ボーイ・エー 2
新しい、未知なる経験に胸を膨らませる、薙と美緒を優しく運ぶように、「孔雀」は少しずつスピードを落とし、ガルトォのエアポートへと着陸する。重みのある船体が軋む「孔雀」は、停泊地に案内され、整備士の手でメンテナンスを受ける。
薙は手慣れた様子で、エアポートの管理人と交渉を終えると、美緒を引き連れて歩く。美緒は「本質は純粋」と薙が形容したこのガルトォの街に、いいようのない興味と好奇心を惹かれていた。その様子に薙も気が付いたのか、美緒の高揚感を手触りで確かめるように右の拳を握りしめる。
「孔雀」から離れた薙と美緒は、エアポートから出て、ガルトォの街へと踏み込んでいく。二人が目にしたガルトォの街は、一見したところ、清掃や手入れが余りされていないようで、例えば、ボルワナとは大きな差があった。
美緒が視線を左右にやり、近場と遠方、交互に眺めると、ビルの塗装は剥がれているし、看板も錆び付いている。建物のほとんどには落書きがされていて、人々のやや荒れた暮しぶりがうかがえるようでもある。
薙は、美緒と距離が離れないように、歩幅を小さくして歩いていく。
「いくら『本質が純粋』だといってもね。ガルトォが危うい街であるのには変わりがないんだ。美緒に一人歩きはさせられないよ」
美緒は薙の後ろに隠れるようにして歩を進め、彼に尋ねる。
「ねぇ、薙。これからどこへ行くの? 誰かと会う約束でもあるの?」
「ああ。そうだよ。この街の、少し危険な青年達を束ねている男だ。名を『ゲルティモ』といってね。大丈夫。ゲルティモは、ディットルベルガーのように、人を困惑させて楽しむような男じゃない。おっとこう言うと、ディットルベルガーに悪いか。ゲルティモは、時に不義を犯すが、規律を重んじる男でもあるんだよ」
ゲルティモ。危険な青年達を束ね、時には不義も犯す。その危うく、ダークサイドな香り漂う響きに、少し美緒は、上体を引きながらも、何とか気丈な心を保とうとする。一方の薙は物怖じ一つせずに、軽やかにタクシーを止めると、美緒を車内に乗せる。薙は慣れた口振り、所作、淡々とした身振りを見せてタクシーの運転手に告げる。
「東バジリ三番区のレストラン、『ディマソー』へよろしく」
陽気な印象の運転手は頷いて車を走らせる。走り出すタクシー。美緒はある種の不安や危惧を感じながら、タクシーの車窓からガルトォの街並みを眺める。現実世界の、手の行き届いた景観に慣れた美緒にすれば、ガルトォは決して綺麗ではない。
ゴミは散らかっているし、若者達がたむろして、罵り合ったりしている。停まっている車にはあちこちに傷があった。美緒はその様相が無性に切なくて、少し瞳を伏せると、薙と美緒の二人へ運転手が、弾むような口調で、気軽に話しかけてくる。
「お客さん。ディマソーに行くなんて、よっぽど名の知れた方なんでしょうね。あそこは会員制だ。それに相当の実力者じゃないと会員にはなれない。東バジリ三番区に車を乗り入れるなんて、私も久し振りですよ。ワクワクします」
上気する運転手の話し振りにも、薙は、一言「そうですか」と言って微笑むだけだった。美緒には薙のその応対が少し冷たくも感じたが、ガルトォの人々の人となりや、ある種の礼節について詳しく知らないので、薙の態度に意見を差し挟むことはない。それに一際成熟しているように見える薙にとっては、それが自然な態度の一つにも、美緒には思えたのだ。
タクシーが遠くへ車を走らせるにつれて、ガルトォの街並みは少しずつ変化して、車は賑やかな歓楽街へと訪れた。そこでは街の景観は一変し、高級ホテルが立ち並んでいる。それはこのガルトォには「貧しい人」と「裕福な人」がいるのを、美緒に実感させる。
美緒が、薙に何か言いかけようとするのとすれ違うようにして、タクシーは、ディマソーへと到着する。背もたれから上体を起こした薙は、運転手に代金を支払うと、チップも多めに弾ませる。
薙は、この街の人々のお金への執着を、十分に分かっているようだ。その姿に、憧憬にも近い感情を抱く美緒を、薙は優しく手を引いて、タクシーから降ろし、ディマソーへと足早に入っていく。薙のあとを、つまずきそうになりながら追いかける美緒には、ディマソーの煌びやかな照明が、眩いほどに絢爛に映った。
薙が、受け付けで会員証を見せると、受け付けの青年が、美緒と薙の二人を店内へと案内していく。美緒はふと気付くことがあったので、冗談交じりで薙に尋ねる。
「あの受け付けの人にはチップはあげないの?」
すると薙は思いのほか、真剣に答える。
「ディマソーは品格あるレストランでね。チップを渡すなんてむしろ失礼にあたるんだ」
「えっ。そうなんだ」
庶民派を自認する美緒は、この多様なこの街の考え方に今ひとつついていけないが、薙をフィルターにして見ることで、幸いにも動揺はない。
薙はどんな状況、シチュエーションでも冷静に、堂々と振る舞っている。美緒は、薙を初めはやんちゃな男の子でしかないと思っていたのに、今となっては、洗練された青年の一人であることに気付いていた。
美緒は、ふとディットルベルガーの言葉を思い出す。
「薙はこの『夢世界』の意思そのものなんだ」
彼女は、ここにきて今一度、その言葉の意味を噛みしめていた。
薙と美緒が案内されたテーブルには、少し神経質そうな二十歳くらいの青年が座っている。青年の顔色は青白く、目の周りには赤みが指している。
病的で華奢だが、むしろそれが彼の魅力になっている。その青年は、仕事の都合上、社交的に振る舞っているだけという印象があった。
この男が、ゲルティモだろうか。「青年達を束ねている」わりには、年が若すぎるようにも美緒には映る。
あれこれ考えを巡らせる美緒を差し置いて、薙が笑顔を見せて男に近づく。男は磨き抜かれた立ち居振る舞いで、薙を出迎える。
「薙さん。お久し振りです。ゲルティモさんも再会を心待ちにしていますよ」
「ゲルティモが再会を心待ちにしている」。ということはこの男はゲルティモではないらしい。美緒が薙と男のやり取りを文字通り「観察」していると、薙と男は親しげに握手を交わす。二人はとても近しい間柄のようだ。
「ボーイ・エー。見違えたね。前は不器用な印象しかなかったのに、垢抜けしたね」
「ありがとうございます」
薙の褒め言葉に、「ボーイ・エー」と呼ばれた男は心底嬉しそうだ。薙は一息ついたのか、努めて控えめにしている美緒をボーイ・エーに紹介する。
「彼女は、僕の旅の『共連れ』、羽々根美緒だ。美緒。彼はボーイ・エー。ゲルティモが最も信頼する部下の一人だ」
美緒はようやく事情が呑み込めて一安心する。ボーイ・エーはボーイ・エーで、手慣れた様子で美緒に手を差し伸べる。
「よろしく。美緒さん」
「ど、どうも」
ぎこちなく握手に応じる美緒をボーイ・エーーは微笑ましげに見つめている。美緒は椅子に座るタイミングを掴むのもままならない。それもそのはず。慣れない街ガルトォ。そして会員制のレストラン、ディマソー。そして初対面の青年、ボーイ・エー。それらは決してませた女の子ではない美緒を戸惑わせるに充分だったのだ。
美緒は、このシチュエーションに馴染めないまま、何とか着席する。ボーイ・エーは、その美緒に温かい視線を投げかけている。彼は余裕たっぷりのようだ。少し身をすぼませる美緒は、俯きがちに右眉を吊り上げるしかない。
「薙。私、ちょっと不安なんだけど」




