幻想世界 1
美緒が時計を見ると朝の六時だ。何のてらいもなく、飾り気もない、美緒の部屋が、輝いて見えるのは、どれだけ薙との旅が彼女に充足感を与えたのかを表していた。
朝食まであと少し時間があると思った美緒は、何とはなしに勉強机に座り、修学旅行のミニアルバムを開く。そこには沖縄への修学旅行の写真が幾つも載っている。美緒は、首里城、鍾乳洞などを見るにつけ思わず零す。
「楽しかったな。沖縄」
ページをめくっていく美緒は、大海と川崎、そして自分が偶然にも一緒に収まっている写真を見つける。みな、自由に振る舞っていて楽しそうだ。川崎でさえおどけたポーズを取っている。本当に楽しそう。「それなのに」と美緒は思う。
「あれ? この写真、私大好きだったのに。胸が冷えきっている。ワクワクしない」
不思議な感覚にとらわれた美緒はすぐにその理由を突き止める。それは父の日にも美緒を襲ったある種の無感動と同じ理由だった。
「夢。夢の力だ。薙の夢が思った以上に私に影響している」
そう。美緒は夢世界での刺激が、現実の魅力をすり減らしていっているのに、もう気が付きだしていた。美緒は、どことなく感情をコントロール出来なくなっているのを感じる。美緒は眩しくて、魅力に満ちた夢の方に、より一層心惹かれている。
大きな危機の一つ。そう分かっているのに美緒は抵抗出来ない。夢世界の経験は、麻薬のように美緒を誘惑し続ける。美緒は不安と焦燥で、心が乱れるのを感じるが、今は対処のしようがない。
心を夢世界に奪われて、現実での感情が麻痺してしまったら。現実の何もかもが色褪せてしまったら。幾つもの「もしも」が美緒の胸に去来するが、薙との旅だけは終わらせようと、彼女は心に決めていた。とにかくも彼女は辛うじて気持ちを切り替えると、現実生活を滞りなくこなすのに執心する。
まずは学校での生活。美緒は慎重に自分の心持ちと、クラスメートの騒めきを秤に掛ける。すると以前は気にもしなかったクラスメートのお喋りが、美緒には妙に疎ましく思える。大海との仲に探りを入れる女友達も何だか煩わしい。冗談を言い合う男子の姿もどこか神経を逆撫でするようだ。
それらの全てが、自分に原因があると気が付いた美緒は、あえてクラスメート達と距離を取り、彼女達を不快がらせないようにする。美緒は心を落ち着けようとして、クラスで一番心の許せる大海の方をちらりと見る。彼は相も変わらず友達とふざけ合っている。当たり前だが大海には一切変化はないようだ。いつでも楽しそうにしていて、毎日をエンジョイしている大海。その事実を前にして美緒は一先ずは心の置き場を見つける。
美緒が、嬉しそうに教室の天井を一度仰ぎ見ると、担任の樋口がホームルームを始める。その光景は淡々としていて、美緒を少し安心させた。
今の美緒は人の心に触れるのが、少し嫌らしい。事務的でさえあるホームルームの話には何とか耐えられる。美緒が自分の心を逐一確かめていると、不意に樋口の声が途絶える。美緒は驚いて姿勢を崩すと、辺りを見渡す。
見ると美緒の視界に入るもの全てが灰色掛かり、時間が止まっているようにも見える。皆、身動き一つしない。美緒は自分から現実味が失われていくのを感じる。
「これも夢の続き? それとも私に問題が?」
そう美緒が自分自身に問い掛けると、教室の天井から、彩り鮮やかな羽根がヒラヒラと舞い落ちてくる。「羽根」。そう。美緒にはそれがすぐに誰のものか分かった。それはナナリス、彼女のものだ。羽根の鮮やかな色合いと、灰色掛かった教室とのコントラストが不穏でありながら蠱惑的な印象を醸す。
美緒は立ち上がり、ナナリスが姿を現すのを待つ。少し身構える美緒を弄ぶかのように、ナナリスは姿さえ見せずに美緒にこう語り掛ける。その声色は美緒の置かれた立場、境遇を物見雄山で楽しんででもいるかのように、気味が悪いほど艶めかしい。
「失われていく現実味。麻痺していく感情。現実への忌避感。耐えられるかい? 薙とお前が旅を続ければ続けるほど、この感覚は際立っていく。薙との旅はお前の心を、神経を弱らせていくだろう」
「ナナリス!」
そう口にして心は抗うも、美緒の体はナナリスの言葉に吸い寄せられていく。
「やがてそれは、お前の魂でさえ貪ってしまうかもしれない。どうだい? 薙の夢世界と訣別する時だ。お前は元々薙とは何の関係もない。旅をやめたって誰一人咎めやしないんだよ?」
「旅をやめる」。ナナリスの誘惑は疲弊しきっていた美緒を惹きつけるものが十分にあり、なおかつ現実的だ。だが美緒の決意は固い。美緒は気が付くとナナリスにこう言い返していた。
それは美緒にとって、とても不思議な体験で、何か見えない力が彼女の体を突き動かしているようでもあった。
「私、こう見えて結構強いんだよ? あなたの誘惑や言葉には説得力があるけど、誘いには乗らない。私は心に誓ってるの。薙の旅の終わりを、そして旅の意味を見届けるって。だからあなたの言葉なんて怖くない」
気丈な美緒に、ナナリスは不気味なほど、無感情で冷徹に応じる。一瞬だけ羽根が教室の中央に集まり、ナナリスの手を象ると美緒を差し招く。
「そうかい。ならば私の『幻想世界』へおいで」
「幻想世界」。不可思議な響きの場所への、ナナリスの招待を合図にして、彼女の手を象っていた羽根は、息つく間もなく教室中に散らばった。散乱する羽根に、美緒の視界は遮られる。右手で目元を覆い、まとわりつく羽根から身を守る美緒。
体のバランスをやや崩した美緒が次の瞬間、目を見開くと、彼女の目の前には、どこかノスタルジックでセピア色に染まった遊園地の光景が広がっていた。
「ここが、ナナリスの『幻想世界』?」
美緒はそう一言呟くと、怯える心を若干抱えながらも遊園地を歩いて回る。美緒にはこの遊園地には見覚えがない。どうやらここは彼女の記憶や思い出の場所ではないようだ。美緒が探り探り、園内を見ていくと、コーヒーカップが回転する遊具の一つから、六つか七つくらいの、幼い男の子が顔を覗かせる。彼、少年は悪戯っぽい笑みを浮かべると、隣のコーヒーカップに飛び移り、また姿を隠した。
あの少年には見覚えがある。少年はたしかにとても身近で、大切な人。そう直観した美緒は手を差し伸ばして、思わず叫ぶ。
「待って! 君!」




