ディットルベルガー 1
このカラクリ仕掛けの邸宅に挑まんばかりの意気込みで、美緒はY字路から薙と別れていく。先の庭園からかどうか、花々の香りがどこからともなく漂う通路は、しばらく進むと途切れてしまい、ぽっかり開いた空洞につながっている。
そこでは足場も、壁も、天井も暗闇に閉ざされていて、何も見えない。最早歩を進める場所さえ見つからない通路の途切れ目に来て、気味の悪さを感じた美緒は、足を踏み出そうとしてやめた。
美緒は、実のところとても動揺していたが、取り繕って平気な顔をしてみせる。執事のテノゼリも、ディットルベルガーも、どこからか自分を見ていると思うと、美緒は気丈に振る舞わざるを得ない。
「人が狼狽えるのを楽しむ余興」。「客人が動揺するのを見て悦に入る主」。風変りな仕掛けを見て美緒はそう勘繰るしかない
「こんな持て成しをする人なんてきっとそんな人間」
そう軽口を叩くと、左手を腰にあてて、余裕たっぷりに見せる美緒。心中は穏やかではないのにも関わらず、彼女はハミングさえしてみせる。額にうっすらと汗が滲むのを美緒は感じたが、それを拭いもせず鼻歌をやめはしない。
すると本当は怯える美緒の心情を察したのかどうか、テノゼリの声がどこからか響く。テノゼリの声には相も変わらず抑揚がなく、人間味がまるでない。
「安心しなさい。硬質ガラスです。一歩、一歩踏み締めるのがよろしかろうと」
テノゼリは暗闇に包まれた空洞のことを指しているらしい。「硬質ガラス」。その言葉を聞いて美緒は一安心したが、心の内を悟られまいとして、取り澄ました顔で、空洞へと一つ足を踏みしめる。
どうやらテノゼリの言う通り、硬質ガラスというのは本当らしい。美緒の足場はしっかりと確保出来る。カツカツと乾いた音を踏み鳴らして、美緒はひたすら闇に閉ざされた、先の見えない前方へと進んでいく。
しばらく歩みを進めると、美緒の視界に天井へと続く螺旋階段が入って来る。寂寞とした虚空に浮かぶ螺旋階段。それは非現実性に満ちていて、人を幻惑させるかのような趣きさえある。
螺旋階段には赤い絨毯が敷きつめられていて、美緒には、それがこの邸宅の主、ディットルベルガーの一風変わった気品を表わしているようにも思える。
「これは、中々に。趣味がいいかな、と」
美緒が誰にも聞こえないように小声で呟くと、テノゼリが妙に包容力のある声で、彼女に語りかける。
「さぁ、お嬢さん、階段をお上がりなさい。もう少しでこの邸宅の主人に会えるでしょうから」
「主人」。それは当然ディットルベルガーのことだろう。そう確信めいた気持ちを抱くと美緒は、澄ました顔を崩さずに階段をのぼって行く。
だが少し階段を五、六段も歩いたところだろうか、突然轟音が鳴り響くと、階段は上下回転を始めて、百八十度逆さになってしまった。
「うわあぁぁああ!」
悲鳴をあげて真っ逆様に地面に落下する美緒。そのはずだった。なのに不自然極まりないことに、美緒の体は重力に反して、階段に吸いついている。
美緒は、驚きと不安で動悸が止まらない。胸に手をあてて、呼吸を整えるのに懸命だ。こうも弄ばれては、美緒はディットルベルガーとテノぜリの視線を意識すると、口元をきつく結ぶ。
美緒はここまで来ると腹を据える。戸惑う心を覆い隠して、少し体のバランスを立て直すと、彼女は何食わぬ顔で階段を一段、一段、あがって行く。
「どうよ。この乙女の逞しさよ」
そう言ってのける美緒には、ディットルベルガーとテノゼリの感嘆の声が耳に届いたような気がした。
一先ずは上機嫌になった美緒がしばらく階段をのぼると、壁に女性の胸像が幾つも置かれた場所へと通りかかる。銅製の胸像である女性の顔立ちは美しく、上品でさえある。
美緒は、一つ一つの胸像を鑑賞しながら、なおも階段をのぼって行く。胸像はどれ一つ同じものがなく、よくよく見ると彼女達の瞳から微かな涙が零れている。
その光景を目にするにつけ、美緒はなぜかナナリスのことを思い起こした。胸の奥が切なさで覆われた美緒は、この胸像のように、心の奥底では涙しているナナリスの姿を目に浮かべた。暗い感傷で押し潰されそうになった美緒は、一言「何か、辛い」と零して目を伏せる。
ようやく階段をのぼり終えると、そこには両開きの褐色の扉が、美緒を歓迎するように設えてある。その隣には、黒い正装に身を包んだ初老の男性が立っている。「この人が、テノゼリ」。美緒の推察にも構わずに、男性は恭しく礼をする。
「お待ちしておりました。薙様のパートナー。羽々根美緒様ですね」
重厚で、濃密な経験をした美緒とっては、それがいかに素性の分からない仕掛け人の言葉ではあっても、久し振りに掛けられた声にとりあえずは安堵する。
「はい。そうです」
美緒は警戒心を少し緩めながらも、慎重に口にした。テノゼリは、美緒の揺れる心を察したのか、警戒心をさらに和らげるように、様々な仕掛けを施した理由を、彼女に話して聞かせる。
「私達は客人を迎える立場にあれど、客人を選ぶ権利も持ち合わせているのです。過度に臆病な人間、敵意に満ちた人間にはお引き取り願うようにしているのです」
ことの真相を聞いて、美緒は「ああ、やっぱりね」と少し意地悪く納得したりもする。
「つまり、私は調べられていたってことね? あんまりいい気分じゃなかった」
テノゼリは品格に満ちた両眼を僅かだが、陽気に見開くと、頭を下げて謝罪する。
「それは失礼を。これはディットルベルガー様からの強いご要望なのです。不快な思いをされたのならば謝罪致します」
美緒は仕方ない、といった調子でテノゼリの謝罪を受ける。
「別にいいわ。あなた達はそういうルールなんでしょ? やっちゃったなら仕様がない。それで、私はテストに受かったワケ?」
気を取り直した美緒を見て、テノゼリは上気して機嫌が良さそうだ。
「それはもう。ディットルベルガー様も大変満足しておられました」
「『満足』ね。何だか見世物小屋の動物みたい」
「それは、返す返すも失礼を。それでは」
テノゼリはそう断り、一礼すると、慣れた様子で両開きの扉を開き、食卓に美緒を案内する。美緒が招かれた食卓では、一人の三十代半ばほどの男性が円卓の椅子に座っている。
テノゼリは役目を終えたのを確かめたのか、胸元に手をあててお辞儀をすると退室する。少しは信頼出来る印象のテノゼリが立ち去り、また一人ぼっちになってしまった美緒は不安に駆られる。だが椅子に座る男性の持て成しが、予想以上にスマートであるのを目にしてとりあえずは胸を撫で下ろす。
男性は、美緒に自分と向かい合い座るように促した。食卓には豪勢な料理が用意されている。香しい匂いが美緒の食欲をそそる。美緒は随分と長い時間、何も口にしていない。
「お腹空いた」。そんな美緒の気持ちを察したのか、男性は食事を優雅な身振りで勧める。
「どうぞ、ミス。毒など入っていない。我が料理長が手掛けた絶品を存分に味わうといいよ」




