時尽きる駅へ 2
ナナリスとの凄絶な別れを経験したのち、やがてカプセルが開いて薙は体を起こす。薙は落ち着いた足取りで、砂となったナナリスに近づく。砂を両手で掬い上げる薙の顔は悲しみで満ちている。
「可哀そうな母さん。たくさんの喜びと笑顔、優しさを僕に与えてくれた。ただ一つだけ、彼女は間違った。僕をいつまでも子供のまま独占しようしたんだ。母さん、ゴメン。言葉も出ないよ」
そう口にする薙は泣いていた。薙にとってナナリス、母親と離れるのは、それはもちろん悲しいことではあったのだ。気丈に振る舞い続ける薙を見ると、美緒は胸が切なさに覆われて、彼に尋ねる。
「薙。あなたにとって母親から離れるのはそんなに大切なことだったの? あなたは何を求めていたの?」
薙は、砂をそっと床に戻すと涙を拭う。
「何を求めていたかって? 僕は形のない成果を求めていただけだよ。『大人』になるという形のない成果を」
薙は涙を拭いながら、ナナリスの砂塵を見つめている。砂と成り果てたナナリスを美緒と薙が囲い、静寂がフロアを包み込む。それはとてもとても長い時間だった。
美緒にはたしかに分かった。もし「永遠」というものがあるのならば、それはあの瞬間、薙とナナリス、そして美緒の三人が穏やかに向かい合った、あの瞬間に存在していたのだろうと。
やがて涙の枯れた薙は、優しく美緒の手を取ると、フロアから離れていく。エレベーターを経由し、分析機構を出た薙と美緒は、また無人タクシーに乗り込むと、エアポートへと戻っていった。
その間、薙は何かを言ったはずだった。何かを美緒に伝えたはずだった。なのに美緒は、薙が口にしたことを何も覚えていなかった。多分、薙とナナリスの別れに心を痛めていた美緒には、薙からの労りの言葉、感謝の言葉が届かなかったのだろう。
心を痛めていた。本当にシンプルな理由で。ただそれだけの理由で。
エアポートに戻った美緒と薙は、「孔雀」に乗り込むと、ドルメカを離れる。美緒にとって幸いなことかどうか、旅はあと少しだけ続くようだ。薙は悲しみを押し殺すように、淡々と美緒に告げる。
「これから向かう場所は『時尽きる駅』だよ。そこで父さんの思い出とさよならするつもりだ。ドルメカでは、母さんの干渉で、それが出来なかったからね」
美緒は、薙の心を傷つけないように優しく訊く。
「薙。ナナリス。お母さんには、普通に愛されたかったんでしょう?」
薙は複雑な心持ちを、未だ持て余しているようだ。だが同時に決然としている。
「もちろんそうだよ。でも歪んだ母さんの愛情は、僕の独り立ちの妨げになった。だから離れなければいけなかった。『本当は愛されたかった』という思いを振り切ってまでも」
薙の気持ちが沈む間際にあるのを見て取った美緒の頭に、ふとステファーの言葉が掠める。
「薙君の成長が悲劇とならないように助けてあげてください」
美緒は真摯な想いであえて薙に訊く。
「薙。自分に嘘をついてない?」
「どうして?」
薙は淡々と応じるだけだ。美緒は薙の心を見透かすように告げる。
「だって薙。凄く悲しそうだから」
薙は心の傷痕を悟られまいとしたのだろうか、一際精悍な顔を見せて応える。
「誰かとの別れは、それは辛いものだよ。決して愉快じゃない。だけどそうせざるを得ない時もあるんだよ。時にはね」
感傷を振り払うようにそう答えた薙は「さて」と言葉をつなぐ。
「僕と美緒は、今から『時尽きる駅』で父さんに会う。そこで母さんが心のバランスを崩した理由の一つが分かるだろう」
美緒は、薙の固い意思を前にして黙り込むしかない。薙は一面嘘をついている。だが同時にそれは薙が今抱える正直な心情でもあるのだ。だから彼に罪はない。美緒の複雑な気持ちを察したのか、薙は柔らかく彼女に尋ねる。
「少し、寂しいかい?」
そう訊かれた美緒は心の奥から想いが溢れ出る。
「えっ? うん。だって旅が終わりに近づくほど、辛いことが多くなるから」
薙は「孔雀」の進む先を見据えて、寂しげに零す。
「僕も、胸が張り裂けそうだよ」
その時、一瞬だけ美緒は、薙が涙を必死で堪える少年の姿に戻ったようにも見えた。それは本当に「一瞬」の出来事だったけれど美緒にはたしかにそう見えた。薙には、美緒が必要としている姿が映し出されている。その事実を美緒は甘く、ほろ苦く感じ取っていた。
二人は緩やかな風と静寂に身を委ねて、「孔雀」の行く先を見つめる。漆黒の夜空を航行していく「孔雀」は、やがて闇夜に浮かぶプラットホームに辿り着いた。そのプラットホームは、文字通り夜空の上に浮かんでいた。ここが「時尽きる駅」だろうかと、美緒が思っていると、薙は「孔雀」をプラットホームに横付けし、停める。
続けて薙は美緒の手を取り、プラットホームに二人して降り立つ。美緒は、ホームにふんわりと足を降ろすと、薙に訊く。
「薙。ここが『時尽きる駅』?」
薙はどこか切なげだが、ある種、確信にも満ちている。
「ああ。そうだよ。ここが『時尽きる駅』だ。少し話をすると、ここでは時間が動いていない。ここにも『永遠』がたしかに存在するんだ。そして同時に人生に別れを告げる全ての人々にとっての、慰安所でもあるんだよ」
薙の力強い言葉が響く「時尽きる駅」では、仄かに懐かしい香りが立ち込めている。薙は美緒を連れ立ち、一歩一歩足を踏み締めるように、プラットホームにある、ベンチの一つに近づいていく。紺色の古ぼけたベンチ。そこには一人の白髪の老人が、上体を屈めて座っている。彼は厚着に身を包み、少し寒そうだ。
薙は老人に歩み寄ると、とても優しく話しかける。
「父さん。久し振りだね。調子はどうだい? 風邪なんかひいてないかい?」
「父さん」。薙はたしかにそう口にした。この「時尽きる駅」で、一人寂しげに座っている老人が、薙の父親なのだろうか。時間も動かず、「永遠」という概念に守られた場所で、ずっと一人きりでうずくまる老人が薙の父親。そう思うと美緒の胸は詰まる。
薙が「父さん」と呼んだ老人は、口をモゴモゴさせている。話しかけた相手が、自分の息子、薙だと分かっていないらしい。老人は呟く。
「また。あなたですか。よく世話に……、う、うん」
声が途切れがちになり、言葉を無くしたかと思うと、老人は満面の笑みを浮かべる。老人の口元は皺だらけだが、彼の無限大の優しさが顔に表れている。薙は老人の様子を見てとても穏やかで、安定した心持ちになっているようだ。老人は半ば習慣であるかのようにポツリ、ポツリと薙に伝える。
「あなたは、素直な人だ。何をしても上手くいく。それは保障出来……、う、うう」
薙は老人、いや彼の父を見守り、優しく肩を叩くと、美緒に告げる。
「彼が、僕の父さんだよ。ずっと前にアルツハイマーを患ってしまってね。僕は父さんをこの『時尽きる駅』に委ねた。それは気が遠くなるほどの昔の話だ」
「そうなのね。薙」
ただ切なさだけが美緒の心を覆う。美緒は、薙の辛い過去を耳にして言葉も出ない。薙はベンチの縁に手をかけると改めて口にする。
「ここでは時間は進みも戻りもしない。ここはただ訪問者を優しく保護してくれるだけだ。永続的にね。今や、父さんはかつての知性をほぼ全て失ってしまった。父さんに残されたのは朧げな愛情と優しさだけだよ」
「愛情と、優しさだけ」
そう聞いて、なぜか美緒は心が落ち着くのを感じていた。人間にとって大切なものは、最後まで残るということに安心でもしたのだろうか。
薙は一拍置いて話を続ける。
「父さん、元は政治家だったんだ。それは厳しい良識人だった。僕はそんな父さんに反発もした。だけどそれも今となってはいい思い出だ。あの瞬間、思い出は今も僕と共にある。だから、色褪せない」
そう口にする薙の顔は、それは健やかで、美しくもあった。それは薙が、美緒との旅を完結させ、目的を遂げた証のようにも美緒には見えた。
「終わったんだ」
ふとそう呟いた美緒と薙が宙を見上げると、そこには極彩色に彩られた蝶々が舞っている。白、黒、灰色、赤、金色、色とりどりに染まる蝶々は薙と美緒との旅の終わりを象徴しているかのようだ。薙の父はその蝶々を見てとても喜んでいる。掌を翳して美緒と薙に勧める。
「ほら、ご覧なさい。蝶々だ。とても美しい」
薙の父は蝶々の群れに身惚れて、それは嬉しそうだ。薙はその父の姿を見て微笑む。だが悲しげにもう一つの事実を伝える。
「父さんがこうなってから、母さんは心の拠り所を僕に求めるようになった。やがて過度に僕に頼るようになり、心のバランスを失ってしまった。多分それが正解だろう」
そこまで口にして、薙は言いよどむ。
「でも『本当』の理由はどうなんだろう。母さんがヒューマンバードになった理由。科学がもっと進歩すれば、それも分かるかもしれないね」
「薙」
美緒は、この夢世界の意思そのものである薙でさえ、知り得ないものがあることに気付く。薙は一呼吸置いて、もう一つ言葉を添える。それは悲しい半生を辿った薙ならではの思想、想いでもあった。
「ただし全てが明るみに出ても、人が幸せになれるとは、限らないけどね」
そう呟いた薙の目元、口元はとても悲しそうだった。全てが明らかになっても、人は幸せになれるとは限らない。美緒は薙の痛切な思いに触れて、胸元を手で握り締める。気が付くと美緒は、もう一度薙の名前を、その手触りを確かめるように口にしていた。
「薙」
美緒の呼び掛けに、薙はそっと微笑むと、寒さに震える父親に毛布をかけて、優しく背中を撫でる。その仕草には薙の父親への底知れぬ愛情が表れているようでもあった。
「それじゃあ、父さん、元気で。さようなら」
薙の父は、薙の言葉の意味が分かっていないようだったが、、何度も喜ばしげに頷き、口にする。
「良かった。本当に良かった。本当に」
薙は美緒を「孔雀」のもとへと促して、父親から静かに離れていく。その時「黒い烏」が一斉に「時尽きる駅」から飛び去って行くのが、薙と美緒の瞳に映った。薙は、夜空を一粒の涙を浮かべて仰ぎ見る。
「黒い烏が、去っていく」
「黒い烏」。それはかつてディットルベルガーの邸宅で薙が話してくれた幻影の鳥だ。黒い烏は薙の死肉を貪っていたという。その黒い烏が飛び去っていったということは、薙がとらわれていた何がしかの苦しみ、痛み、カルマから彼が解放されたのを表わしているようでもあった。
美緒は、薙に伝える言葉が見つからず、声を重ねるしかない。
「烏が、去っていく」
「時尽きる駅」から遠のき、もう永遠に駅には近づかないであろう烏を、薙と美緒は見送ると、「孔雀」に乗り込む。一度だけ振り返った美緒の視線に入ったのは、蝶々を愛でる薙の父の姿だった。薙は何も言わず、ただ悲しみを押し殺し、自分の進むべき道を見据えているようだった。
薙が舵を取ると「孔雀」は飛び立ち、時尽きる駅を離れていく。薙と美緒の視界から、プラットホームは遠のいていく。やがて時尽きる駅は一点の影となり、二人の視界から消えた。
美緒はふと胸を覆った切なさに突き動かされて、薙にもう一度訊く。
「薙、本当にいいの?」
「ああ、僕は行かなければならない。新しい場所。新しい地平へ。愛しくもある古いものに別れを告げて。ただ、それだけだよ」
薙はそう言うと、詩のように自分の心情を表してみせる。
「何も彼も花火のように消えていく。瞬く間もなく。静かに。一瞬の閃きの内に」
僅かばかりの感傷に浸ったあと、薙は気を取り直すように美緒に話しかける。
「さぁ。これで『孔雀』の旅も終わりだ。美緒。これから僕は君を『夢工房回廊』という場所へと連れていく。そこで全ての思い出が清算されるはずだよ。それじゃあ、行こうか」
「孔雀」は緩やかな風に乗って、夜闇を航行していく。まさに「月夜に浮かぶ孔雀」だ。甲板上に立つ薙は美緒の手を力強く握る。美緒も薙の手を強く握り返して、別れの時に気持ちを備えていた。
「薙。さよならの時間だね」




