エピローグ
朝方、羽々根家ではみなが慌ただしく動き回っている。父の浩一はネクタイを締めながら、新聞を読み、母の麗奈は娘達の弁当の用意で忙しい。千羽はテレビを観ながら課題をこなす。
美緒にとっては、極々見慣れた光景。何気ない日常の一ページ。
なのに今の美緒には、その全てが色鮮やかに見えた。美緒は鏡の前に立ち、新調された制服を着る。
羽々根家の面々はみな、学校へ、会社へと出向いていく。それぞれ車を走らせる浩一と麗奈。駆け出す千羽。美緒は自転車を学校まで走らせる。
美緒は今年で十六才になる。薙との「あの旅」からもう二年が過ぎた。薙との旅を経て、美緒は確実に変わっていた。
「つまらない毎日」を周囲のせいにしなくなったし、「何となくいい子」を返上した。美緒は言いたいことはキチンと言うし、譲るべきところは譲る。そんな女の子になった。そのせいか、家族との距離は一層縮まり、特に両親への不満がなくなった。
美緒は薙との旅以来、全ての出来事が、自分の現在と未来のためだと知った。美緒は進路を決めて、カウンセラーになるための勉強を始めてもいた。以前の美緒なら考えられなかったことだろう。だが何かが変わった。あの薙との旅以来。
学校へと向かう美緒の胸元に吹き込む風は、やけに涼しくて清々しい。美緒がペダルをゆったりと漕いでいると、美緒を呼び止める声がする。大海と川崎だ。美緒達三人は同じ高校に通うようになっていた。
川崎と大海はあのルマルデでの出来事を忘れている。だけど美緒はあのルマルデで、川崎と大海が必死になって自分を守ってくれたことを決して忘れてはいない。その想い出は、自分が誰かに必要とされている、という安心感にもつながっていた。穏やかな美緒の心に薙の言葉がよぎる。
「大海君。彼を大切にしてやりなよ」
美緒は、大海に気づかれないように、彼に視線を送る。大海はそれは無邪気で、奔放な青年のままだ。一方、高校生になって以来、なぜか川崎は大海と大の仲良しになった。大海の影響だろうか。川崎は以前より砕けた性格になった。より親しみやすくなったのだ。川崎も少し中学時代は無理をしていたのかもしれない。
川崎がより自由で、解放された性格になれるのなら、彼にお似合いの女性が現れるのもそう遠くはないと、美緒は感じていた。
美緒達三人は、他愛のないお喋りをしながら学校へと向かう。美緒はふと思い立ったように口にする。
「何だか最近、一つ階段をのぼった感じ」
大海も青い空を見上げる。
「羽々根もか? 俺もなーんとなく」
川崎もスマホをチェックしながら頷く。
「そうだね」
三人が仰ぎ見る、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせる。陽差しは優しくて柔らかい。三人が送る目線の先、学校の校内にチャイムが鳴り響く。
「先に行くよー」
美緒はペダルを踏んで自転車のスピードをあげる。走り抜けていく美緒の胸に、疾風が吹き抜け、淡く仄かな思い出を彼女に届ける。
彼らなりの自由と愛情を取り戻す、薙との旅は終わりを告げた。その一つ一つの思い出が美緒の心に深く刻まれ、彼女の胸を弾ませる。
美緒は今も目を閉じるだけで、カナデの、ディットルベルガーの、ボーイ・エーの、ステファーの、ナナリスの、そして薙の面影を思い出すことが出来る。
揺れては消える思い出は、太陽の光に溶けていき、そして弾け散っていく。光の只中で、美緒は今一度、彩り鮮やかな日常の温もりを、その肌に感じ取っていた。瞳を見開いた美緒の目に、夜闇を舞う、「月夜に浮かぶ孔雀」が飛び込んでくる。激しい光の明滅と、薙の最後の別れの言葉とともに。
「それじゃあ。美緒。またいつか」




