではない。その安堵から、ノアはわたしに鋏を渡してしまった。どう使うのかも、考えないままに。
緊迫する王家の飼い犬たちへ、わたしは鋏を構えると声を張った。
「もし、これ以上あなたがたがわたしに結婚を強要するのならば、仕方ありません。こちらにも考えがございます」
「その鋏でこの場を切り抜けると?」
騎士たちに、鼻で笑われた気がした。
屈強な彼らを相手に、鋏を振り回したところで敵うはずがないことくらい、引きこもりのわたしでもわかっている。
だけど小娘には小娘なりの、流儀というものがあるの!
「もう一度言います。お帰りは、あちらです」
きっちり十秒待った。誰も動かない。答えは、否だ。
ケントと目が合う。なにを考えているのか、わからない。あの頃のように、彼の心にはどうしても、触れられない。
動かないのは、上司に逆らえないから?
それとも……わたしに愛のない結婚を望むから?
わたしが鋏の先端を自分へと向けると、さすがに周囲の空気と顔色が変わった。
騎士たちが動く。だけど、もう遅い。方々から伸ばされた腕を、タイミングよく窓から入り込んできた突風が、弾くようにピシャリと打ちつけた。
なにが起きたかわからず動揺した騎士たちが怯む。
そのこけおどしで時間を稼いだ隙に、なんの躊躇いもなく、わたしは一太刀入れた。
――ジャキン。
清々しい音が鳴り響く。
目を見開く男たちを嘲笑うかのように、黒い髪が、はらはらと床に散った。
頭が軽い。しがらみから解き放たれて、今にも空を飛べそうな自由な軽さだった。
そうしてわたしは息を吸い込み、宣言した。
「わたしトーカ・コーエンは、たった今、自害いたしました!」
理解できずにぽかんとする大人たちの顔は、なかなかの見ものだった。
自害の意味は、次回に。




