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25・くだけるグラス



 精霊学者の叔父さまと騎士の兄さまに挟まれ会場入りしたわたしに向けられた視線のほとんどが、「誰……?」という疑問に満ちていた。

 誰かが叔父さまの存在に気づき、そこから「ああ、あれが……」という囁きへと変わっていく。


「うちのトーカが目立っているね」


 叔父さまはまるで自分が注目されているかのように嬉しそうに呟く。

 それにケントがなるべく人の視線に入らないよう気配を消しつつ、そうですね、と短く答えた。そして本来の仕事へと戻っていく。わたしとは、目を合わせてもくれなかった。


 本当、ひどい兄さまね。


 ケントを見つめていると、入れ違いで向こうから殿下がまっすぐわたしのところまでやって来て、叔父さまとエスコート役を交代してしまった。


「はじめは叔父さまと踊ります」


 最初はエスコートしてくれた人と踊るのが慣例だった気がする。あまり興味がないから覚えていないけれど。


「足を踏まれたくなければ私にしておけ」


 叔父さまをちらっと見遣ると、にこにこしているだけで反論をしない。

 叔父さまは練習こそしていたかもしれないけれど、実践から遠のいて久しい。それに比べて普段から踊り慣れている殿下ならば、わざとでない限り足を踏まれたりはしないと思った。


 しかし目下の問題は、相手に足を踏まれないかではなく、わたしが足を踏まないか、ということだ。


「わたし、踊ったことはないのですけれど」


「……一度もか?」


 殿下が顔をひきつらせた。


「原理はわかります」


 つまりは相手に合わせてステップを踏めばいいということだ。


「……」


 殿下が絶句した。わたしのささやかな初勝利だ。


「それに病弱なので、激しい動きはちょっと……」


 病弱設定は嫌なことから逃れるために便利すぎた。殿下までも、それを利用することに決めて、わたしの腰を抱いてしっかりとささえる……ふりをした。

 会場内にざわめきが起こる。

 他のふたつの侯爵家のどちらかが有力視されていたところへの、まさかのコーエン侯爵家令嬢。

 そのふたつには敵わないと諦めていた人たちが、うちの娘でもいいのでは……、という思惑を称えた眼差しを注いでくる。

 それに殿下が先制して、まるで意中の相手にするかのような、優しい微笑みをしてわたしの髪にキスを落とした。

 さっきまで以上にあたりがざわつく。

 わたしとしては、一度手を離れたかつての髪の毛に、なにをされても平気だった。かつらでよかった。

 逆に頬や手にキスされていたら、完璧な演技に亀裂が入るかもしれなかったけれど、と、そこまで考えてはたと気づいた。


 ……あら? むしろその方がよかったのでは?

 いつの間にか殿下への対抗意識で、いいように手のひらの上で転がされてない?


 内心愕然としていると、そこへ白髪の混ざる灰色の髪を後ろへと撫でつけた紳士がこちらへと向かって来るのが目に入った。

 若白髪なのだろうか、顔はまだ若そうにも見える。

 ちらっと叔父さまを窺うと、にこりとして答えをくれた。


「ハンセン侯爵だよ」


 マイヤー侯爵ではない方の侯爵だ。


「ようやく婚約者をお披露目ですか。これはまたかわいらしいお嬢さんですね。おめでとうございます」


 社交辞令感はすさまじいけれど、嘘っぽい口調ではなかった。

 殿下が杓子定規に礼を言うと、ハンセン侯爵は叔父さまにも祝辞を述べる。

 侯爵家を継いだことと、わたしのことに。


「娘のことは残念でしたが、まぁ、こればかりは仕方ありませんね」


 彼はそう言い残すと、あっさりと去っていった。


「ハンセン侯爵の娘さんは来ていないのですか?」


「来ているとは思うが……おそらく、弟のところに行っている」


「あら。殿下、弟君がいたのですか?」


 殿下が言葉を失った。冗談なのに。


「ですけれど、殿下の元婚約者候補が弟君にアプローチをかけるのは、年齢的におかしくありませんか?」


 殿下の弟はまだ十歳くらいだったと記憶している。


「おかしくはないと思うよ。女性が年上なんてよくあることだからね。十代の年の差なんて、二十歳過ぎれば些細な差だよ」


 言われてみればその通りだった。

 しかし、あっちがだめならこっち、なんて。変わり身の早い。

 わたしには無理な気持ちの切り替えだ。

 だけどそのご令嬢も殿下のことが好きで婚約者候補になっていたわけではなかったのかもしれないと思ったら、なんだか可哀想になってきた。

 ハンセン侯爵がいなくなったのを見計らったかのように、今度はマイヤー侯爵が娘を連れてやってきた。先を越されたことを不服そうにハンセン侯爵をひと睨みしてから。

 こちらはまだ殿下を諦めきれていないらしく、わたしに向けた視線がギラギラとしている。

 侯爵が、殿下と娘を踊らせようと話しかけているので、適当に聞き流してきょろきょろとしていると、辟易とした様子の殿下が丁重にダンスを断り、給仕係の男性から飲み物のグラスを受け取った。そしてなにを思ったのか、それをわたしの頰へと押しつける。冷たい。


「田舎者みたいにそわそわするな。……飲み物でも飲んでいろ」


 飲み物を飲んで休んでいろ、という優しさだということがわかるくらいに、わたしは殿下の性格を理解していた。

 わたしはお礼を言ってグラスを受け取り、口をつけた――ときだった。

 突然テラスから吹き込んできた風が、ご令嬢たちの重たいスカートを持ち上げながらわたしのグラスを的確にさらった。

 指からすり抜けたグラスは一瞬宙に浮かび、風が凪ぐのと同時に、重力に従って真っ逆さまに落下する。

 ガシャンと派手に音を立て、粉々になった破片があたりに散りばめられて、中身が不気味な形にじわりと床に伸びていく。

 ふわ、と頰に風が触れた。精霊だ。

 そのことに、ぞっとした。

 この気まぐれな精霊がなにか行動するときは、わたしに対してなにかしらの害意があるときだけなのだ。

 わたしはその液体を避けるように、ふらりと一歩後ずさった。

 考えたくないけれど、この中になにか入っていたのだと、状況が物語っている。

 だけどそのことに気づいているのは、きっとわたしと、犯人の誰かだけ。


 ここは……知らないふりをすべきね。


「ごめんなさい、殿下。風に驚いて手元が狂いまし――」


 言い終わる前に、後ろから肩を掴まれた。反射的にばっと振り返る。それはケントで、強張りをほどいた。

 ケントはポケットからハンカチを抜き取ると、わたしの手を素早く巻きつけた。


「グラスで切ったようです。治療のために席を外させてよろしいですか?」


 殿下は神妙な面持ちで頷いた。

 それと同時に、わたしの身体が浮いた。ケントに抱き上げられている。

 あっけにとられた周囲の目を気にする余裕もなく、叔父さますら置いてきてしまった。


「ケ、ケント?」


 呼びかけても聞こえていないのか、一目散に庭へと連れていかれて、水場で有無を言わさずうがいをさせられた。井戸水を掬った桶に顔を突っ込まされんばかりの勢いで。


「飲み込まずに、一応喉の奥までうがいをして、全部吐き出すんだ。一滴も飲んだらだめだ」


 なかなか難しい要求なのだけれど。


 それでも意図がわかったから、わたしはがらがらと喉を洗って、その水をぺっと吐き出した。


「変な味がしたり、舌が痺れたりしてないか?」


 ケントが真剣な表情で問いかけてくるから、わたしも真面目に口の中を舌で探ってから答えた。


「して……ない」


「そっか……よかった」


 ケントは大きく息を吐き出すと、脱力したのかその場にしゃがみこんだ。

 わたしはふと、痛みのない手から、巻いてあったハンカチをほどいてみる。やっぱりそこには、血がにじんでいるどころか、傷ひとつない。

 これは一体、どういうことだろう。


「……ケント」


 久しぶりに名前を呼んだ。ケントがわずかに目を見張ったけれど、それよりもわたしの具合が気になるらしい。


「どうした? やっぱり変なのか?」


「そうではありません。――ケント」


 わたしからただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ケントは次に発しようとしていた言葉を飲み込んだ。


「どうして、グラスの中身がおかしいとわかったのですか?」


「どうしてって……」


 ケントが一瞬だけ、瞳を揺らした。けれどすぐに、不思議そうに首を傾げて見せる。


「トーカが一口飲んでおかしいと感じたから、わざとグラスを捨てたように見えたんだよ。だからもしかして、と思ってすごい焦った」


 確かにわたしはグラスに口をつけていた。風のせいとはいえ、手を離したのもわたしだ。



 ――でも、本当に?



 だけどここでわたしがグラスになにか異物が混入していたと言えば、なぜそれがわかったのかと逆に問われかねない。

 わたしに精霊がついていてもたぶんおかしくはないと思うのだけれど、これを口に出してしまえば母さまの……死を、本当の意味で認めなくてはいけなくなってしまう。

 まだそれは、わたしの心がついていかない。


「落ち着いたらのなら、会場に戻ろうか」


 にこりとしたケントに、わたしは保身のため、それ以上追求することを諦めた。





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