塔の欠片~崩壊~
「先生、私の病気は、この先も治らないのですか?」
雪乃は、病院へ行っては、主治医の祖父江に聞いていた。
本城家へ嫁に来てから、姑の宮子にいじめられ、心が崩壊してしまった。
宮子は三十年年前に、兼業農家の本城家に嫁いできた。夫の良介は、本城家の末っ子で家業を継いでいた。良介は親戚達や兄弟に押し付けられるように宮子と見合いし、渋々、宮子と一緒になった。
「兄貴。俺はどうしてもあの宮子さんって人と一緒にならなきゃいけないのか?」当時の良介は兄の正義にそう言っていた。宮子は、嫁ぎ先の酒田町でも有名な変わり者と言われ近所の者は宮子を避けて通っていた。
「私は漬物名人じゃ」
そう言って宮子は自分の作る漬物はどの農家の嫁より旨いと言って自画自賛している。近所の嫁たちは皆、宮子に社交辞令の褒め言葉を言って嫌われまいとしていた。それが宮子を更に天狗にさせていた。
「私は、みんなのリ―ダ―なんだから」
農家の嫁の集まりで、リ―ダ―というポジションに執着している宮子は、自分に逆らおうとする者は、襤褸糞に苛め抜いていた。
気の小さい良介も宮子には逆らわず、家の中でも小さくなっていた。
本条家の長男で、直人が雪乃を連れて来たのは、二〇〇〇年の冬だった。直人は、物心がついた頃には宮子との確執を感じていた。早々に家を出たいと思った直人は大学の進学を機に実家を離れ、アパ―トを借り、2年生のころには良介と宮子には内緒で、雪乃と暮らしていた。
「親父。母さん。俺、この人と一緒になりたいんだ。結婚するから」
宮子は、直人の結婚を驚くより何より、雪乃の姿を見て目を丸くしている。
「ダメだ。直人、こんな女は本城の家には合わない」
そう、宮子は吐き捨てた。最初から、宮子が良い顔をしないのは分かっていたが、直人は、雪乃の前で恥をかかされたと、その場で憤怒した。
「なに言ってんだ、アンタ。俺は絶対に雪乃と一緒になる。アンタらなんかとは絶縁でも構わない」
そう言って、直人は雪乃の腕を掴んで実家を飛び出した。一方の宮子は、初めて見た雪乃の品のある立ち振る舞いや、白く美しい肌を見て、自分の醜さにヘソを曲げていた。
「あんな嫁を貰っちまったら、私の存在が小さくなっちまう」
独り言を言いながら作る鯖の味噌煮の鍋からは、生臭い臭いが立ち込めている。良介は、宮子の作る料理には、年中吐き気を覚えていた。「腹に入ってしまえば、うまい飯もまずい飯も同じだ」良介はそう言って、小さな抵抗を周囲に漏らしている。
薄暗い台所で、猫背の宮子が背を丸め、ぶつぶつ雪乃の文句を言っている姿に、良介は、うんざりした顔で背後から見ていた。
数か月後、直人と雪乃は二人だけの結婚式を挙げ、新築でマンションを買った。
直人は、「子供は作らず夫婦二人で仲良く暮らそうな」そう言っていた。雪乃も子供は望
まず、直人と二人で暮らす時間が楽しかった。
そんな二人を邪魔立てするかのよう、役所で住所を調べた宮子が、突然マンションへ訪ねて来た。
宮子の家から小一時間は走る高級住宅街に立つタワ―マンション。そこには不釣り合いな割烹着に、膝の伸びたズボンで宮子は現れた。そんな姿に、雪乃は目を丸くして棒立ちをしている。
「ほら、雪乃。飯でも食わせておくれよ」
片膝を立てて、リビングのテ―ブルに肘を掛けた宮子は、ふてぶてしく座っている。
「お義母さん。私、昼間、抜いているので、特に食材もないから、外で食べましょうか?」雪乃はそう言った。
宮子は、テ―ブルの上に置いてある、爪楊枝を一本取って「チ―ッチ―ッ」と音を立て、楊枝で歯茎をほじり、鼻の下を伸ばしにったりと笑った。
「バカ嫁が。私はとっくに飯など食って来た。亭主の留守中に外食なんて、随分偉そうだな。直人もエライ女を貰っちまったもんだ」と言って雪乃を侮辱した。
雪乃は、宮子の前で茫然と立ちすくんだ。
「お母さん・・・ならば私はこれから家事もあるので、お茶を出しますから、お帰りになって下さい」
宮子は、細く垂れた目で雪乃を睨みつけた。
「このメス豚が。茶を出したら帰れだと。随分と偉そうに」
そう言って、雪乃のシャツに掴みかかって、頭を小突いた。宮子の酷い口臭に、顔をそむける雪乃を見て、宮子は、カッとなってまた頭を小突ついた。
「帰ってほしけりゃ、金を出せ。テメ―みたいな女には、この部屋も何もが豚に真珠だ」
そう言って、テ―ブルに置いてあった雪乃の財布から、一万円を抜いて行った。
雪乃は、宮子が出て行ってからリビングで崩れるように泣いた。雪乃は、直人に宮子が家に来た事を言えず暫く一人で考える時間が多くなっていた。
緑から、茶色く木々の色が変わる十月の終わり――――
『プルプルプル・・・・・・』
雪乃の携帯が鳴った。
「もしもし。直人、どうしたの?」
「爺ちゃんが死んじゃったんだ。今、会社に父さんから電話があった」
長い間、老人ホームに入っていた直人の祖父で幸四郎が老衰で他界した。直人は、幼い頃から爺ちゃん子で、幸四郎の事は大人になっても気にかけていた。時々、雪乃と一緒に幸四郎が世話になっている老人ホームに顔を出していた。
二人は、幸四郎の葬儀に出席した後、本城家の家に向かった。
そこには、親類の皆が集まっていた。女達は台所に立ち、弔問者に振る舞う料理や酒の準備で忙しくしていた。男達は、小さな祭壇がある仕切られた十畳ほどの続き間で胡坐をかき、酒を飲みながら話をしている。
「爺さんも九十八まで生きたんだ。大往生だな」
「あ~。そうだな」
この時も、喪主の良介は兄妹の中でも大人しくしている。そんな良介に宮子は言った。
「お父さんや。なに小さくなってんだい。そんなにボヤボヤしているなら直人と追加の酒でも買って来てくれんかね」
「ああ。分かった」
良介は、立ち上がり喪服姿のまま、玄関を出て車のある車庫へ歩いて行った。
「直人や。お父さんとちょっと太田酒屋に行ってビールと日本酒を買って来てくれんかね」
宮子は、直人と良介に使いを頼んだ。
「ああ」
直人が席を外し太田酒屋に行っている隙に、宮子は雪乃を皆の前で赤っ恥をかかせてやろうとたくらんでいた。
「雪乃。オメ―いつまで喪服でいるんだい」
雪乃は宮子に言われるがまま、皆のいる続き間の襖の向こうに行き、ジャケットを脱いで黒いワンピースのフォックを外した。ファスナーを下して下着姿になったところへ宮子が現れた。
「お義母さん。直ぐに着替えて台所へ行きます」
宮子は襖の向こうの男衆の前に下着姿の雪乃を引きずり出した。普段、農作業をしているだけあって宮子の力が強い。
「ほれ。男衆にサービスじゃ」
それを見た六十手前の大山という男が、興奮して股間に手を当てた。
「お姉さんもっともっと」
大山は、地元でも名をとどろかす程のスケベオヤジだ。大山は、幸四郎の甥っ子にあたるにも関わらず密かに宮子との肉体関係があった。
雪乃は宮子の手を引き離し、泣きながらジーンズに着替えたところに直人と良介がビールを抱え帰って来た。皆は、宮子が雪乃に対する意地悪を口には出さなかった。もはや、この親類たちは宮子の支配下にあった。
雪乃はこの頃から、心の中で一人の友達を作り出していた。
「鯵城 玄」元格闘家の現役武闘派ヤクザという人物だ。
心の中に住む「鯵城 玄」は言葉は暴力的だが雪乃が 直人に相談も出来ず一人で悩んでいると優しく語り掛けてくる。雪乃の心は鯵城 玄に救われ雪乃は鯵城玄という人物に依存し始めていた。
幸四郎の葬儀から数日が経って、また宮子がマンションに現れた。オ―トロックのエントランスを住人に紛れ侵入し、玄関のインタ―フォンを鳴らした。
【ピ―ンポン】
雪乃は、モニタ―に映る宮子の姿に背筋を凍らせた。髪はバサバサで、すずめの巣のように絡み合っている。出てくるまで昼寝をしていたのが良くわかった。
「雪乃。雪乃。戸を開けろ、このバカ者。姑の訪問に無視をするなど、ふとどき者が」
ドア―の外で大声を張り上げる宮子に、雪乃はドア―を開けた。すると、宮子は雪乃に顔を近づけた。宮子の生臭い口臭に雪乃は顔をそむけた。
「お母さん。いい加減にしてください」
宮子は、雪乃の嫌がる姿を見て、体がぞくぞくとして興奮した。元々人を虐めるのが好きな宮子は、雪乃の弱る姿を見るのが快感だった。宮子は、泥のついたサンダルで、部屋へ上り込み、雪乃の財布を出した。
「お母さん、もうよしてください。ウチも生活が大変なんです」
直人と雪乃はマンションをロ―ンで購入し、自分たちが生活するだけでいっぱいだった。
「こ~んな立派なマンションまで手に入れて。それは誰のお蔭だ?」
「直人さんが一生懸命働いてくれるからです。ですから、私たちもこれ以上は・・・」
宮子は、首をクネリと肩にひねって、舌を出した。
「この、ブタ女。直人は私が産んだんだ。その直人に世話になっているのは、誰でもないテメ―だろうよ~」
宮子は『してやったり』と、いった顔で雪乃を睨みつけた。
その時、雪乃の目は鋭く変わり、声は太く低い声になった。
『ババア。いい加減にしろこの野郎。頭かち割って、東京湾に沈めるぞ』
宮子は、今まで見たことのない雪乃の様子に怯んだ。
この時、雪乃は「鯵城 玄」に支配されていた。
度肝を抜いた宮子は、急激に腹の差し込みで屁をこきながらおろおろと逃げ帰った。
『バタン』
雪乃は、宮子のドアーを閉める音で我に返った。
「なんで?・・・・・」
『雪乃』
頭の中の「鯵城 玄」が語り掛けて来た。
『お前。ババアをもう二度と部屋に入れるんじゃね―ぞ』
「玄ちゃん・・・私を助けてくれたの」
『あのババアには俺もムカついていたんだよ』
「玄ちゃん・・・・ありがとう。でもね、玄ちゃんもう出て来ないで。後は私が何とかするから」
その後、直人の不在中は常に「鯵城 玄」と頭の中での会話が繰り広げられていた。雪乃は直人との会話の中でも乱暴な言葉で話す時も度々あった。直人も、この頃は雪乃様子が気になり始めた頃だった。
【ピーンポン】
マンションのエントランスで、いつもの宅配ドライバーが立っている。モニターで確認した雪乃は、オートロックを解除した。
「本城さんお届け物です」
雪乃は、伝票をみて東北の叔母からの送り物だと知って、直人の携帯に電話をした。
「もしもし。直人。叔母ちゃんからまた今年もアップルパイが届いたわ」
電話越しで直人はこう言った。
「今年は早かったな。早速、開けて食べていなよ。お礼は、後で俺からしておくから」
直人の父方の東北の姉から、今年は予定より早くお手製のアップルパイが送られて来た。叔母は、直人が一人暮らしを始めてからも、個別に直人にも送るようになっていた。雪乃も同棲していた頃から、叔母の作るアップルパイが好物だった。
雪乃は、ナイフでアップルパイを切り分けした。
「わあ。美味しそう。早くオーブンで焼いて食べよう」
雪乃は生唾をゴクンッと飲んで、オーブンのタイマーを押した。部屋には、甘いリンゴの香りと、こんがりと焼けるパイの香りが漂った。
『おい。雪乃。そのパイに手をつけるな』
リビングで紅茶を入れている雪乃に、「鯵城 玄」が出て来た。
雪乃は、鯵城 玄の言った言葉にパイに何かあるんだと咄嗟に感じた。恐る恐る宅配の伝票を確認した。確かに叔母の住所と名前ではあるが、伝票のスタンプが宮子の住むコンビニで押されている事に気付いた。
雪乃は、宮子が恐ろしい事を考えているんだと思い鳥肌が立った。乱れる手先と、震える足を抑え、アップルパイをゴミ袋へ詰め、マンションの地下にあるゴミ集積所に走った。
宮子は、「鯵城 玄」(雪乃)に一喝された件から、義理の姉が作るアップルパイを再現しようと、失敗しては、また捨ててを繰り返していた。
宮子は初めて作るアップルパイに苦戦し義理の姉のパイとはかけ離れたパイばかりが焼き上がっていた。再現出来ない宮子は根を上げて義理の姉に電話でアップルパイの作り方を教わろうとしていた。
「お姉さんや、酒田の宮子です。お姉さんのアップルパイを嫁さんが好物でね~。どうにか、作って食べさせたいんだけどさ~」
叔母は、足が悪く幸四郎の葬儀にも出席出来ていなかった。雪乃の事も、直人から送られた年賀状でしか見たことがない。
「あの時はごめんね。長女なのに爺ちゃんの葬式に行けなくてね」
「いや、いや。私が何とか仕切ってやりましたから、心配しないでください」
宮子は、叔母の事が苦手だった。
それも、宮子が嫁いで早々に、唯一叱りつけたのがその義理姉の芳江だったからだ。
「宮子さん。アップルパイだけど、私が直人に送ろうか?」
「いや~。丁度お父さんも、お姉さんのアップルパイが食べたいって言っていたからね~。送ってくれんかね~」
「それじゃ、今年は少し早めに作って送るわね。仏壇用も送るから供えておいてね」
料理の下手な宮子は、芳江にアップルパイを送らせた。
宮子がアップルパイを練習するようになったのも、隣の集落の奥さんからとんでもない事を耳にしたからだ。良介が、外へ出ては、雪乃を高く評価をしていると聞いて、宮子は憤怒した。
「ゆるせね―。お父さんも、私にあんな態度をとった嫁も許せね―。苦しんでもらおうかね~」
宮子は、良介にも芳江から届いたアップルパイに細工をし、良介にも食べさせていた。
その晩、仕事から帰宅した直人は、キッチンで夕食のカレーの仕込みをする雪乃に後ろから抱きついた。
「あれ?叔母ちゃんのパイ冷蔵庫にないけど、雪乃全部食べちゃったの~」と、甘えた声で雪乃に言った。
雪乃は、これまでに見たことのない顔つきで喋りだした。
『おい。直人。オメ―の母親どうなっているんだよ。雪乃は今、俺の隣で眠ってる』
この時、雪乃の人格は「鯵城 玄」に支配されていた。
「え?雪乃?」
茫然と口をぽっかり開けて立ちすくむ直人に、鯵城は鋭い目つきで言った。
『俺は、雪乃の中に住み着いている鯵城ってもんだ』
「え?・・・あじ・・・しろさん?ゆき・・・の?」
『なにテンパってんだよ。大体、雪乃はな。お前の母親から虐めにあっていたんだ。今日のアップルパイも、お前の母親が送りつけた毒入りパイだ』
「へ?どく・・いり」
『ボサっとしてんじゃねーぞ。雪乃は、あのババァから金は取られるし、暴力は振るわれるし、一人で抱え込んでいたんだよ。お前もう少し早く気付いてやれや』
この時、既に雪乃の心にある大きな塔は崩れ落ちていた。
直人は、雪乃が眠りについた後、いてもたってもいられず、部屋を飛び出し、実家へと車を走らせた。
「あのババァ―――。ただじゃすまさねぇ―――」
直人の顔は、今にも血管が破裂しそうなほど真っ赤になり、実家のドアーを殴るように叩いた。
「開けろ。開けろ。コラ!」
トイレでは、良介が便器にもたれ掛かり嘔吐を繰り返していた。怠い体を何とか起こし、這いつくばるように、玄関の鍵を開けた。
「親父?どうした?ババァはどこに行った?」
「アイツは、成島の君子と東京へ歌舞伎を観に行ったよ・・・」
「それより今日、叔母ちゃんからアップルパイが届かなかったか?」
「・・・・・・あぁ。それを食ったら、ご覧の有様だ・・・・」
直人は、血の気が引いた。
「それ、叔母ちゃんのパイじゃない。ババァが・・・」
そう言って、直人は台所へ走った。流しの扉を開けると、良介が農作業で使っている薬品が出てきた。
「親父。これを見てくれ」
良介の前に薬品を出して見せると、良介はその場でまた吐きあげた。
「親父・・・・。アンタもババァにやられたんだ。俺の家にも届いて、雪乃も・・・雪乃は、まあ、色々あって口にはしなかったけど・・・」
良介は、青白い顔をし、直人の言葉に愕然とした。目には涙を溜め、吐き気を抑える体は痙攣していた。
直人を落ち着かせ家に戻させた良介は、吐き気から眠ることも出来ず、夜通し便器でもたれ掛かっていた。
トイレの小窓から朝日が入り込んだ頃、宮子が酒の臭いと共に帰宅して来た。
寝床の襖を開けると良介の姿がない。宮子は鼻歌を歌いながら良介の姿を探した。良介が便器でうずくまっている様子に、肩をヒクヒクとさせ、声を殺しながら笑った。
「あらまぁ~お父さんときたら。ゲーゲー吐いて、どうかしたのかい?」と言って、頭をカリカリと中指で掻いた。
「お前。お前って奴は・・・お前・・・・」
「お前?お前がどうかしたんかい?」
宮子は、酒臭い息を吹きかけ笑い転げた。良介は、直人が台所から出してきた薬品を手に取って見せた。
「なんの事かしらね~」
宮子は、薄ら笑いを浮かべた。
「お前。直人の家にも送ったんだってな・・」
宮子は肩を震わせながら笑った。
「傑作だ。やれ~傑作だ」と、笑い転げた。
「お前って奴は・・・・」
「あのブタ嫁も、お父さんも、直人も苦しんでもらおうかと思ってね~何がいけないんでしょうか~?」
宮子は鼻の下を伸ばし、細い目でニヤついている。
「なんで、お前はお嫁さんまで手をかけようとするんだ」
良介は涙声で、震えながら言う。宮子は、うずくまる良介の目線までしゃがみ込んで、肘でど突いた。
「このボケオヤジ。私はね、みんなから好かれて慕われてるんだい。あのブタ嫁が来たせいで私は小さくなっちまった」
宮子の言葉に、良介の中で立派な塔が崩れるように、大きな音を立てた。今まで耐えていた宮子の全てに虫唾が走り、台所へ走った。
『バタバタ・・・』と、響く廊下は、薄暗い裸電球が一つぶら下がっている。
良介はこの時、吐き気も怠さも忘れていた。
『どうせ、お父さんが怒ったところで、何も怖くない』と、宮子は呑気に居間で急須に茶っ葉を入れていた。
「お父さんや~。や~れ雪乃さんも気の毒だね~。暇を持て余して、あ~んな高級マンションに住んで、あんな態度を私にとるから罰があたったんだね・・・お父さん?聞いてるんかい?」
宮子は、自分の背後に刺身包丁を持って、震えながら立っている良介に気づいた。
「あんた。あんた私を殺す気かい?なあ、あんた」
宮子は細く垂れた目を見開き良介を鋭い目で見る。
良介は、コタツから宮子を引きずり出し、馬乗りになった。この時の良介の目は血が滲んだように充血し、顔は青白く、血の気が引いていた。
何度刺したことか分からない。
宮子の返り血を浴び、宮子が息をしなくなっても良介は刺し続けた。
宮子の顔や体は真っ赤に染まり、包丁を握る良介の姿は荒れた地を耕す農民のようだった。
五分間は刺し続けただろうか。
血だらけの良介の姿が、明け方のガラスサッシに写った。宮子の死に面を見た良介は、汚い物を見るような目で座り込んで暫く眺めた。
返り血を綺麗に風呂場で洗い流して、良介は一番大事にしていたアルバムから、直人がまだ二歳の頃の写真を一枚だけ抜き取り、裏に直人と雪乃宛てに遺書を書き残し、ポケットに忍ばせた。
外からは、カラスの鳴く声がして、良介は、自分を迎えに来たんだと思った。庭へ出て飼い犬の{ムク}に餌をやった。
「お前も、アイツの被害者だったな。これが俺のやれる最後の餌だ。いっぱい食え」と言って、良介は納屋へ向かい、梁にロープを掛けた。
「俺は、アイツの事が嫌で仕方なかった・・・」最後にそう言った後、二段に重ねたビールのケースを足で蹴り、梁にぶらさがった。
直人が雪乃を連れて医師の祖父江を訪ねたのは、良介の四十九日が過ぎた頃だった。
祖父江は、雪乃が心の病にかかっていたと診断した。極度のストレスによる精神障害だと祖父江が話すと、直人は「鯵城 玄」に支配されていた時に、雪乃から聞いたことを全て明かした。
祖父江は、顔を強張らせ、雪乃の入院を勧めた。直人は、全てを片付けるため、雪乃を祖父江の元に入院させ、宮子が出入りを繰り返したマンションを、手放す段取りをつけた。
入院中の雪乃は病弱な別の人格も現れていた。ベッドで横になる日が続き、日増しにやつれていった。
直人は、雪乃の崩れた塔の欠片を一つ一つ集める様にもがいた。「鯵城 玄」が雪乃から消えた時には、直人の目からも涙が零れた。
「今まで、雪乃を守ってくれて感謝しています」
五年後――――――
「ママ―—――ムクがご飯だって――—―」
雪乃と直人は海の見える田舎へとムクを連れて引っ越していた。雪乃は三歳になる女の子の母になりあの出来事は心の奥底にしまい込んだ。もう開く事はないだろう。