歌劇「シルク」 2
美緒とボーイ・エーの二人は劇場を出ると、急ぎ足で先の高級車に再度乗り込む。運転手は、美緒とボーイ・エーが観劇を楽しんだのを見て取ると、満ち足りた面持ちでハンドルを切る。走り出す車、赤い座席、セピア色のライトが灯る車の中で、ボーイ・エーは次の行き先を美緒に伝える。
「次は『朱色の広場』という場所に案内しますよ。素敵なところです。その場所の逸話についてはそこでお話しましょう」
美緒は「朱色の広場」という、どこか悲劇性を伴う美しい響きに魅了されて、離れいく歓楽街の景観を胸に刻み留めおく。ガルトォの「豊かさ」の象徴である歓楽街のその景観を。
すると劇場から朱色の広場に向かう途中、ガルトォの歓楽街の一角に、羽根。そう。彼女。ナナリスの羽根がひらひらと舞い落ちたように見えた。だがそれは幻のように一瞬にして消えた。
「ナナリス。彼女もきっと深い、悲しみを」
そんな想いを心に呼び起こす美緒と、冷淡な眼差しさえ見せるボーイ・エーを乗せた車は、朱色の広場へとひたすらに向かう。ボーイ・エーは鼻先に人差し指を立てると謎めいた口調で美緒に告げる。
「朱色の広場では、また一つ閉ざされた秘密が明るみにされるでしょう」
「閉ざされた秘密」。その鍵言葉を耳にしても、美緒は何もイメージ出来ない。荒廃した貧民街、富裕層の歓楽街、そしてそのガルトォの街の雛型のような舞台「シルク」。それらが混然となって美緒は心を整理しきれていない。ただボーイ・エーの口にする「秘密」が悲嘆に満ちていないのを願うばかりだ。
やがて朱色の広場に着いた車から、美緒とボーイ・エーが降りると、広場には花園とでも呼べるほど、花々が方々に咲き乱れている。運転手の「お気を付けください」との言葉を背に受けて、美緒とボーイ・エーは歩みを進める。
ボーイ・エーが率先して美緒を連れていく、大きく枝葉を実らせる大樹のもとでは、多くの人々が集まっている。美緒が大樹に歩み寄ると、ボーイ・エーは先に話すと約束していた逸話について口にしだす。
「昔、ガルトォの圧政に抵抗した若者達がいました。彼らはこの大樹のもとで再会を誓い合い、闘争に赴いたのです」
「そんなことが、あったんですね」
「圧制」。幼い美緒には、その状況を朧げにしかイメージ出来ない単語だが、若者達が命を賭して立ち向かったであろうことだけは想像出来た。美緒は悲しげに大樹を見上げて、黙祷でもするかのように瞳をしばらくの間、閉じる。ボーイ・エーは郷愁の念と、憧憬、そして敬意でもって、話の続きを美緒に聞かせる。
「だが残念なことに、闘争が終わった後、大樹のもとに戻ったのはただ一人でした。彼は死んでいった仲間達の名前を大樹に彫りこんでいきます。その男こそ、ガルトォの初代知事、セト・アラカワだったのです」
「たった一人だけ」
一見荒れ放題に見えるガルトォにも、理想に殉じて闘い、散っていた人々の物語があったことに美緒は深く魅了される。ボーイ・エーの瞳は虚ろだが、どこか清々しげでもある。
「それ以来、この大樹は、別れた家族や恋人との再会を願う人々の、心の拠り所となったんです」
「再会を誓う」
樹齢何百年をゆうに超えるであろう大樹に相応しい、悠遠なる物語に、美緒が感嘆していると、ボーイ・エーから先の晴れやかさが消え失せ、彼は一転、冷たく批評する。
「だがただ一人戻ってきたそのアラカワでさえ、どんな成果も上げられませんでしたがね。彼の政治の行き着いた先が、今のガルトォだ」
美緒は、体を刺すようなボーイ・エーの指摘に、胸を引き千切られる想いがして、たまらずに彼の顔を見つめる。ボーイ・エーの左目には、歌劇「シルク」の残像が未だ映っているようにも美緒には思えた。
ボーイ・エーの瞳の奥では、タテオカとタバタ、キリング・リッチが躍動している。
「残念だよ。タテオカ。私があなたと対決しなくてはならないことが」
「動機を聞かせてもらおうか」
「シルク」のクライマックスにあるワンシーンの面影を、ボーイ・エーに見て取った美緒の顔を、彼は見据える。
「実はね。この朱色の広場でも殺人事件があったんですよ。資産家を狙った」
突然の話に当惑を隠せない美緒へ、意味ありげに、ボーイ・エーは優しい笑みを送る。
「ガルトォにも、キリング・リッチはいるのです。舞台『シルク』と同じようにね」
ボーイ・エーの瞳には悲しみが滲んでいる。なぜボーイ・エーはここまで深い憂愁と哀感を抱え込んでいるのか。ボーイ・エーの瞳が余りに切なく見えた美緒はたまらずに、ボーイ・エーに尋ねる。
「その犯人は、捕まったんですか?」
「いいえ、まだです。犯人は、この街ガルトォの腐敗を拭うべく、犯行を続けるでしょう。間違いなく」
殺人犯を責め立てもせず、否定もしない、むしろ後押しでもするかのようなボーイ・エーの話し振りを見て、美緒は、彼の瞳に何か狂気にも似たものをも感じ取る。
ボーイ・エー、この青年は薙の旅において何を象徴しているのか。ボーイ・エーは何を求めているのか。美緒に。この世界に。幾つもの謎を携えて美緒とボーイ・エーの対話は続く。
ボーイ・エーの左目には、「シルク」の残像がなおも揺れている。ネットに流布された、キリング・リッチの犯行声明文が、美緒の記憶に蘇るとともにボーイ・エーの瞳にも映り込んだように彼女には思えた。
「詰んだな。タテオカ。次はお前だ」
「詰んだな。タテオカ。次はお前だ」
「詰んだな。タテオカ。次はお前だ」
ボーイ・エーは、官能に酔いしれるように朱色の広場を見渡す。
「朱色の広場での殺人犯は、犯行を重ねていましてね。これまでに四人も犠牲になっているのです」
「四人も。それは、ヒドイ」
両手で顔を覆い驚く美緒だが、ボーイ・エーに恐れにも似た感情を抱いている自分にも気が付いていた。ボーイ・エーは美緒を連れて、大樹から離れると朱色の広場を歩いていく。少し気が引ける想いを抱えながらもボーイ・エーについていく美緒に、穏やかな瞳で彼は話しかける。
「いかがでしたか? 美緒さん。殺伐としたガルトォでさえ、見るべきところはあるでしょう」
美緒はボーイ・エーへの畏怖にも似た感情が先に立ったものの、とりあえずは優等生に近い感想を口にする。
「そうですね。舞台『シルク』。朱色の広場。どちらも素敵でした」
だが美緒もやはりこの話題に触れずにはいられない。
「それにしても殺人事件が起こっているなんて。まるで、『シルク』に始まり」
ボーイ・エーは立ち止まり、美緒の言葉を引き継ぐ。
「『シルク』に終わるですか?」
ボーイ・エーは一瞬何事かを考えると低い声で、美緒に告白する。
「事実。そうなんですよ。ガルトォでの美緒さんの旅は、『シルク』に始まり、『シルク』に終わるんですよ。ガルトォにおけるキリング・リッチは、今、ここにいるのですから」
ここにいるのですから。
「今、ここにいる」。美緒はその時、ボーイ・エーに抱いていた畏怖、恐れに近い感情が繙けていくのを、五感全てで知る。気が付くと美緒とボーイ・エーの二人は並木道に辿り着いていた。並木道では、花びらがゆったりと舞い落ちている。
ボーイ・エーの左目に再び映る、シルクの残像。タテオカと向かい合うキリング・リッチ。
「この街の腐敗。それは魂の堕落だ」
まるでそのセリフをなぞるかのように、ボーイ・エーは独白していく。
「私は富を分け隔てなく、全ての人に与えたかった。だが私一人の力で何が出来る? 闘士アラカワでさえ、ガルトォでは無力だった」
ボーイ・エーの瞳にキリング・リッチの面影が見え隠れする。美緒は更に怖くなって、後ずさりすると息を飲む。最早ボーイ・エーが何者であるか分かりかけて、恐怖だけが先立ち始めた美緒へ、彼は自らの思想を口にしていく。そう。まるでキリング・リッチが舞台、「シルク」でタテオカにそうしたように。
「拝金主義に染まった街。神の声が聞こえない街。ガルトォで私は人々に制裁を加えたかった」
「ボーイ・エーさん」
美緒は痛々しさで胸が締め付けられて、それ以上声が出ない。ボーイ・エーは美緒のその心情を察したかのように、懐から短銃を取り出す。静かに美緒の口から言葉がついて出る。
「ボーイ・エーさん。ガルトォの殺人事件の犯人って」
美緒がそう尋ねる間もなく、ボーイ・エーは彼女に告げる。
「そう。私が資産家達を手に掛けたのです」
美緒は自分の予感、予想が当たってしまったことに深い落胆と、暗澹とした想いを抱えると、ボーイ・エーの言葉に耳を傾ける。ボーイ・エーの声とキリング・リッチの声が重なって美緒には聞こえた。
「資産家を根絶やしにすること。それは私の使命だったんですよ」
ボーイ・エーは、短銃を自分のこめかみにあてる。美緒は硬直していた体を奮い立たせて、彼に叫び、呼びかける。
「待って! ボーイ・エー!」
「私は自分をも裁かなければならない。暴力に手を染めた私の魂も、『腐敗』していたのだから。私の犯罪と自害はガルトォの人々に警鐘を鳴らすでしょう」
美緒はボーイ・エーの体に飛び込まんとしてまで、彼を止めようとする。
「やめて! ボーイ・エー!」
だがボーイ・エーは美緒を振りほどき、彼の指は短銃の引き金に触れる。重なり合うボーイ・エーとキリング・リッチの残像。
「世界は浄化され、私は行く! 神の寵愛を一身に受けて!」
どうして、こんな悲しいことばかり。
美緒が一瞬、失意の言葉をそう口に仕掛けた瞬間、銃声が鳴り響き、美緒は目を伏せた。こめかみを弾丸で自ら貫いたボーイ・エー。並木道には血塗られた彼の死体が横たわるはずだった。
だがゆっくりと今一度目を開いた美緒の目に映ったのは、手を抑えて、座り込むボーイ・エーの姿だった。
ボーイ・エーの銃は、彼の手から弾き飛ばされている。美緒が見ると少し離れた場所で、薙が銃を構えて立っている。薙の銃からは煙が立ち込めている。
「薙」。美緒は悲嘆を込めて胸の奥でそう呟く。うずくまるボーイ・エーと、立ち尽くす美緒に薙が歩み寄る。淡い風は三人を取り巻いていくかのようだ。薙の口振りは逞しく、力強い。
「美緒、待たせたね。ゲルティモとの話が思いのほか、長引いてしまってね。さて」
薙は、地面に転がったボーイ・エーの銃を拾い上げると、彼に話しかける。
「ボーイ・エー。君が死んでも問題は何一つ解決しないよ。死は『逃避』でしかない。このガルトォを変えたいのなら、人々に尽くすしかない。それが、君に残された、ただ一つの道だ」
その言葉を皮切りに、薙と一緒に来ていた警察官が、ボーイ・エーを逮捕する。俯き、うなだれるボーイ・エー。彼は一つの妄執にとらわれた、一人の人間の物語の終焉と、再生の未来を見据えたのか、こう口にする。
「薙さん、私はこの街を変えたかった。手段は間違っていたとしても。薙さん? 私は失われた時間を、自分自身を取り戻せるでしょうか」
薙は、ボーイ・エーの質問に明確に答える。
「その答えは『今、この瞬間』にしかないよ。未来を紡ぎだす糸は、今、この瞬間の君の心にしかないのだから」
未熟な美緒にはまだ分からない薙の答えではあったが、薙とボーイ・エーとの長きに渡る交流とその関係から、ボーイ・エーは、そのたった一言からより多くを汲み取ったようだ。
「『今、この瞬間』。分かりました。薙さん。ありがとう、ございます」
その感謝の礼を最後に、ボーイ・エーは連行されていく。全てが泡沫の夢のように起こり、過ぎ去った並木道で、薙は美緒に歩み寄ると手を差し伸べる。薙の瞳はとても優しい。
キリング・リッチとボーイ・エーの凶行、狂気に触れた美緒には、薙の存在が渇ききった荒野の水辺のようにも思えた。薙はそれは穏やかな笑顔を見せる。
「心配かけたね。美緒。さぁ。行こうか」
美緒は、薙の手をゆっくりと握りしめる。それは薙と美緒の絆がより一層深まった瞬間でもあった。だが並木道をあとにしようとする薙と美緒に、貫くような視線があるのに美緒は気が付いた。振り返ると、薙と美緒が握りしめ合う手を、羽根で覆われたナナリスが、それは切なげに、寂しげに、遠くから見据える姿が、美緒の目に映る。
彼女の目は、それは痛ましく、今にも泣きださんばかりだった。そこまでナナリスが、薙に愛着を寄せていることに、美緒は胸が張り裂けそうになる。美緒が優しく「ナナリスさん?」と手招きしようとすると、ナナリスの姿は、並木道に鮮やかに舞い落ちる、色とりどりの花びらに成り変わり、消える。
そう。それはまるで美緒が最後まで見届けられなかった、シルクのカーテンコールのように、美しく、儚げであった。薙はナナリスには気づいていない。ならば美緒は、今この瞬間起こった出来事を薙のためにも、そしてナナリスのためでさえも伏せておこうと、心に誓っていた。
「薙、ナナリス。あなた達はまるで」




