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26・抱擁の意味



 しかしグラスになにかが入っていたのは確実なのに、それを証明できないことがもどかしい。

 証拠はもうすでに片付けられていると思う。少しでも飲んでいて、体調に異変をきたしていたら、わたしを殺そうとした犯人を捕まえるなりできたのに。

 それでも、精霊のおかげで誰かに危害を加えられる心配がないことに、感謝しないといけない。


 だだ……、わたしは安全だけれど、たとえば叔父さまが代わりに狙われたりはしない……よね?


 わたしよりも死ななそうな人はあっても、たぶん毒には負ける。


 精霊が守ってくれるといいのだけれど、果たしてこんぺいとうでそこまでの買収ができるかどうか……。


 だけど叔父さまは、精霊に対して鬱陶しいほど愛情と情熱的を注いぎつつも敬意を払っているから、実はわたしの知らないところで守られていたりするかもしれない。


 母さまがいれば、意思の疎通ができたのに……。


「なに考えてる? 犯人を捕まえようとか、無謀なこと考えてない?」


 わたしは形容しがたい表情のまま、無言でケントを見上げた。

 残念ながらそれは考えていなかった。まったく。

 そんなことよりも、こうしてケントがわたしの心配をしてそばにいてくれることがなんだか無性に嬉しくて、これまで抑えていた気持ちがあふれてしまいそうになってしまう。

 最低ね。そう思うのに、わたしはこうして一緒にいられることが、嬉しくてたまらない。

 きっと今だけは、わたしだけを見ていてくれる。

 それがたとえ、毒殺されかけた可哀想な妹を見る目だとしても、わたしだけを。


 ……あら? そういえばわたし、さっきケントにお姫さま抱っこされなかった?


 毒のことで頭がいっぱいだったせいで、あまり堪能できなかった。


 なんてもったいない!


 殿下にされるのとは全然違った。気分の問題かもしれないけれど。

 だめなのに、無表情でいるのが難しい。どうしよう……。今ここで天国から地獄へと突き落とされたら、立ち直れないかもしれない。

 もし、ケントの顔に困惑が混じったら――。


「やっぱりなにか、企んでない?」


 ……まだ疑われていた。


 よかったけれど、わたしに対する信用はどこにあるのだろう。


 わたしはそんなに悪巧みばかりしていると思われているの?


 だけどこれで、多少挙動が怪しくても大丈夫そうなことがわかったので、むしろ妹なら、もっと怖がって縋ってみてもいいのではないかという都合のいい考えが浮かんできた。


「トーカ」


 疑り深いその眼差しが痛い。


「なにも考えていません」


 本当は考えていたけれど、それでもケントが懸念していることに関してではないから、嘘はついていない。


「ただ少しだけ……怖くて」


 口に出してみると、見ないようにしていた怖ろしさが遅れて追いかけてきて、わたしの手がふるりと震えた。

 実際はなにもなかったけれど、わたしは誰かに殺されかけた。それだけは、揺るぎない事実だ。

 だけどその瞬間、ケントの顔に苦痛がにじみ、わたしは言葉を間違えたことを知った。

 ケントを責めたいわけではないのに。

 わたしはケントの腕に触れて、平気なそぶりで笑ってみせた。


「なにもなかったのだから、わたしは大丈――!?」


 突然、目の前が真っ暗になった。なにかに覆われて……違う、抱きしめられた。

 相手は他にいない。今わたしは、ケントに抱きしめられている。

 ――なんで。どうして。

 そんなの、妹を慰めるために決まっているのに、わたしの心が勝手に、どうしようもなく無邪気な期待をする。

 人がどれだけ時間をかけて、苦労して、長年積み重ねたこの想いを封じてきたと思っているのだろう。

 どれだけ腕を回してしまわないよう、わたしが耐えているのか、ケントにはわからないのだ。

 わたしはなけなしの理性で、くぐもった声をもらした。


「ケント……苦しい」


「……うん」


 ケントの純粋な慰めに、今だけ、今だけ……と、彼の背に腕を回しかけたところで、がさ、と草むらの揺れた音がして、わたしたちはとっさにお互いを突き放して離れた。

 にゃー、と鳴き声がして、苦笑する。どこかから猫が紛れ込んだらしい。

 ケントを見上げると、苦々しい顔で草むらを見据えていた。


「猫、います?」


 ほの暗いから、わたしにはよく見えない。


「……ニタニタ笑いなのが、一匹」


 あら? 猫って、笑うものだった?


 飼ったことがないからわからない。


「……トーカ。戻っても、平気か?」


 ……そうね。戻りたくはないけれど、戻らないと。叔父さまが気がかりだから。色々な意味で。


 それに。想定外な事態に忘れてしまっていたけれど、今度こそ盛大に倒れてみせないと。

 ぐっ、と軽く拳を握ると、ケントがその手へとハンカチを巻きつけて結んだ。

 支給品なのか、真っ白なそれには、隅に近衛騎士隊の紋章が金の刺繍が施してある。


「怪我は大したことがなかったけど、一応応急処置をしたという体で」


 ケント指示通り、わたしは真実を隠して、口裏を合わせることにした。


「ハンカチは洗って返しますね」


 わたしがそう言うと、ケントは笑いながらうんうんと頷いた。


「トーカはお嬢さまなのに洗濯は得意だから……あ」


 わたしがじろりと睨みつけると、ケントがわかりやすく表情を引きつらせて怯んだ。

 こればかりは、乙女として見過ごすわけにはいかなかった。

 ケントとの思い出はすべて大切だけれど、その記憶だけは、根底からすべて消し去りたい。


「えっと……こ、転んで服を泥だらけにしたり、いたずらしようとして小麦まみれになったりしたときのことで……」

 

 たじろいぐケントが口を開けば開くほど墓穴を掘っていく。


「……ほら、ロベルトさまが心配してるだろうから、もう戻ろう」


 ケントが自らの失言をなかったことにして、わたしのハンカチを巻かれていない方の手を取った。

 それだけで簡単に許してしまう。ずるい。

 仲良しな兄妹。わたしたちは、仲良しな兄妹……。

 呪文のように心でそう繰り返しながら、わたしは渋々、悪意ひしめくきらびやかな会場へと舞い戻った。

 



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