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ボーイ・エー 1

 帰宅した美緒は課題に取り組みながらも、今日一日の出来事が、頭の中を駆け巡り、中々集中出来ない。朝方から感じていた現実との距離感。ナナリスの襲来。そして彼女の「幻想世界」の意味。それらが美緒を当惑させ、まるで憔悴させでもするかのように、ことの真相を問い掛けてくる。


 なぜ幼い薙は、ナナリスの背中に逃れるように隠れたのか。ナナリスの真意はどこにあるのか。ナナリスと薙の関係は。ナナリスが哀切を伴い口にした言葉が今一度、美緒の心に突き刺さる。



「あなたは心から人を憎んだり、愛したことがある?」



 彼女は一体美緒から、何を引き出したかったのだろう。何を聞き出したかったのだろう。それは美緒には分からない。いやあえて美緒は分かろうとはしなかった。もし今、一度に幾多の謎が繙かれたら、自分の心が壊れてしまうようにも美緒には思えたからだ。


 美緒は一つ気持ちを整理して、ナナリスと夢世界のイメージから離れると、大海の顔を思い浮かべる。一聴しては、奇妙でしかない話を真剣に取り合ってくれた大海。摩訶不思議な出来事への対処法まで一緒に考えてくれた大海。美緒は両指を絡めて、思い切り前へ伸ばすと、大海への感謝で心が満たされていく。


 一つ気掛かりなことは、薙と大海のイメージが重なって見えたことだ。たしかに薙と大海の顔立ちや性格は似ている。だが美緒は、間違っても二人を同一視したりはしないはず。それなのに美緒は、勢い余って大海に抱きついてしまった。よほど美緒自身、追い詰められていたのだろう。大海に抱きついた時の戸惑う彼の顔を思い出すと、美緒の顔には火照るものがあった。


 課題を終えた美緒は、ベッドに横たわる。電気の消えた部屋の天井は、底無しの「沼」のようで、心の深淵に美緒を飲み込んでいきそうだ。不安で、孤独で、物悲しい。美緒はふと薙のことを思い出す。薙はこれまでずっと一人だったのだろうか。今、美緒が抱えている、こんな寂寥とした想いに一人でずっと耐えてきたのだろうか。


 美緒は、薙の心証に想いを馳せるにつけ、無性に切なく、胸が詰まるものがあった。美緒は服の胸元を抑えると、心が鎮まるのを待つ。徐々に落ち着きを取り戻していく美緒に、深い睡魔が襲い、夢世界へと彼女を誘うのはそう遠くはなかった。


 夜闇に浮かぶ月が、ほぼ満月に近い月が、妖しげに輝いている。少し焦げたような懐かしい香りが、美緒の鼻孔をくすぐり、彼女を心地よくさせる。美緒が視線をあげたその先では、薙が「孔雀」に吹き込んでくる強めの風で、船体が傾かないように舵を取っている。


 美緒は何を思うでも、何を話しかけるでもなく、極自然に薙の隣に寄り添う。薙は薙で、夢世界に戻って来た美緒に何か悪さをするでもなく、舵を懸命に取りながら、自然体で美緒へ声を掛ける。



「美緒、起きたか? ぐっすり眠っていたから、起こさなかったんだ。いい『夢』でも見れたかい?」



 薙。一見しては胸が痛むような境遇に置かれているのに、安定した心持ち。微かに気遣いのこもるユーモア。髪がさらりと長い、澄みきった横顔。美緒は、いつもの薙と再会出来て心落ち着くものを感じていた。


 美緒の心持ちとは裏腹に、「孔雀」へは強風が押し寄せては去っていく。美緒の少し伸びた髪の毛は、激しく風にあおられ、なびいていく。美緒が薙を見つめると、彼の背はまた明らかに前より伸びている。大分美緒より目線が高い。美緒は、薙が自分から離れていく寂しさを一瞬感じて、儚げに薙を見つめる。その美緒の様子を見て薙は笑って尋ねる。



「どうした? 僕の横顔がそんなに魅力的かい? 褒めても何も出ないよ」



 薙の、大海と同じアプローチの冗談に、思わず美緒も吹き出してしまう。



「アハッ。別に、何もないよ。それより、薙。また少し背が伸びた?」



 美緒の質問を薙は受け取る。



「だとしたら」



 薙は舵を大きく左へ切る。「孔雀」は大きな音を立てて傾き、薙は微笑む。



「それは、きっとそういう僕を、美緒が必要としているからだよ」



 最後に一際強い風が吹くと、立ちすくみ、薙をただただ見つめるしかない美緒の髪を揺らしていく。夢世界の仕組み、離れていく薙という事実を前に美緒は、悲しくも目元を薄くゆるませる。



「うん。きっと、そうなんだろうね」



 やがて強風は収まり、柔らかい風が美緒と薙をくるめ取る。美緒は背中を「孔雀」にもたれさせる。穏やかな風は二人を包み込むにほどよく、落ち着いた二人だけの時間と、二人だけの旅路が過ぎていく。美緒は孤独感が徐々に薄らいでいくのを感じる。


 薙と美緒を乗せた「孔雀」はもの一つ言わず、臆することもなく、次の目的地を目指していく。全ての謎と憂いを抱えたままに。美緒は気持ちよさそうに、風を一身に受けると、体を後ろに反らせる。



「迷いは、ない。『孔雀』にも。私にも」



 「孔雀」は夜闇を抜けて、夕陽の滲む空へと進む。美緒と薙が黙って「孔雀」の行く先に視線を向けていると、やがて橙色に染まる空の彼方に、蜃気楼のように浮かぶ街並みが見えてきた。その趣きはどこか「ジャンクタウン」にも似ている。それが「孔雀」の次の目的地のようだった。


 薙は、新しい体験、新しい旅が始まるのを確かめると、大きく深呼吸をする。



「ほら、美緒。目的地が見えてきたぞ。少し荒れた街だけれども、その本質は純粋だ。この街、『ガルトォ』で僕も美緒も、また何かを手に入れるだろう」



 美緒は「孔雀」に体を預けて、薙の言葉を噛み締める。



「『何か』を、手に入れる」



 その力強い響きに美緒はまた心を弾ませて、ガルトォと呼ばれた街の景観へと目を移す。ガルトォは、抒情性と荒廃、両極の魅力を携えて美緒の前に横たわっていた。美緒は唇を左手で優しく撫でる。



「また新しい、一つの物語が」


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