薙 登場 1
夢。夜闇。リアリティがなく、ぼんやりとして掴み所のない知覚。
夢を見ているはず。美緒はそんな自覚があるのに心がいうことを聞かない。
どこからか、美緒の体のどこからか、何者かが美緒に「ここはもう一つの素敵な世界だ」と語りかけてくる。
夜空には半月が浮かぶ。太陽の光を浴びて、クレーターが幻想的な紋様を浮かび上がらせている。
「キレイ、ね」
そう一口口をついて零す美緒の足元には、青色、赤色の原色で彩られたタイルが敷きつめられ、小道を作っている。
ショートボブの彼女の目線の先には、ヨーロッパの街並みを思わせる古めかしい建物が並ぶ。
「どこだろう。ここは」
美緒の視界に入る建物は、噴水を円形に取り囲み、一つの広場を形作っている。
美緒はそのぱっちりと見開いた瞳で、周囲を見るも人けはない。赤褐色に染まる街灯が広場の中央を照らし出す。
すると広場の片隅の小さな建物。時計屋だろうか。「ア・クロック」と看板の立て掛けられた、小さな建物から、燕尾服を着たネズミが満足げに出てくる。
何の不自然もない。ネズミが燕尾服を着ていようと、二本足で歩いていようと、美緒は「夢を見ている」という安心感からか、「何の問題もない」と捉えたようだ。
「平気、平気」。美緒はそう呟くと、着ている黒と白のストライプのシャツを正して、立ち去っていくネズミを見送る。そして彼女は次の来客は自分であるべきだ、となぜか確信して時計屋の扉を開いた。
時計屋、大小様々な時計が決して広くはない店内に、所せましと置かれている。時刻を知らせる鳥の鳴き声が美緒には妙に心地いい。
見ると店の奥まったところ、カウンターでは寡黙な印象の老人が背をすぼませて、ぜんまい仕掛けの懐中時計を直している。
老人は美緒の姿に気づくと右目にあてた虫眼鏡を外す。
「これはこれは。いらっしゃい」
美緒は、ここで初めて心と体の自由を得たのか、一度軽く会釈すると、履いていた短めの赤いスカートをふんわりと舞わせて、よく通る声で挨拶をする。
「どうも。お邪魔します。さっきのお客さん、ネズミですか!? 燕尾服を着たネズミがお客で来るなんて面白いですね!」
美緒の突然で不躾にも聞こえる質問にも、老人は丁寧に受け答えをする。
「ジョニー・ステファーですね。彼は大学時代に起業した、近代の長者ですよ」
「ジョニー・ステファー。彼、ネズミじゃないの?」
「はい。正真正銘のネズミですよ。彼。ジョニー・ステファーは。あなたが見たまま、感じたままの姿が彼自身ですよ。疑う余地のない」
そう言って老人はにこやかに微笑んだ。見たまま、感じたままの姿が彼自身。少し奇妙な感覚に美緒はとらわれたが、老人の落ち着いた佇まい、物言いに惹き込まれていく。
老人は修理していた懐中時計をゆったりと翳す。
「さて、ようやく終わりました。私もそろそろお役御免のようです。彼のもとへ向かわれるのがよろしいかと」
「『彼』って誰ですか?」
美緒がそう尋ねると、老人は奥のフロアへと続く通路を指さす。通路は長い一本道だ。美緒は手を翳して一本道の奥を臨む。
「向こうは?」
「薙の工房です。私が孫のように可愛がっている少年ですよ」
「ナギ?」
「そう、『ナギ』です。一風変わった子ですが、それも彼の生い立ちゆえ。本当は素直で、明るい青年です」
美緒は、老人の言葉が一部たがえたのを聞き取り、彼に確かめる。
「青年? 少年? どっちなんですか?」
老人にとってはその種の問題はありきたりで、馴染みのあるもののようだ。彼は落ち着いた様子、物腰でその問い掛けに答える。
「どちらでもあるのです。あなたの見える姿が、それすなわち嘘偽りのない薙の姿。仲良くしてあげてください。彼は今『孔雀』と遊んでいます」
「どちらでもある? それに『孔雀』って?」
一瞬朝方のイメージが美緒の頭を掠める。あの少年は、飛空船のことをしきりに「孔雀」と呼んでいた。
だが美緒の質問に老人は明確な答えを出さない。こう愛おしげに、寂しげに口にするだけだ。
「薙との別れの日も近い。何れ来る。寂しいが致し方ない。薙も孤独と沈黙に耐える身。あなたに出逢えば何か心変わりがあるかもしれません。行ってあげてください」
そう言葉を締めくくると、老人は懐中時計の修理にもう一度取り掛かる。修理に没頭する老人の眼中には、美緒はもういない。
美緒は軽く老人に礼をして、奥のフロアへと歩いていく。
美緒は、トツトツと軽い足音を響かせて、薄明かりに電燈が灯る長い通路を進むと、倉庫、格納庫とでもいうべき、広々としたフロアに辿り着く。
「大きい。何だろう。それに、船?」
美緒がそう言って視線をやった格納庫には、中型の帆船が収められている。船体。いかにもヨーロッパの大航海時代に全盛を誇ったかのような造りだ。絢爛として、それでいてきめ細やかなデザイン。
威風堂々たる船の出で立ちを前に美緒を息を飲むしかない。美緒は船体に圧倒される。
「スゴイ船」
美緒は慎重にフロアへと足を伸ばしていった。




