虹の柱 3
美緒はナナリスへの強烈なシンパシーで胸が苦しい。美緒の気持ちを察してか、薙は彼女の背中を軽く撫でる。
「辛い思いをさせたね。美緒。さて」
薙が話を一段落させると、ひと時の休息を経て、彼は美緒をエスコートする。担当医と薙が、美緒を案内するのは大海と川崎の待つ病室のようだ。通路を歩きながら、薙はルマルデとは一体「どこ」だったのかを美緒に伝える。
「ルマルデとは一体どういう場所だったのか知りたいだろう? 分かっているだろうけど、ここは美緒の夢の中じゃない。もちろん僕のでも、母さんのでも。このルマルデは僕と母さん、そして美緒の『共同幻想』とでもいうべき場所なんだよ。ルマルデは特別な場所でね。ここにいる限り、外の世界の時間はずっと止まったままなんだ」
「じゃあ、私達は」
「無事、元の時間と場所に帰れるよ」
ならば大海と川崎も、ルマルデで受けた影響を何一つ受けずに済むはずだ。彼ら二人はこのルマルデでの、悪夢にも似た思い出をキレイさっぱり忘れられるだろう。どんな不自然さもないままに。薙の返事に安心する美緒の気持ちを補うように、薙は話をまとめる。
「だから、美緒の二人の友人。彼らは記憶を消されても、何一つ違和感なく元の生活を取り戻せるだろう。全てが仮初めでしかなかったのだから」
仮初めでしかない。そう聞いて美緒は一瞬だけ切ない気持ちになる。薙の言葉は、川崎と大海が身を挺して自分を助けてくれた思い出も、仮初めとして消えてしまうのも表しているからだ。すると美緒の想いを汲み取るかのように、薙は憂いげな顔をも覗かせる。
「悲しくともそれは事実だ。それにそもそも、全ての場所に実体などないのかもしれないしね」
美緒は、薙が自分を慰めてくれているのが痛いほど伝わってきた。加えて薙が母親であるナナリスと別れなければならない切なさを抱えているのも、美緒には手に取るように分かった。
薙は胸に募る憂愁を押し殺して前に進もうとしている。それを美緒が邪魔立てする権利も必要もないことを彼女はもう知ってもいる。ならば薙と一緒に旅の終わりを見届けるしかないと美緒は思っていた。
やがて美緒と薙の二人は、大海と川崎の待つ集中治療室に入る。大海と川崎は、カプセル状の機械に横たわっている。機械は三台据えつけられており、左に大海、右に川崎が眠っており、中央は無人だった。川崎と大海は深く眠ったままだ。
「大海。川崎君」
二人を労わる思いがつい口をついて出た美緒を、薙が促す。
「この機械は現実とルマルデをつなぐ移送装置のようなものだよ。無事元の世界に帰れる。何一つ心配なく。さぁ、美緒。カプセルの中へ」
薙に勧められた美緒は、何だか無性に寂しくて、薙の手を握る。薙は優しく握り返す。
「また、夢で会えるよ。旅は佳境を迎えたけれど、まだ終わりじゃない。最後の目的地が待っている」
まだ終わりじゃない、続きがあると、薙から聞いて安堵する美緒に、彼は柔らかな笑みを見せる。
「美緒? 素敵な友達がいて、良かったね」
美緒は薙に諭されるように、彼から離れ、機械の上に横たわる。薙と美緒、二人は別れの言葉は交わさない。またすぐにでも美緒と薙の旅は始まるだろう。過酷で痛々しい哀切を伴う終焉へ向けて。そう思うと美緒は薙に掛ける言葉など見つからなかった。
担当医が手早く機械を操作すると、いよいよ機械が動き始める。その時、美緒を襲ったのは、体が失われていく感覚。意識が遠のいていく感覚だった。美緒、大海、そして川崎の三人の体はゆったりと、静かに、彼女達の現実世界に戻っていった。
美緒が目を開くと、見慣れた自分の部屋の光景が飛び込んで来る。美緒はベッドの上に腰掛けている。彼女が左手を見つめると、左手の傷は跡形もなく、消えている。ルマルデから離れる時、薙が何らかの処置を施してくれていたのだろう。
美緒は少し頭がぼんやりとしていたが、すぐにやるべきことに手をつける。美緒は、慌ただしくスマホを取り出し、大海と川崎にそれぞれ連絡をする。美緒は二人の無事を確かめるつもりだった。
連絡を取った二人の記憶は完全に失われていたのだろう。大海も、川崎もルマルデの出来事をまるで覚えていない。大海は急に電話をしてきた美緒を、冗談交じりにからかうだけだったし、川崎は突然の電話を不思議がるだけだった。
二人はあの経験を完全に忘れている。それは美緒にとっては嬉しくもあり、同時に切なくもあった。二人が自分を守ってくれた。そして三人が一つになれた。温かい体験だったのに、全てが「なかったもの」として消えたことが、美緒の胸に辛く突き刺さる。
胸の痛みで、服の胸元を鷲掴みにする美緒の頭に、ふと「あること」が掠める。それはこの一連の出来事の引き金となった当の本人、原川がどうなったのかだ。美緒達三人が、ルマルデに引きずり込まれたのを彼は目の当たりにしている。困惑して逃げ出した彼。きっと気が動転しているはずだ。
考えるが早く美緒は、原川にも電話してみる。だが多分、薙が首尾よく手配してくれていたのだろう。原川もナナリスのこと、美緒達三人をそれぞれ呼び寄せたことなどを全て忘れていた。原川は、ただのクラスメートの一人に過ぎない美緒からの突然の電話に戸惑っている。ばつが悪そうに逆に問い返す。
「羽々根さん、それで、何の用ですか?」
美緒は何とかその場を取り繕い、ごまかして電話を切った。美緒はベッドに大の字になり、天井を見つめる。鮮やかなイメージが、美緒の心に押し寄せては遠のいていく。美緒は、明らかになった薙との旅における事実の多くを、持て余している。
ナナリスと薙が母子だったこと。ようやくにして解けたヒューマンバードの謎。そして旅の目的。一つ一つが綺麗につながっていたのが、今の美緒ならば分かる。それなのに美緒は、何もかも曖昧なまま、知らない方が良かったかもしれないとも思っていた。
何も知らずに、薙と自由気ままに、「月夜に浮かぶ孔雀」に乗って旅を終わることなく続けたかった。そう美緒は悔いてもいた。それと同時に美緒は、旅にはやはりいつか終わりが来る、いや、終わりが来なければならないと知っている。薙には薙の時間が、そして美緒には美緒の生きるべき時間があるのだから。
近づいてくる結末の予感が、美緒の気持ちを高ぶらせていく。
「何も、後悔がなければいいね。薙」




