虹の柱 2
美緒がルマルデで起こった全ての出来事を噛みしめていると、ようやくにして病室に人が訪れたのか、扉がノックされる。美緒はこれまでの記憶を全て思い出す過程で労力を使ってしまい、呆然としている。体の力が抜けて、今ひとつ踏ん張りが利かない。扉を開ける気力さえ残っていない。
美緒はただただ言葉を失い、力なく目の前の白い壁を見つめるだけだ。掌を両太ももに置いて、身動き一つしない美緒。そんな彼女に、扉をノックした訪問者が小さな声で語りかける。「彼」は美緒の担当医だろうか。美緒を労わる言葉が室内に響く。
「羽々根さん。目は覚めましたか。検診のお時間ですよ」
「検診。あ、はい。よろしくお願いします」
やはりここが病院であったことに美緒があらためて気づくと、担当医と思しき人物が部屋に入ってくる。担当医はにこやかで穏やかな人物だ。だが多くの患者の診察が控えているのだろう。美緒の診察は流れ作業のように行われる。
彼は、美緒へ横になるよう促すと、小型のコンピューターチップのようなものを、美緒の額に貼り付ける。一瞬で終わる診察。
「脳波正常。脈拍異常なし。大丈夫ですね。目が覚めてからどれくらい経ちますか?」
美緒はぼんやりとしながらも返事をする。
「多分、一時間くらいです。部屋を出たかったんですけど、扉の鍵が閉まっていて」
担当医はあくまでも冷静だ。彼は美緒の病室に鍵がされていた理由を明かす。
「絶対安静の状態だったんですよ。脳波が異常に亢進して。記憶もほとんどなくなっていたはず。ですから人と無暗に接触はさせられなかった。ご了承くださいね。休んで何か、思い出せましたか?」
美緒は事実を知って、より落ち着きを取り戻す。
「はい。パズルのピースのように一つ一つ、つなぎ合わせて、色々と思い出しました」
担当医は安心したようだ。美緒の肩を優しく二度ほど叩く。
「それは良かった。一緒にいた方々も心配なされていましたよ。これで一先ず『ヒューマンバード騒動』も収まってくれるでしょう」
「一緒にいた方々」。途端に美緒の心が波打つ。美緒はベッドから跳ね起きて担当医に尋ねる。
「先生! 薙は!? 大海は!? 川崎君は!?」
担当医は朗らかな表情を崩さない。全て把握している様子の彼が一歩退くと、そこには薙の姿があった。担当医は何もかも了承しているようだ。
「それでは、私は席を外しましょう」
退席する担当医と入れ代わり、薙が美緒に近づいてくる。美緒はたまらずに薙へ駆け寄る。薙は、ナナリスと向き合ったあの時、あの瞬間の青年らしい容貌のままだ。薙の目線の高さは、美緒が顔を少し上げなければいけないほど高くなっている。美緒は薙に訊く。
「薙! 大海は!? 川崎君は!?」
薙は少し深刻な表情を浮かべる。
「彼らは集中治療室にいるよ。安心していい。ただ、彼らの記憶は消去された。『現実』に美緒達三人が戻った時、彼ら二人は何も覚えていないだろう。ルマルデのことも、ナナリス達、ヒューマンバードのことも。そしてもちろん僕のことも」
美緒は、機が熟したと感じたのか、この旅の核心について薙に訊く。
「薙、ナナリスって」
薙は、一転して穏やかなリラックスした表情を見せる。
「もう隠す必要もないね。彼女は、ナナリスは、そう。ヒューマンバードに変貌した僕の母親だ。これまで黙っていたのは美緒の心を煩わせたくなかったからだ。でも余計に心配をかけたね。ゴメンね。美緒」
美緒はヒューマンバードの真相を薙に尋ねる。
「ヒューマンバードって、深い嫉妬心にとらわれた人がなってしまうって。薙。あなたのお母さんも」
薙は、自分の家族に起こった悲劇を前にしても落ち着いている。ナナリス。つまりは薙の母親がもう、ヒューマンバードへと堕してしまったその事実を、安らかに受け入れているようだった。
「母さんは、僕を失うのを極端に恐れていた。僕が彼女の手から離れ、自分が一人取り残される不安を覚えていた。執拗なほどの母性愛に憑りつかれた彼女は、徐々に正気を失い、やがてヒューマンバードに堕してしまったというわけだよ」
ことの経緯を説明する薙は優しげな口調だが、どこか冷たくも美緒には感じられる。だがそれが彼自身、深い悲しみを乗り越えた証であるようにも、美緒には思えた。美緒は姿勢を正し、薙を見据える。
「もう、旅の目的を教えてくれるよね。薙」
薙の瞳はどこまでも澄みきっている。薙には、一つの冒険、旅路が終わった安堵感、あるいは終わる予感のようなものが漂っている。
「ああ。旅の目的。簡単なことだ。それは、ナナリス。彼女から独り立ちすることだったんだよ。聞いてみれば、簡単で、極シンプルな、何だ、と思うような中身だ。彼女からの心身両方の自立。それがこの旅の目的だ」
「自立。独り立ち」
そう聞いて、美緒はなぜか無性に切なくなった。「自立」、「独り立ち」というキーワードが、この薙の旅においては哀切と、感傷をより多く伴うものであったのを知っているからだ。
実際、この旅では薙には辛いことが多すぎた。ヒューマンバードに変貌したナナリス、ディットルベルガーに読み解かれたであろう薙の真意、そして烏の幻影。物思いに耽り、悲しげな瞳を見せる美緒を包み込むように、薙は言葉を紡ぐ。
「この旅は、僕が大人になるためのものだったたんだよ。そして旅には同乗者、俗に言う『供連れ』の同行が義務づけられていた。そのパートナーに選ばれたのが、美緒、君だったんだ」
「大人になる」。漠然としていて、掴みどころがなく、実際にはどんな状態を指すのか、幼い美緒には、まだ分からない。薙は、旅の目的の意味を、彼女なりに推し量る美緒を労わるようだ。彼は病室の窓の向こう、花々の咲き乱れる庭園を見つめる。
「つまらない話だと思っただろう? 退屈な話だと思っただろう? でもそれは何れ、美緒。君も現実世界で体験しなければならないことなんだよ。親から離れていくという、ね」
美緒は、胸にナイフのように刺さる事実を耳にして、身が引き締まる想いでいた。真っ直ぐに病室の白い壁を見つめると、薙の忠告の手触りを確かめるように呟く。
「私も、親から、離れて行く」
薙は、美緒が胸に期するものがあったのを目に留めると、話を締めくくる。
「さて、やがて旅も終わる。美緒、これまで一緒についてきてくれてありがとう。感謝するよ」
「感謝」。それは切ないくらい美緒の胸に響く。美緒は気が付くと、涙をぽろぽろと零していた。何か言おうとするが、言葉も見つからない。涙の理由も、心に出来たある種の「空白」の意味も、美緒には分からなかった。病室を美緒の零す涙の音だけが包み込み、薙は美緒の髪を優しく撫でるだけだった。
しばらくの間、薙と美緒、二人だけの時間が過ぎていく。やがて担当医の呼びかける声が響く。
「薙君。二人の体が良くなりましたよ。現実世界へと戻っていただく準備をしましょう」
薙は、気持ち良さそうに息を一度大きく吸い込むと口にする。
「分かりました。先生。さぁ、行こうか。美緒。ボーイフレンドが二人、待っているよ」
「ボーイフレンド」。その呼び名を聞いて、美緒は何だか胸が締め付けられるような痛みを覚える。美緒には、身を挺して自分を守ってくれる男性が二人もいる。ナナリスには、薙を失いつつある今、もう誰一人としていないだろう。そうと気付いた美緒は、痛切に胸の奥へ出来た傷を感じ取る。美緒は気がついたら一人痛々しげにポツリと零していた。
「ナナリスさん。あなたは本当に薙を愛していたんですね」




