薙 登場 2
美緒が恍惚として見つめる船体の後ろには、なぜか幾つもプロペラがついている。この船はどうやら普通の船とは違うようだ。
「プロペラ? 船に?」
そう首を傾げながら美緒は、帆船に手で触れる。帆船は組立てる途中のようで、パーツがそこかしこに散らばっている。
「これ、何だろう」
美緒がフロアの地べたを見ると、設計図と思しきものが転がっている。そしてその設計図と隣り合い、クレパスで絵が描かれたスケッチブックも置かれている。
クレパスで描かれた絵。孔雀が羽根を大きく広げ、月の浮かぶ闇夜を飛んでいる。色使いは鮮明で、柔らかい。印象派を思わせる絵だ。
「へぇー。けっこうよく出来てるじゃん」
そう口にして美緒が絵を拾い上げ眺めると、険のある少年の声が美緒のもとに届く。
「触んなよ」
少年は帆船の甲板から美緒を見下ろしている。彼は船から降りると、美緒の手から孔雀の絵を奪い取る。
少年の顔にはどこか見覚えがあった。そう。その少年の顔は、あの朝方のイメージに出てきた男の子のそれだった。
美緒はきょとんとして少年に尋ねる。
「『孔雀』。これあんたが描いたの?」
「孔雀。孔雀……。そう。孔雀だよ。でもただの孔雀じゃねぇんた。ダイナミックで鮮烈なんだから。夜の闇を切り裂いていくんだぜ」
「『孔雀』って、ひょっとして、この帆船のこと?」
美緒がそう尋ねるも、少年は質問をまともに取り合ってくれない。二人の会話はすり抜けて、若干成り立たない。
「それに『あんた』じゃねぇよ。俺の名前は薙だ。間違えんな」
「薙」と自己紹介をする少年から邪険に扱われても、美緒は平然として、淡々と尋ねる。
「この帆船、プロペラがついているってことは『空を飛ぶ』の?」
その質問に薙は不愉快げだ。口を少し尖らせる。
「みんな『孔雀』の格好ばっかり気にするんだな。本当に大切なのは『孔雀』の中身なのに」
「まだ作っている途中?」
「俺は薙だって言ってるだろ? 何度も言わせんな」
相変わらず会話が成り立たない。薙は、そう言うと不愉快そうに帆船のパーツを拾い上げ、再び船の中へと向かう。
「お前を持て成すつもりなんて更々ねぇけど、『孔雀』の能力が知りたきゃこっちに来いよ」
ここに来てついに美緒も少し頭に来たのか、不快感を滲ませて自己紹介をする。
「私、『お前』じゃないわ。名前がしっかりあるもん。羽々根美緒って。とりあえずよろしく」
薙の返事は素気ない。吐き捨てるように口にする。
「そうかよ」
薙の顔は油で黒く汚れていて、手にはスパナが握りしめられている。作業着と思しき服も黒ずんでいる。結構にシワの入った作業着。今の薙には若干大きめにも見える。
「汚れてるね。服」
美緒が言うと、薙はその気遣いにも意に関せずで、帆船に立て掛けられた梯子を昇り、美緒を手招く。
「来いよ」
油で少し汚れている薙の手に触れるのは、少し美緒は気が引けたが、断る理由もない。素朴に応える。
「うん。わかった」
少しふてくされ様子で美緒も梯子に足を掛ける。だが美緒はちょっとした拍子で、足を踏み外し、地面に転んでしまった。薙は両手を広げて、首を横に振り、呆れる。
「何やってんだ。ドンくさい女だなぁ。しっかりしろよ」
薙は棘のあるセリフとは裏腹に、優しく美緒に手を差し伸べる。美緒は少しカッとなったのか、その手を軽く払いのける。
「たまたまの、たまたまだっての! 私、これでも体育は五段階評価で四なんだからね!」
薙は、感情を初めて表に出した美緒をからかう。
「つー事は一番じゃないってことだ。駄目な女」
そうからかわれ、いじられて、キッと美緒は口を結ぶ。
(ムッ。何だか頭に来る奴。でも、何となく憎めない。それにこの子はここで何してるんだろう?)
美緒は薙の手を借りて、梯子を昇りながら尋ねる。
「ねぇ、薙君。あなた、あの時計屋のお爺さんと二人きり? 『孔雀』が完成したらどうするの?」
一足先に甲板に上がった薙は、手を再び美緒に差し伸べて笑う。その表情の愛くるしさ、魅力に美緒ははにかんで、少し目を逸らす。
(おや、意外に可愛げのある顔)
美緒のそのちょっとした変化には一切気づくことなく、薙は話をする。
「鴨爺ちゃんの所には居候させてもらっているだけだよ。孔雀が完成すればさよならだ。いつか別れは来る」
所々話がつながらない薙の言葉を耳にして、美緒は頬を一度拭って、今一度確かめる。
「『居候』って、あのお爺さん、本当のおじいちゃんじゃないの?」
そう尋ねながら、美緒は薙が差し出した手を握る。薙は笑みを浮かべる。
「『薙君』なんて気持ち悪ぃ。薙って呼べよ」
そう言うと薙は、悪戯っぽい笑顔を浮かべる。その笑顔を見据えた美緒の背中に悪い予感が走る。
次の瞬間、薙は握りしめた美緒の手を離した。美緒の遠のく意識に薙が呼びかける。
「少しは人の善意を疑えよな」
落下する美緒。スローモーションのような感覚を感じる美緒が、地面に「頭をぶつけた!」と思った瞬間、だが美緒は夢から目覚めた。
それは不可思議で、手触りに奇妙なリアリティのある鮮明な夢からの一時的な目覚めだった。




