ドルメカ 1
部屋の外。階下から母の麗奈の声が聞こえる。夕食が用意出来たらしい。時刻はもう夕方の六時を回っている。美緒は、薙との旅の名残惜しさを断ち切るように食卓に向かう。
食卓に足を運びながら美緒は、自分に変化が起きていると感じる。薙との旅、経験が、美緒を少しずつ大人にしている。美緒は自分の目で見て、感じて、考えるようになっていた。美緒はまだ成長途上だが、彼女は一段ずつ階段をのぼっている。美緒は弾む足取りでそのことを実感していた。
そんな美緒の変化に、いち早く千羽だけは気付いていた。敏感で繊細な美緒の妹。食事を終えて、美緒が自室でくつろいでいると、部屋をノックして千羽は入ってくる。
「お姉ちゃん、今日は機嫌が良さそうだね。何かいいことでもあった?」
美緒は心地よさげに返す。
「んー、ちょっとね。軽い心の変化」
千羽は顔全体をほころばせて、満面の笑顔を見せる。
「へぇ、そうなんだ。お姉ちゃん、ちょっと話しにくいところあったからさ。それ、大歓迎」
「話しにくい? そうだった? まっ、でもいいや」
美緒はそう応えて、妹との他愛のない会話に何だか照れている。美緒は声に抑揚をつける。
「私、もっと人当たりが良くなるかも」
「あっ。それは嬉しいな」
美緒と千羽は、これまでにないくらい、リラックスして笑い合う。それは美緒にとっても、千羽にとっても、貴重で気持ちのいい時間だった。千羽は部屋を出る時、こう一言言葉を添える。
「千羽のさ。お手本になって欲しいな。お姉ちゃんに。恋とか。色々、ね」
少し憂いげな千羽の後ろ姿を見て、美緒は自分が彼女にとって決して「よい姉」でなかったことを知る。美緒は袖をたくし上げると軽く力こぶを作ってみせる。
「任せてよ」
千羽は、美緒の返事を聞いて安心したようだ。白い歯を目いっぱいに零して笑う。
「じゃ、可愛い妹は歯を磨いて寝ます。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
千羽のいなくなった美緒の部屋は、どこか寂寥感があった。美緒は気持ちを入れ替えて、課題を済ませるとベッドに横たわる。今日でいよいよ薙との旅も終わる。美緒は、旅の結末を予感して、胸に薙との思い出を全て刻み込むべく、目を閉じる。
点けておいた保安灯が、美緒の心持ちを投影したのか、切なげで寂しそうにも映る。美緒が薙と会えるのも多分今夜で最後だろう。美緒には、薙に話したいこと、伝えたいことが一杯ある。美緒はまとめきれないその想いを薙に伝えたい一心だった。美緒が入り混じる複雑な気持ちを抱えて、寝返りを打つと、彼女が夢の世界に誘われるのにそう時間は掛からなかった。
美緒の意識と体が漂う夢の中。気がつくと美緒はあのネズミのIT長者、ジョニー・ステファーのオフィスに今一度来ていた。どうやら美緒はプライベートでステファーに招かれているらしい。
ステファーは淀みなく話をしている。その語り口は流暢で、彼の深い自信がうかがえる。美緒は、ステファーの話に頷きながらも、彼の顔に憂いが滲んだのを見逃さなかった。それは彼が青年期の想い出に触れた時だ。
「振り返ると、つまりは『成長』とは何かと引き換えに、別の新しい何かを手に入れる。そういうものなのでしょう」
美緒は興味深げにステファーに尋ねる。
「何を失ったのですか? ステファーさんは」
ステファーの答えは明快だ。
「親との絆です」
その答えは、情が深そうに見えるステファーの口から出たものとは、美緒にはとても思えなかった。口元に手をあてて、口を塞ぐ美緒を差し置いて、ステファーは感慨深げだ。
「いえね。私は起業したのですが、両親はそのことに反対だった」
「そう、なんですか」
ステファーの告白に美緒は言葉を無くすしかない。ステファーは少しオーバーアクトな身振りで自分の悲嘆を表わす。
「私は多くの成功と人望を手に入れましたが、両親と別れざるを得なかった。これは一つの悲劇です」
美緒は、切なくて次の言葉が継げない。美緒の様子を見てステファーは彼女を励ますように微笑む。
「私の成長は悲劇だった。ただしそうではない成長もある」
美緒は、確信に満ちたステファーへ、徐々に魅了されていく。ステファーは悲しみを堪えて、顎に手をあてがう。
「美緒さん。薙君の傍にいてあげてください。彼の成長が私と同じような悲劇とならないためにも」
「薙の傍にいる」。その瞬間、美緒は、薙との旅におけるステファーの役割を初めて知る。旅の始まりに現れ、時折美緒とミーティングを繰り返したステファーは一面、薙の反面教師でもあったのだ。健やかに成長しようとする薙と、その道を誤ったステファー。彼らは表裏の関係にもある。
美緒は薙の旅に出てくる人々がみな、押し並べて、薙への奉仕の精神で形作られている事実を知る。かつてディットルベルガーが口にしたように、やはり薙はこの夢世界の中心なのだ。
ステファーのオフィスから、美緒が眺める景色は、それは美しかった。美緒にとって薙の傍に寄り添うことが、何よりも大切なことだと教えてくれたステファーに、美緒は心から感謝して、瞳を閉じる。
すると、次の瞬間には大きな風が美緒の体を取り巻いていく。美緒が瞳を開くと、彼女は月夜を航行する、「孔雀」の甲板上にいた。美緒と薙は強風に抗い、舵を必死に操る。薙が美緒の耳元で言葉に力を込める。
「美緒。離さないで。君の小さな力が必要だ。二人で力を合わせよう」
「小さな力」。それがただの腕力などではないことが、今の美緒には分かっていた。美緒は、薙と一緒に舵を力強く握り締める。「孔雀」は二人の力添えで、暴風域を抜けると、緩やかに速度を落としていく。苦境を乗り越えた「孔雀」の甲板上でほっと胸を撫で下ろす薙と美緒。
薙の視線の先には、煌々と輝く半月があった。夜空を見上げた薙はポツリと零す。
「月夜に浮かぶ、孔雀だ」
その薙の艶やかな声を一身に受けて、「孔雀」は最後の目的地へと向かう。薙と美緒の感慨と感傷を、その船体全てで支え、包み込むように。
「孔雀」の向かう先には、無機質で冷たく、凍てつく印象さえある都市が見える。都市にはガラス張りの高層ビルが、ひしめくように立ち並んでいる。薙は自分に言い聞かせるように呟く。
「中枢機械都市『ドルメカ』だ」
薙が「ドルメカ」と呼んだ、都市のビルの多くは、左右非対称のデザインでとても不可思議だった。ドルメカに舞い上がる砂粒が独特の寂寞をも醸している。「あの都市が、ドルメカ」。そう呟く美緒は薙の横顔をちらりと見つめる。薙の背はまた少し伸びたようで、顔つきも逞しくなっている。
「君がその姿を必要としているんだろう」
美緒の脳裏にまたもフラッシュバックする薙の言葉。それは薙が成長し、旅立つことを、そしてその後ろ姿で、これから年齢を重ねていく美緒に数多くを教えるだろうことを表わしてもいた。美緒が切なくもあるその事実を噛みしめていると、薙は突然服をまさぐり、銀色の短銃を美緒に手渡す。美緒は短銃をためらいがちに見つめる。
「薙。これで、何をするの?」
戸惑う美緒に薙は秘めた決意を、瞳に映して答える。
「『もしも』の時があったら、この銃を使うんだ。使い方は僕が教えるから、大丈夫」
薙の覚悟を前にして、美緒は静かに頷くと、短銃を懐に仕舞う。美緒が銃を使うと心に決めたのを確かめた薙は、美緒のこめかみに軽く触れる。何かを貼り付けたようだ。美緒はその「何か」を指で触り、尋ねる。
「何?」
薙は笑みを浮かべる。
「二人の心と意識を通わせる機械だよ。これで二人の距離が離れても問題なし」
「問題なし?」
そう不思議がって尋ねる美緒を前に、薙は瞳を閉じて口を真一文字に結ぶ。すると薙の声が直接美緒の心に届くように、彼女には聴こえてくる。
(ハロー、ハロー。美緒。聴こえますか?)
美緒も試しに口を閉ざして、胸の内で呟く。
(こちら美緒。聴こえます。薙。応答どうぞ)
その声は無事薙に届いたようだ。薙は瞳を大きく開いて白い歯を見せる。
「なっ。これで二人が何を見て、何を感じているかが分かる。離れていてもね」
「離れていても。何か照れくさい」
軽く恥ずかしがる美緒に、薙は洒落っ気を出して右目を少し吊り上げてみせる。薙の仕草から、美緒は二人がまた一つ心通わせたのが分かったようだ。轟音を響かせる「孔雀」はドルメカのエアポートに降りていく。ドルメカは静かにそして厳かに、美緒を、薙を、そして「孔雀」を歓迎するようだった。
美緒は薙の旅が健やかに、そして滞りなく終わるように心から願うしかない。美緒は胸の内で祈るように呟く。
「どうか。何も彼が傷つくことのないように」




