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12・兄の戸惑い

ケント視点その2



「どこ行ってたんだ?」


 抜け出していたことを誰にも気づかれていないと思っていたから、レオに問われてぎくりと足を止めた。


「……散歩」


「ふーん」


「……なんだよ」


「いーえ、ね?お嬢さんが呼んだ主治医と一緒に殿下が邸へと入っていったらしいから。警備強化の報告をケントだけ受けてないかなーと思って」


「……殿下が?」


 トーカの現状は報告してあったが、自ら足を運んでくれるとは思っていなかった。


「極秘でね。今頃、ご対面中じゃない?」


 力技で連れて行けないことを理解してくれたのか、それともただ単にトーカの様子を確認しに出向いたのか。

 仰いだ先のトーカの部屋は、明かりこそ外までもれているが、二階なので中の様子はまるでわからない。

 王太子相手に、なにか無謀なことをしでかしていないだろうかと、内心ひやひやしているのをひた隠して部屋を見上げ続けた。


「殿下、冷めてるけどあの美貌だからね? 意外ともうなびいちゃってるかもねー? クラウチくん、妬ける?」


「別に」


「殿下がお嬢さんを好きにならないからって安心してる? だけどお嬢さんは、殿下を好きになる可能性があることを忘れてない?」


「あっそ」


 あんなに華奢になってしまうほどに結婚を拒絶していたのに、そう易々と翻意するか。


 適当に答えた俺の態度が勘に障ったのか、レオがせせら笑った。


「ケントって、そういう、よゆーなところがムカつくよなぁ? かわいい妹はずっとお兄ちゃんのことが一番大好きなのっ! とか、夢みたいなこと思ってる? 乙女なの?」


「はぁ?」


 乙女ってなんだ、乙女って。


「お兄ちゃん好き好きー、結婚したいー、って言うのは、どこの家にもある妹あるあるだから。実際ケントのこと、終わった恋だって断言してたもんね?」


「……わかってるよ。そんなこと」


 自分から突き放しておきながら、その事実を聞くと苦々しく思う。


「一目惚れとかあるかもしれないだろう? ケントにはそういう経験、ないわけ?」


「……さぁな」


 昔のことは忘れた。

 ケント・クラウチという人間は、コーエン侯爵夫人に拾われたときから始まっている。そして自分のそばにいた同世代の女の子は、トーカひとりだけだった。

 騎士になってからは女性と知り会う機会も増えたが、心が振れるような人と出会うことは結局今日まで一度もなかった。

 当たり前だ。俺は人との関係に、無意識に一線を引いている。レオのように突っかかってくる珍しい人間もいるが、プライベートで遊ぶような親しい友人もいない。それでいいとさえ思っている。

 恋なんて、二度としない。できるわけない。

 今なお自分の心を占めるのは、彼女だけだ。


 ずっとそのままでいい。……そのままが。


 ふと目を落としたとき、トーカの部屋の窓が激しく叩きつけられる音がして、はっと顔を上げた。

 なにかあったのかと思ったが、その後は不思議となにごともなかったかのような、静けさが戻ってきた。

 距離があるので、ただの風だったのか、トーカについている精霊の暴走なのかの判断がつかない。

 事態が動くのを待つことしばし――、


「あ、殿下が出て来たぞ」


 フードをかぶって顔を隠す殿下と、快活に笑う老齢の医者がこちらへと向かってきた。

 モリス隊長が出迎え、自分たちは黙って控えていたが、フードの下の殿下と視線がかち合った。

 冷たい、とレオが称したその瞳からは、今はむしろ苛烈な刺々しさを感じる。


 そして。……俺はなぜ、睨まれているんだ?


 俺がなにかしたというのなら謝る。だが理由もわからず謝るという行為では誠意が伝わらないだろうし、それどころか、その場しのぎで軽々しく謝る人間なのだと見切られるかもしれない。

 しかしこの場で自分から話しかけるなど、一介の騎士風情には許されない。なにか言われるのを黙って待っていると、唐突にトーカの部屋の窓が開くのが見えた。弱ったトーカが無理をして、窓枠に手をかけて身を乗り出す。

 俺の視線を追ったジェイド殿下も、少しだけそちらへと向けて、顔を上げた。

 儚げな微笑みをするトーカが、侍女に身体を支えられながら殿下へと手を振る。目を疑った。だけど確かに、殿下へと向けてその手を振っている。


「すっかり仲良しさんですなぁ」


 からかう医者を殿下は一瞥するに留め、そのくすぶった感情の矛先を理不尽にも俺へと向けた。

 

「……あれの兄だな」


 なんとか、はい、とだけ答えた。


 正確には兄代わりだが、まぁ、似たようなものか。


「あれの様子を見てわかると思うが……結婚を承諾した」


 辟易した様子で言い放たれた殿下のその言葉を、油断していた俺はうまく飲み込むことができなかった。

 喉元で引っかかり、咀嚼しても咀嚼しても、おかしなことに身体が受けつけず、口の中で何度もその言葉を繰り返した。


 結婚を、承諾……? トーカが、受け入れた……?


「喜ばしいことですな。私は年甲斐もなく驚きましたよ。少しふたりきりになった途端、伏せっておられたあのお嬢さまが、まさか殿下に恋する瞳で寄り添われているだなんて」


 この医者、なにを言って……。耄碌してるのか?


 誰が誰に……恋?


 馬鹿みたいに、頭が真っ白になった。


「殿下がはじめからご自分で迎えに行っておられたら、お嬢さまもあそこまでやつれることなく話が進みましたのに」


 殿下と医者のやり取りが、まるで頭に入ってこない。

 あんなにごねていたはずなのに、こうも簡単に折れるなんて考えていなかった。結婚式当日、いやそれ以降もずっと、永遠に嫌がり続けるのだと、俺は信じて疑わなかった。


 そう、思いたかっただけか……。


 人の心は移ろう。レオが言ったように、トーカがジェイド殿下に好意を寄せることがないとは、言い切れなかったらしい。

 なにせ俺の知っているトーカは、幼かった頃の数年間だけだ。

 今はもう、彼女がなにを考えてどう思っているのか、なにひとつわからない。

 なにも、わからないくせに、俺は――。


 愚かしくも、自分のものを、奪い取られた気になった。


 足元に亀裂が入る。にじみ出した黒々とした闇が、這い寄って来る。心臓が耳障りなほど鼓動して、吐き気なうずくまりそうになった。

 この感情は……あれだ。わかってる。わかってるけど、俺は目を逸らした。


 見るな。見るな。見るな。


 目に映しさえしなければ、逃げ切れる。

 もうとっくの昔に、手遅れだとしても。今だけは……。


「――ところで。名は、ケント、だったな?」


 はっとして、身体を強張らせながらはいと答えると、殿下は怪訝そうに眉をひそめたまま顎に指をかけ、ごく小さく呟いた。


「ああいう状況下で、まず兄の名を呼ぶものか……?」


「……?」


 詳しく訊くことはできず、ジェイド殿下は周囲に潜む護衛を引き連れ、闇夜に紛れて帰っていくのを黙って見送った。

 どっと詰めていた息を吐き出す俺に、ニヤニヤ顔のレオがすっと耳元へと囁いた。


「ほーらね。殿下に一目惚れ説」


 他に向けられなかった苛立ちと憎しみをすべて込めて、愉快そうなレオを睨んだ。


「うちのトーカと、見た目にころっと騙されるその辺の安っぽい女を一緒にしてんじゃねぇぞ」


 トーカは容姿で人を判断するような子ではない。

 そんな子に育てた覚えもない。厳密には育ててはいないにしても。


 ……そうだ。恋ではない。恋なんかでは。


 少しだけ、冷静さが戻ってきた。


「わかってないねー。たとえ高貴な人でも、恋に落ちるのは一瞬って言うじゃん? 相手、殿下だよ?」


「殿下だとかは、関係ない。もし好感を持ったのなら、それはこの短時間で殿下の人柄に触れて、好ましいと思ったからだろ。……たぶん」


「へぇ? あの冷ややかーな殿下と、なに話したら好感を持つわけ?」


 うっ。言葉に詰まる。

 彼と直接話したとき、俺は一切好感なんて持てなかった。持てたのはわずかな共感と、信用。

 もし好きかどうかと聞かれれば、答えは間違いなく、否だ。

 好きになれるはずがない。


「それは……わからないけど……。というか、おい。それ殿下の陰口じゃないのかよ?」


 卑怯な俺は話をすり替えた。


「陰口っていうか、事実を客観的に述べただけ?」

 

 俺自身異論を唱えれるほど殿下のことを知らないので、子供じみた告げ口はするつもりはないが、冷静に考えたらいくら小声で話しているとはいえ、他の人間に聞かれたらまずい類の話ではないだろうか。

 レオにはまったく気にするそぶりはなさそうだが。


「それにしても可哀想にね、トーカちゃん。このまま憧れの恋愛結婚したとしても、幸せになれないね?」


 レオがすっと顔を寄せてきた。聞きたくないことを聞かされると察したのに、とっさに避けることができなかった。

 肩に、やけに冷たい手のひらが置かれた。耳元で、囁かれる。



 ――だって殿下にはもう、愛する人がいるもんね?



 俺の中にあったわずかな良心を揺さぶるように殴りつけられて、顔をしかめた。

 だけど本当は、彼女が抱いたかもしれない淡い想いが報われないことにほっとして、笑っていたのかもしれない。


 レオが救いようのない目で、俺を見つめていた。




ほんのり、病んできた……かな?

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