17・視線の先
「殿下! どこかのならず者のせいで大変な騒ぎになりましね」
マイヤー侯爵がやれやれというように話しかけてきた。
モリスさんたちはたとえ真実を暴露したくても、その思いごと胸の奥底に沈めてくれていたので、マイヤー侯爵のこれはわたしに対する当てこすりではない。だからわたしは、素知らぬ顔のままでいることにした。
「そのならず者はすでに捕獲してある。後で罰しておくから安心するがいい」
ジェイド殿下が、ちらっとわたしへと嗜虐的な視線を寄越す。
わたしは王太子直々に罰されることが、今ここで決定してしまった。
ここは罰を受ける前に逃げてしまおう。
その悪だくみが繋いだ手から伝わったのか、逃亡できないようにきつく握りしめられた。加減を知らないのかわざとなのか、少し痛い。たぶん後者だ。
モリスさんたちは殿下へと、この迷惑娘を厳正に処罰をしてください、という顔をしている。
わたしって、知らない間にこんなにも嫌われていたのね。気づかなかった。
「ところでお嬢さんは、もう気分はよろしいのか?」
わたしをまた追いやって、殿下とじっくり話をしようという魂胆が透けて見える。
もう少し、演技力を磨いてこないと。この手強い殿下を手玉には取れないと思う。
「そうですね、あまりよろしくありません……」
わたしが殿下にへなりと寄りかかると、意図を察したのか、はじめからそうするつもりだったのか、労わるように肩を抱いてきた。
「火事のせいでこれの気が滅入っているようだな。少し部屋で休ませようと思う。……すまないが、侯爵。私たちはこれで失礼してもいいか?」
「え、ああ、そうですか……。しかしそういうことは、侍女にさせればよいのでは?」
殿下は意味深な笑みを浮かべると、わたしをひょいと横抱きにした。軽々だ。
彼が見た目よりもたくましいことは、先日嫌というほど思い知ったばかりだ。
「言わずともわからないか? それとも……寝室へ連れて行く、とはっきり口にした方がよかったか?」
侯爵が、カッと顔を紅潮させた。隣の娘も頰を朱に染める。
叔父さまを窺うと、なぜか切ない表情でケントに抱きついていた。叔父さまのに関しては、演技か本気かわかりにくい。そのあたりはわたしと同じ血を色濃く感じる。ケントは叔父さまを振り払うこともできず、耐えるように斜め下を向いていた。
そのとき殿下の唇がわたしの耳に触れ、驚いて首をすくめ、危うくまた泣き出してしまいそうになったけれど、わたしにだけ聞こえるように囁かれたその言葉に、恐怖なんてものは一気に消し飛んだ。
「コーエン領の小麦は、芳醇な香りが素晴らしい」
「!?」
唐突ではあるけれど、王太子殿下からお褒めの言葉をいただいた。
公式の会話でないとしても、これはとても名誉なことだ。殿下の言葉で、これほど嬉しかったものはない。
「嬉しいです……とても」
あまりの感動で、彼を見つめる眼差しが熱っぽくなってしまった。
この深い感謝を伝えていると、叔父さまが、ごほんと咳払いをした。
「見せつけるのはそこまでにしてくれないかな?」
見せつける?
「では、私たちはこれで」
殿下にお付きの侍従に告げて、騎士数人を引き連れ宮殿内へと入った。硬い廊下をかつかつ踵を鳴らして闊歩し、人払いをして殿下の寝室らしき部屋のドアを潜る。
そしてまっすぐ向かった先にあった寝台へと、わたしは思い切り放られた。
ばふん、と身体がバウンドする。
「きゃあっ!」
「宮殿内を混乱させた罰だ」
それを持ち出されたらわたしはもう謝るしかない。
跳ねるのが静まってから、膝を折ってちょこんと座った。
「……ごめんなさい」
「そうしおらしいと調子が狂う。念のため、半刻ほどここでおとなしくしていることだな」
「なぜ半刻なのですか?」
殿下はわたしを一瞥してから、説明が面倒だとばかりにため息をついて話を終わらせた。そして窓辺に寄りかかり、腕を組んで外を眺めはじめる。
寝台へと近づいて来ないのは、この間わたしを泣かたことへの配慮らしいと気づいた。
「暇ですね……。枕投げてもいたしましょうか?」
「……枕投げ?」
「あら、枕投げをご存じないのですか? これほど枕がたくさんおありになるのに、もったいない」
わたしたちが大の字で寝転がったとしても余裕のある寝台には、真っ白で清潔な枕がヘッドボードの下にたくさん並んでいる。ひとつを取って、殿下の顔へと軽くぶつけてみた。
枕がぽとりと床へと落ちると、殿下が低い声で脅してきた。
「……よほど、罰を与えられたいらしいな」
「ただのお遊びではありませんか。……器の小さい」
ぼそりと本音をもらすと、間髪入れずに枕が飛んできて顔面に直撃した。
わたしはすぐさま別の枕を掴むと、
「……これが枕投げで、すっ!」
殿下目がけて投げ返した枕は、二度目だったからか、涼しげな顔でさらっと避けられてしまった。そして、もう二度と枕が返って来ない。
枕投げ終了――……ね。
殿下は相変わらず外ばかりに視線を向けている。
さっきからなにをそんなに熱心に見つめているのかと、寝台から降りて窓辺へと近づいてみた。
殿下の寝室なのに、庭に干された大量のシーツのはためきが遠くに臨める。
てっきり王族というものは目に入るすべてが美しく価値のあるものでないといけない人種なのだと、わたしは勝手に誤解していた。
思えば殿下は、わたしの内面に対しては遠慮なしにずけずけ批判するけれど、短い髪については特に触れたことがなかった。
この人は意外と、良識的な人なのかもしれない。
「まっさらなシーツは見ていて清々しいですね。あれほど大量だと、洗う方は大変でしょうけれど」
殿下の目がこちらへと向いた。
「洗ったことが?」
「それは……とても不本意な、極めて幼い頃のできごとでのことです」
「ああ、おねしょか」
「レディにおね……とか、言わないでいただけますか?」
「レディ? あいにくおまえに女を感じたことは一度たりともないが? どちらかといえば……そうだな。昔飼っていた、小鳥に似ている。綺麗な薄紅色をしていたのに、変な声で鳴いた。あれもクルクルうるさい鳥だったが、おとなしく私の手に乗っているときだけは、かわいかった」
「まあ。わたしが小鳥? 殿下は好きなものを閉じ込めておきたい性癖なのですね」
「……どこからか訂正すべきか迷うが……まず、おまえは私の好きなものではない」
「そちらを先に? わたしは愛しい婚約者ではありませんか。愛の言葉を囁いていただいてもよろしいのですよ?」
「泣くくせに」
殿下がちょっとだけ笑った。あ、と思ったけれど、すぐにその表情が曇る。
「……悪いとは思っている。だが……」
殿下の視線はまた、シーツの海へと注がれる。
わたしは不思議とその目を知っている気がした。その感情の名を。