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黒い烏 1

 紙幣のホログラムは時に人を煽情するように、時に人を欲望の渦に飲み込むように、魅惑的な芳香を漂わせて、ヒラリ、またヒラリと舞い落ちてくる。


 ディットルベルガーは、ある種荘厳な光景、幻惑的でさえある情趣を背にして美緒に問う。



「もし仮に、君の手元に資産が一兆円用意されていたとしよう。君は成し遂げたい目標を持っている。だがその資産を世界の貧しい人々に分け与えれば、彼らは温かい部屋と料理を受け取れる。君はどうする? 一刻を争う問題だ。加えていうが私はここに道徳的批判を加えるつもりはない」



 流れるようなディットルベルガーの弁説。だがシンプルに分かりやすく噛み砕かれている。「一兆円の資産」。貧しい人を助けるか、目標に費やすか。美緒は一瞬だけ考えると、瞬時に彼女の体へ電撃のような閃きが駆け巡った。


 気が付くと美緒はこの難しい問題に、自分でも思いもしないほど、スムーズに答えていた。



「目標のために使います。お金は全部無くしてしまうかもしれないけれど、それはきっと私にとって大切なことだと思うんです。そしてその時の失敗や成功を貧しい人達と一緒に笑ってお喋りします。楽しいですよ。きっと」



 ディットルベルガーは訝しむ。少し嘲弄するようでもある。



「君のお喋りになんて誰も興味を示さないかもしれないよ」


「はい。知ってます。でも誰か一人くらい興味を持ってくれるような気がするんです。何てったって一兆円をかけた大目標に挑んだんですから。それにその時は私も無一文かもしれないし」



 美緒は底抜けに明るい顔を見せて、楽観に過ぎるかもしれない展望を口にする。ディットルベルガーは少し顎をもたげる。



「なるほど」



 ディットルベルガーは美緒の答えを前にして、今一度ことの是非、彼女の真意を確かめる。



「無一文になっても構わない?」



 美緒は晴れやかな笑顔を見せて、ディットルベルガーの懐疑を退ける。



「元からなかったお金ですから。何かチャレンジしたいことが見つかれば、またゼロから始めれば済むことです」



 お金に執着せず、殊更に前向き、上昇志向。加えて悲観するところなど何もない。美緒の答えを聞いたディットルベルガーは充足しきった様子で、椅子の背もたれに体を預ける。



「なるほど。いい答えだ。実のところ、この問題に正解などない。どちらを選ぼうと私は感嘆しないし、軽蔑もしなかっただろう。ただ聞き流すだけだったはずだ。ただ君はベストチョイスの一つをしたといえるだろう」



 美緒はディットルベルガーに初めて褒められると、たださえ夢のような冒険譚ぼうけんたんに思いを馳せて上機嫌だったので、顔を大きくほころばせる。ディットルベルガーは、美緒が見せた表情の変化を目にすると、一瞬だけでも微笑まざるを得ない。だが彼はすぐにいつもの取り澄ました顔を取り戻すと、本意を明らかにする。



「この質問で私が知りたかったのは君の一瞬の決断力だった。『お金』という繊細な問題を前にして、どれほど君が素早く本心を口に出来るのかが知りたかっただけだ」



 光があてられるディットルベルガーの狙い。本当に大切なこと。彼の口で、よどみなく秘密が解き明かされるにつけて、美緒は不思議な充足感で満ちる。



「そう、ですか」



 姿勢を軽く正したディットルベルガーは、美緒の答えそのものではなく、その過程に賛辞を惜しまない。



「君は『流れる川』のような感情と思考を持っている。それは薙との旅で必ず役に立つだろう。さぁ、行きなさい。薙が待っている」



 美緒は、ディットルベルガーの最後の道案内を耳にすると、安心しきったのか、すぐに立ち上がり、彼に尋ねる。



「あの。薙は、薙はどこにいるんですか? 私、早く彼に会いたい」


「薙にはすぐにでも会えるよ。言っただろう? 薙は『別の空間』のもう一人の私が持て成していると。今すぐに、行くといいよ」



 その時のディットルベルガーには、会食の間にはついぞ見えなかった「優しさ」が垣間見えていた。



「はい。ありがとうございます」



 美緒はディットルベルガーに一言お礼を言うと、慌てて彼との食卓の間をあとにする。美緒は駆け出して、向かい側の両開きの扉に向かう。



「薙は私に、私は薙に必要だって、あらためて分かった」



 美緒の胸には、確かな手応えのある想いが今一度去来していた。だが胸の鼓動を弾ませる美緒に、ディットルベルガーは一言添えるのを忘れない。



「気をつけるといいよ。ちょっとしたハプニングにも、見舞われるだろうから」



 美緒は、「はい」とだけ答えると、食卓の扉を開ける。その扉の先には円形の広間が広がっている。広間は白く塗装され、神秘性で彩られてでもいるかのようだ。広間へと足を踏み出した美緒に語り掛けるテノゼリの声が聞こえる。



「広間の中央にある鏡に触れてごらんなさい。もう一つの空間にいる薙殿と再会出来るでしょう」



 テノゼリとの久しぶりの再会。彼の声が相も変わらず起伏のないものであっても、美緒にはそれがどこか懐かしくも感じられた。少し笑みを零す美緒は、テノゼリの勧めるまま、鏡に歩み寄ると触れる。すると激しい光が迸り、明滅する光とともに薙の姿が宙に映し出される。


 薙は、どこかの塔の一室でディットルベルガーと話をしている。話の中身は、美緒には分からない。幾つかの言葉を二人は交わし合ったあと、ディットルベルガーは、何か最後に一言言い残すと、薙の目の前から消えた。


 一人部屋に取り残された薙は、物想いに耽るように、壁に絡まっている蔦を握りしめる。これもディットルベルガーが指示したのだろうか。だが次の瞬間、蔦は物凄い勢いで繁茂し始め、部屋中を覆っていく。美緒はその光景を前に思わず叫ぶ。



「薙!」



 テノゼリが温かくどこか包容力のある口振りで、美緒に勧める。



「広間をしっかりとご覧なさい。そこに36枚の扉がもうけられている。どれか一つの扉を選び、薙殿のもとへ出向かれるのがよろしいかと」



 美緒は、その時ディットルベルガーにやや忌避感を覚えた。美緒には、彼がなぜ親友であるはずの薙を、ここまで危険に晒すのか、全く分からなかったからだ。


 ディットルベルガーは悪意に満ちた人物か。それともあるいは本心は別のところにあるのか。不穏な疑問が美緒の心を覆う。もう一度ディットルベルガーの先の言葉が瞬時、美緒の頭を掠める。



「ちょっとしたハプニングにも見舞われるだろうから」



 ディットルベルガーの本意、目的はともかく、美緒は薙を助け出したい気持ちで一杯だ。このまま放置すれば、薙は蔦に飲み込まれてしまうだろう。美緒は駆り立てられる気持ちのまま、急いで36枚の扉の一つを開けた。


 扉の向こうには、硝子張りの広間に、氷で作られた階段が階上に向かって伸びている。美緒は、僅かばかりの躊躇いもなく階段を駆け上がる。


 すると一段上がるごとに階段が、一段ずつ崩れ落ちていく。硝子には綺麗な顔立ちの薙が映し出される。硝子に映された薙は、美緒に呼び掛ける。



「美緒。旅は始まったばかりだけど、君に無理はさせたくないんだ」



 どことなく弱気で、後ろ向きな印象さえある薙の言い方に、美緒は心の奥で叫ぶ。



「だからって! こんなところでやめるわけにはいかないでしょ!」



 薙の顔は小さな球体に分かれ、別の場所に移動すると、また違った表情の薙の顔を形作る。薙の顔色はどことなく憂愁が滲み、陰りが差している。



「旅の意味も目的も知らないまま、僕についてくる必要は君にはないんだよ。旅の目的はなるべく秘密にしておきたいんだ。他愛がなく、無味乾燥なものだからね。この旅に大きな意味なんてないんだよ。意味。それは余りに僕の個人的な」



 薙と美緒の旅自体を投げ打つような、薙の物言いを美緒は大きな声で遮る。



「それ以上言うと、私、怒るからね! 否定しないでよ! 薙!」



 美緒の怒声にも似た声に、薙は心が緩んだような笑みを浮かべる。



「美緒がそこまで必死になってくれるなんて珍しい。いつも控えめなのに。だけど美緒、君の考えは正しくない。この旅自体は大切でも何でもない。ただの戯れに過ぎない。時間潰しの」



 階段を駆け上がりながら、美緒はなおも薙に抗う。



「それでも! 旅の終わりには何かあるんでしょ!? やり遂げるんでしょう!? 最後まで付き合うからさ!」



 硝子に映る薙は、優しい顔を見せて、やがて心に決めたよう頬をほころばせる。それと時交差するように美緒は、階段をのぼり終える。薙は、膝に手をついて息を切らす美緒に話し掛ける。



「美緒がそう言うのなら、もう少し、続けようか」



 美緒の息は切れ切れだ。



「そうだよ。薙」



 美緒は階段をのぼり終えたところにある黄金色の扉を開く。そこは先に見た塔の一室で、蔦は部屋中を埋めつくしている。蔦の増殖振りは視界を遮るほどで、最早薙の姿を部屋から見つけることは出来ない。


 だが美緒は、一瞬の迷いもなく臆せずに蔦に触れる。すると瞬時にして、蔦は枯れ果て、色鮮やかな花びらへと変貌すると、地面へと舞い落ちていく。


 その情景に目を奪われる美緒が、視線を落とすと舞い落ちた花びらの上に薙が倒れ込んでいる。美緒は急き立てられるように薙に駆け寄り、彼を抱え上げる。



「薙、大丈夫? こんなイヤな場所、早く出よう?」



 薙は美緒の声に、しばらくは反応がなかったが、やがてゆっくりと瞳を見開く。薙はどこか夢現の状態にある。ぼんやりとしていて瞳の焦点さえ合っていない。美緒に抱き抱えられているのに、その実感がないようで、そのこと自体に無関心だった。薙は美緒の手触り、肌触りを確かめるように何とか口にする。



「美緒? 美緒。来て、くれたんだね」


「薙!」

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