幻想世界 2
美緒がコーヒーカップに近づくと、少年はまた別のカップから顔を出す。少年は美緒に向かって大きく舌を出すと、カップから飛び降り、走り去っていく。美緒は苛立ちよりも好奇心が先に立ち、大きな歩幅で駆け出して、少年に呼びかける。
「待ってよ!」
美緒はその時、少年の振る舞い、あどけなさ、面影から察するに、彼が少年時代の薙だと閃くように分かった。美緒は同時に、なぜ薙がナナリスの幻想世界であるはずの、この遊園地にいるのかと疑問に思う。だが彼を追いかけずにはいられない。実際、美緒はこの「幻想世界」から抜け出すには、薙を頼る以外方法がないようにも思っていたからだ。
美緒は遊園地のあちこちに足を運び、姿を晦ませた薙を探す。すると薙が海賊船のアトラクションに乗り、絶叫して遊んでいるのを美緒は見つける。少年時代の薙にはどことなく野性味があり、鋭く研がれた刃のような性格をもはらんでいる。海賊船に大きく揺られる薙は、美緒に向かって叫ぶ。
「バーカ!」
「むっ。何よ」
薙に罵られた美緒は、大きく両足を広げると、両拳を握りしめて腹を立てる。美緒は思うが早く、海賊船のアトラクションの出入り口へと先回りして、薙を待ち構える。
「これなら逃げられないわよ」。美緒は勢いづいてそう呟くが、薙は膝を抱えて、体を回転させながら、海賊船を飛び下りると、美緒から遠く離れた場所へ華麗に着地する。
「マーヌケ!」
薙は、美緒を挑発するように左手で軽く手招きして走り去る。悔しさの余り下唇を噛んだ美緒は、薙を捕まえようと腹に決めると、懸命に彼を追う。
薙はすばしっこく動いて回り、今度はミラーハウスの中へと逃げ込む。ミラーハウス。それはガラスと鏡で作られた迷路、自分の姿が幾重にも反射される、一種のラビリンスでもある。美緒は、薙を追いかけて玉虫色に輝くミラーハウスの中へと足を踏み込んでいく。
琥珀色の光も明滅して、より幻惑させるかのような迷路。美緒が手探りで歩みを進めていくその先で、薙が一瞬物思いに耽るかのように立ち止まるのが、彼女には見えた。美緒と薙との距離はそう遠くなく、すぐ手前といってもいい。美緒は、ここがチャンスとばかりに薙に駆け寄り手を伸ばす。だが次の瞬間、美緒は迷路の仕掛けと、薙に誘いに脆くもはまり、二人を隔てるガラスへと激しくぶつかってしまう。
薙はカラカラと愉快そうな笑い声を立てる。美緒はまんまと薙の手に引っ掛かり歯噛みする。それと時交差して、美緒は薙とのこの終わりのないような追いかけっこ、不思議でシュールな鬼ごっこにも似た駆け引きに、一面面白味をも見出していた。美緒は、少しだけ顎をあげて、口元に不敵な笑みをも浮かべてみせる。
「いい加減にっ! 見てろ! 薙!」
そう大声をあげる美緒を置き去りにして、薙は素早くミラーハウスの迷路から抜け出した。美緒も迷いながらも、持ち前の勘の良さを発揮して、何とか出口に辿り着く。ミラーハウスの外、美緒から少し離れた場所では、薙が彼女に向かってシャドウボクシングのポーズを取っている。美緒はその挑発に乗ったようだ。少し砂のついた口元を拭う。
「本気、出すよ」
美緒はそう強面の顔を見せて、走り出した薙をなおも追う。美緒は、知らない間に薙との不可思議な競い合いに夢中になっていた。薙と遊園地で二人きりで遊ぶ。二人だけで占められた幻想世界の遊園地。それは薙に少し想いを寄せる美緒を充足させるに十分だった。
薙は幾つものアトラクションを転々と移り行き、美緒はその彼を追いかける。
「おい! 待てったら!」
さすがの美緒も走り疲れて、息も切れ切れになった時、薙は彼女が来るのを待ち侘びるかのように、足を止めた。美緒は膝に手をあてて呼吸を整える。美緒が相当に憔悴しているのを見て取った薙は、人見知りするように、塞ぎ込んだ様子で、一人の若い女性の後ろに隠れる。
薙は不思議にも、先の野性味が消え去り、警戒して美緒を覗き込んでいる。その表情には、いつもの彼の精気がない。
「薙?」
そう心配げに口にした美緒は、薙の手を優しく握る、若い女性の顔を仰ぎ見る。その女性。艶のある瞳、柔らかい口元、品のある服装。随分若々しいので、一瞬気が付かないが、彼女は、紛れもない、ナナリスだった。ナナリスは、照れくさそうに顔を伏せる薙の頭を撫でながら、美緒に語り掛けてくる。
「あなたは心から人を憎んだり、愛したことがある? それほど一人の人間を大切に、大事に思ったことがある?」
「何を、言ってるの? ナナリスさん」
ナナリスの問いかけの真意、本心が分からずに、美緒は問い返し、言葉に詰まる。疑問を持て余し、当惑する一方の美緒を見て取ったナナリスは、薙の背中をゆっくりと抱き寄せる。
「あなたには、この子を渡さない。決して」
ナナリスの一方的な言い草、物言いに、さしもの美緒も腹に据えかねたのか、両手を広げて、彼女に言い返す。
「あのですねぇ。私は、薙を奪うも何も、ただ一緒に旅しているだけですよ。誤解もいいところです。それに、あなたは薙となんの関係が?」
美緒の直裁な質問にもナナリスは黙って答えない。それならば先手を打って、美緒はこの気味の悪い「ナナリスの幻想世界」から解放してもらおうと、薙に呼びかける。
「薙? 聴こえる? 私、早くこの場所を出たいんだけど。教室に早く私を帰して。じゃないと気が変になっちゃいそう」
ナナリスは美緒の苛立ちと焦燥を、よくよく分かっているのかいないのか、美緒へ煽り立てるように言ってのける。
「あなたには、薙と私の思い出を踏みにじらせたりはしない。覚えておきなさい」
「あの!」。美緒が声を昂ぶらせて、言い抗おうとしたその瞬間、ナナリスは先の言葉を最後に、少年時代の薙の姿とともに羽根に覆われて消えて行く。次いで遊園地の光景、「ナナリスの幻想世界」をも遠のいて消失する。ナナリスの去り際、青年になりつつある薙の声が美緒には聞こえたような気がした。
「すまないね。美緒。彼女は本当に、悲しい人だ」
「薙!」
そう大きな声をあげた美緒は、瞬きを一度しただけで、見慣れた教室に戻っていた。しばらく呆然としていた美緒だったが、我に返ると辺りを見回す。教室の時間は動きだして、灰色がかった色彩も元通り、ホームルームは何事もなく続いている。美緒は、見慣れた光景を目にして、ようやくにしてほっと一つ息つく。
「ナナリス。彼女一体何なの?」




