孔雀 舞う 1
これは夢の中だろうか。朧げな意識の中で、美緒はどこか息苦しさを感じる。むせるような湿めり気が肌にも触れている。どうやら美緒の顔には、濡れタオルが被せられているようだ。
美緒の呼吸は妨げられ、彼女は悶絶すると、タオルを剥ぎ取り、勢いよく起き上がった。美緒が首を左右へ機敏に動かして辺りを見回すと、目の前には薙がいる。
薙は、美緒への仕打ちを少しも気に掛ける様子はなく、平然として笑顔を見せる。
「何だ、何だ。良かったじゃん。俺の手刀って案外効くんだよ。美緒、ノックアウトされちゃったけど、立ち上がっただけ結構、結構」
美緒は上体を前のめりにすると、たまらずに語気を荒らげる。
「あんたねぇ。女の子と接する時、普通に出来ないの? 普通に!」
「『普通』ってどういうことだよ」
「んー、例えば? 『夢』から『現実』へ帰す時にはもっと優しくとか。素敵な目覚めを演出してあげようとか。つまりはそういうことよ」
「だーめ。無理、無理。俺にはそういうセンスはないの」
素っ気なく、一面投げ槍とも取れる薙の返事に、美緒が「何よ」と口を尖らせると、薙は、甲板から舞うように颯爽と降りて、フロア、倉庫の扉を重々しく開ける。扉の向こうに広がる無限の世界。そこは闇夜で今は閉ざされている。
薙が扉を開けると同時に、暗い漆黒の夜を切り裂くような疾風も倉庫に吹き込んでくる。風に激しくなびく自分の髪の毛を、美緒は右手で抑えて、辛うじて体のバランスを取っている。薙は一息息を吸い込むと気持ち良さそうに、「孔雀」の完成宣言をする。彼の声は弾み、上気している。
「出来た!」
だが倉庫内の置物、帆船でさえも軋ませて、揺るがしかねない強い風に薙の言葉は遮られ、美緒にその言葉は届かない。美緒は足もとを確かめるように踏みしめる。
「えっ!? 何!? 薙! よく聞こえない!」
薙は吹き込む風に体を煽られながらも、心地よさげに両手を広げる。
「『孔雀』が完成したんだよ! 美緒! 俺はこれから長旅に出るけど、どうだ!? 一緒に美緒もついてくるか!?」
「ついてくるか?」。美緒の胸を高揚させ、ときめかせるその言葉だけは、美緒にははっきりと聞き取れた。「ついていく」美緒の心は言わずとも決まっていた。
退屈な日常から離れて、飛空船「孔雀」で旅に出る。それは美緒にとってとても魅力あるものだった。薙との二人旅。それは美緒の淡く仄かな感情を刺激し、揺さぶるに十分だ。彼女は、何だか照れ臭くなって、少し顔を一度背けるも、気を奮い立たせると、薙を透明感のある瞳で見据える。
「『旅』か。いいね! それ! いい。それに、私、ついていかないと、もう薙には会えなくなっちゃうんでしょ?」
美緒の細く、澄みきった声は、「孔雀」のプロペラが回る音にかき消される。薙は右耳に手をあてて、大声をあげる。
「何言ってんだ!? よく聞こえない!」
美緒は、薙の耳に、心に届くように力強い声で伝える。
「行くよ! 薙! あんたみたいな子には保護者がいるから!」
薙は、美緒の穿った、少しませた返事が聞こえたのか、軽妙な笑顔を見せる。
「言ってらぁ」
美緒の気丈さをあしらいながらも、軽くはにかんだ薙の声とともに、薙と美緒の長い旅が始まることが、今ここで決まった。
古風でありながら最新のテクノロジーを取り入れた船体、「孔雀」。その「孔雀」に薙と美緒は、風を両手で遮りながら、ゆったりとした足取りで乗り込む。船体は二つの小さな魂。長い旅路への憧憬と決意に満ちた二つの影を歓迎するように、物凄い機械音を鳴り響かせる。
金属の軋む音を轟かせて、プロペラは回転し始める。薙が舵を握り、美緒が彼の傍に寄り添い乗船する「孔雀」は、強い揺れを伴って少しずつ動き出す。薙は得意げに右手を高々と掲げて、緩く降ろす。
「さぁ、夢と幻想を行き交う『摩訶不思議な旅』の始まりだ」
旅の案内人でもあり、主人公でもある薙の瞳は少し大人びていて、艶がある。「この子、大きくなったらカッコ良くなるんだろうなぁ」。美緒は薙が操るのに少し苦労している舵に、手を置き、力添えしながら、そうぼんやりと考えていた。美緒は、直後には頭を振って、その思いを振り切るのに必死だったが。
やがて「孔雀」は倉庫から飛び立つと、夜空へと舞い上がり、正に夜闇の中へと溶け込んで行く。甲板上から薙と美緒が見下ろす倉庫には、「孔雀」を見送る鴨爺さんの姿があった。
薙は長らく世話になったであろう、鴨爺さんとの別れを惜しみながらも、強く前を向いて、心残りを振り切るかのように口を堅く結ぶ。美緒はその薙の横顔に少し見惚れて、舵を持つ手で握り拳を作る。
薙と美緒の乗る「孔雀」の疾走感は増し、疾風が船体へぶつかるように吹き抜けていく。飛空船「孔雀」を逞しく操縦する薙。そして彼の操舵を微力ながら手助けする美緒。彼女は風に身を委ねて、揺れる船体にうっとりと体を預ける。
「気持ちいい」
そう静かに呟いて美緒は瞳を閉じた。「こんな時間がずっと続けば、いいのにな」。叶わないと知りながらも、願望に近い思いを美緒は胸に抱えながら。
すると風の感覚が美緒の体からどこか遠くへと離れていった。美緒は切なげに手を伸ばすと、薙との夢の名残を惜しむようにこう叫んだ。
「待って!」




