ディットルベルガー 2
男性がとりあえずは信頼の置ける人物だと踏んだ美緒は、遠慮なく料理に手をつける。ロブスターにも似た、初めて目にする料理は美緒の味覚を満足させるに十分で、こんがりと火の通ったチーズのとろみで美緒の頬は今にも零れ落ちそうになる。甘味と酸味が口中に広がり、料理を口一杯に頬張る美緒は、ふと気が付く。
(そういえば薙は? この人がディットルベルガーさん。それならすぐにでも会えてるはずなのに。薙、いないや)
美緒は食欲が先走った自分を、少し恥じ入るような仕草をあえて見せて、遠慮がちに、控えめに男性に尋ねる。
「あの。薙は? あなたが、ディットルベルガーさんでしょ?」
美緒に「ディットルベルガー」と呼ばれた男は、布巾で口を拭うと優しげな瞳を見せる。その振る舞いは気品と、洗練された男の香しささえ美緒に感じさせる。
「もちろん。私がディットルベルガーだ。薙。彼のことなら心配ない。薙はもう一つの『空間』に存在する、もう一人の私が持て成している」
美緒は眉を寄せて訝しがる。
「もう一つの空間?」
美緒はこの街で出逢った、新しい「不思議」を前にして次の句が継げない。様々な疑問が湧いて出て、頭の中が半ば飽和状態にある美緒を気にもせずに、ディットルベルガーは、話を解き明かす。
「君達がY字路で別れた時、君達は違う空間に、それぞれ移動したんだよ。『空間』とは決して一つではないからね。何。でも大丈夫。この邸宅を出る頃には二人はまた一緒になれるよ」
謎の一つを、流れるような口振りで繙いたディットルベルガーは、手を差し招く。
「さて。さしあたっては、もし不快でなければ、私は君の心を知りたい。心理分析でもいうべきものをしてみたい。君がイヤでなければね」
「君の心を知りたい」。美緒はそう言われて、警戒とも畏怖ともつかない感情を覚えて、指先が少し震えるのを感じる。だがこの男、ディットルベルガーというこの男、見た限りでは、悪い人間ではない。
美緒の性格を調べるために設けた、邸宅の様々な仕掛けは、決して趣味のいいものではなかったが、それも彼の、過度の秘密主義と貴族紛いの嗜好から来ている。美緒は、単純に美味しい料理を持て成された恩義も感じてか、ディットルベルガーの勧めに応じてもいい、とも感じていた。
「それに」と美緒は振り返る。「カナデちゃんのいるボルワナでも、この街でも、心を調べられることがどうしてかな。多い」。心を調べる、という一つの共通点にも気づいた美緒は、自分の心が解き明かされるのが、きっと薙の旅のためにもなると直観もする。ディットルベルガーは洋酒を口に含むと、まだまだ幼いなりに考えを巡らせた美緒に尋ねる。
「心の『精査』。引き受けてくれるかね」
「はい。ディットルベルガーさんさえ良ければ」
美緒は真っ直ぐにディットルベルガーの瞳を見据えて、頷いてみせる。ディットルベルガーは美緒の心持ちに大いに満足したのか、布巾をテーブルの隅に移し、質問を始める。
「まず、最初に一つ訊こう。今、この瞬間、君は、私と一緒にいるこの時間を『夢』だと実感しているかね?」
ディットルベルガーの質問は謎めいているが、直裁だ。それに一度このニュアンスの話は薙としたことがある。だから答えづらい質問ではない。美緒は、ディットルベルガーの質問を理解すると、思った通りのことを口にする。美緒の視線はひたむきだ。
「夢という実感はあんまり。だって余りにもリアリティがありすぎるから。だから多分夢なんだろうなという感覚です」
「多分、夢。どんな観点から?」
「どんな観点」。美緒はその点は深く考えたこともない。人は睡眠時に夢を見る。そんなシンプルな構図を美緒は抱いている。
「だって私が眠ったら、『この世界』に来たから」
ディットルベルガーの視点はあくまでも懐疑的だ。美緒の「当たり前」の答えに、彼は一つの疑問を重ねて、話をより膨らませていく。
「なるほど。君は自分が『眠った』からこそ、この世界が夢だと信じているんだね。だが角度を変えてみて欲しい。君が現実だと思っている世界の方こそ夢だったら? 君はその世界で眠りに就くことにおいてのみ、本当の現実。すなわちこの世界に運ばれているのかもしれないよ」
美緒には、ディットルベルガーの瞳が妖しく、艶めかしくも映る。ディットルベルガーは両指を組み合わせる。
「実際、夢と現実の境界とは曖昧で、不可思議なものなのだから」
ディットルベルガーの視点は、薙が以前、半ば冗談交じりに口にしたものと似通っている。だがこの哲学めいた話を完全に理解するには、美緒は一面、余りに素直であり、この種の話に耐性がつくほど、考え込むタイプでもない。
「よく、分からないわ」
ディットルベルガーの心を揺さぶる話に、美緒はただただ躊躇うしかない。だから美緒は視点を変えてみる。話を自然な方向に仕向けたのだ。美緒は逆にディットルベルガーに訊く。
「ディットルベルガーさんは、薙とはどんな関係なんですか? 昔からの知り合いですか?」
ディットルベルガーは美緒の心持ち、狙いが分かったのか、微笑む。
「親友同士。教師と生徒、逆に聖者とその崇拝者。どのようにも言えるね」
美緒はディットルベルガーの勿体ぶった物言いに、若干のもどかしさを感じたが、構わずに確かめる。
「薙とは親しい関係ではあるんですね」
「そう。その通り」
ディットルベルガーは、美緒のある種の攻勢を軽くあしらうと、もう一つ問題を提起してみせる。話はやはりディットルベルガーのペースで進むようだ。
ディットルベルガーにとっては、新しい「客人」。羽々根美緒の内面を調べることの方が、薙の話よりよほど興味のあることらしい。彼は口にする。
「ところで。君は今現在の『自分自身』が、『羽々根美緒』だという確信をどうして持っていられるのかね」
「仰る意味が分かりません」
半ばディットルベルガーに心を閉ざしかけた美緒は、素直に答える。一方ディットルベルガーはディットルベルガーで、話し相手を困惑させる、このやり取りに一興を見い出しているようで、すこぶる上機嫌だ。彼は話を噛み砕く。
「つまりは、この夢世界の羽々根美緒は、現実世界の羽々根美緒と同じ人間だと、どうして信じていられるのかね」
美緒はディットルベルガーの意図が、今一つ掴めない。美緒は、心を揺さぶる質問ばかりするディットルベルガーに疑念にも似た感情が湧くが、それでも自分の分かる範囲で懸命に答える。
「私は羽々根美緒です。だって私は、何て言ったらいいのかな。羽々根美緒としての記憶のつながりを持っているから」
精一杯に知恵を振り絞り、答えた美緒にも、ディットルベルガーは決して感心などはしない。彼は、美緒を惑乱でもさせるかのようになおも畳みかける。
「記憶のつながりがある。それはそれでいいだろう。だが! 現実世界で君が眠りに就いた時、何処かの誰かが、君の意識と体を奪い去ってしまったのかもしれないよ? だとしたら、現実世界の君と、夢世界の君は別人といっていいかもしれないね」
美緒は、ディットルベルガーのかく乱を前にして、目を大きく見開き、必死に自分に言い聞かせる。
「私は、羽々根美緒です。だって、分かるもの」
美緒は手に汗がうっすらと滲んでいるのを感じる。美緒が半面答えに詰まっているのを見て取ると、ディットルベルガーは益々、会話に面白味を見い出したのか、更なる趣向を凝らす。
「それに君の心身を奪い去る、その盗人は、ひょっとしたら薙かもしれない。薙といえども、絶対に信頼出来る人物ではない。薙は、君を永遠に『夢の虜囚』にしてしまうかもしれないんだよ? 警戒を怠ってはいけないね」
美緒はそこまで話が進むと顔色を変えて、ディットルベルガーの真意を確かめる。薙を悪く言われたのが、美緒は違和感を感じるとともに、無性に「イヤ」だったからだ。美緒は真摯な眼差しをディットルベルガーに向ける。
「薙が、彼がそんなヒドイことをすると思いますか? 私は彼と出逢ってまだ間もないけれど、彼が、そんな悪い人間ではないってことくらい分かります。薙は欠点も多い。だけど素敵な子です。ひょっとしたら、私の方が薙のことについては詳しいかもしれませんよ。ディットルベルガーさん」
美緒の力強い反発にも似た返事を聞いて、ディットルベルガーは満足げだ。
「そうか。そうだね。だが、今君が口にした一連の言葉から、君は随分薙に心を寄せているのが分かるね。『好意』、『淡い恋心』にも似たものを君は、薙に抱いている」
美緒は自分を奮い立たせようとしながらも、言い淀まざるを得ない。
「それは……」
美緒が俯きがちになるのを見て、ディットルベルガーは目を細める。
「それは、なぜかね? この夢世界の自由が君の心を解きほぐしているからでは? それが薙への恋愛感情へと取って代わっている。そう解釈してもいいのでは?」
さすがの美緒も、そこまで心の謎解きをされて、軽い不快感をこのディットルベルガーという男に抱いてしまう。彼の狙いは、相手を揺さぶって、「動揺させること」で、会話や食事を楽しむことではない。
そうと分かると美緒は、「私だって素直なだけの子じゃない」と思い立ち、ディットルベルガーの意見をあえて跳ねつけてみせる。
「そんな分析には、興味ありません」
美緒の反抗心が際立って表に出たのを、目に取ったディットルベルガーは、少し顎を上げると、話が一段落ついたのを確かめたようだ。彼は次なる質問へと向かうべく、手を翳し、美緒に天井を仰ぎ見るように勧める。
美緒がディットルベルガーに促されるまま、顔をあげて天井を見ると、天井全体が透明なスクリーンで覆われているのが分かる。余興の一つでもあるかのように、ディットルベルガーが手を翻すと、スクリーンに飛空船の映像が映し出される。
空に舞い上がる飛空船は燃え上がり、今にも墜落しようとしている。ディットルベルガーの持て成しの仕方、趣味嗜好に嫌悪に近い感情を抱いた美緒は、眉をひそめざるを得ない。
「ヒドイ」




