心理介護型 カナデ 2
球体に映る映像は、幼い美緒と千羽が、両親に留守番を頼まれた時の光景を映し出す。
雨。強い雨が、夜の暗闇を突き刺すように降っている。時間は夕刻過ぎだ。季節は冬で陽が落ちている。太陽の沈んだ夜空は、それは不穏で不気味な烏の群れを思わせる。
葬儀で外出した、両親の麗奈と浩一を待ち侘びる幼い美緒と千羽は、正直不安で一杯だ。降りしきる雨の中、千羽は力を込めて美緒の手を握りしめる。
「遅いね」
心細さげな千羽だが、美緒は美緒で、姉らしく振る舞う余裕もゆとりもなかった。
カナデの手にそっと触れる今現在の美緒は、球体に映し出される、まだ年端の行かない自分と千羽を見つめながら、母、麗奈の言葉を思い返していた。
「美緒。もうあなたは十才だからお留守番、出来るよね? すぐに帰ってくるから。千羽のお守り、お願いね」
美緒は思い出す。その時自分は心の中で、悲痛な叫び声をあげていたことを。
「待って! お母さん。そんなの、無理だよ」
カナデが映し出す、球体の映像はその時の千羽のちょっとした変化を映し出そうとしていた。美緒が映像に見入っている間、カナデは鼻歌を歌いながら陽気に足をぶらつかせている。一方美緒はレム睡眠のような状態にあった。
雨は強まり、傘を差す美緒と千羽の肩を濡らしていく。幼い美緒は姉らしく千羽を力づけようとするが、言葉が出てこない。その時、千羽が両手で力強く美緒の手を握りしめる。
「お料理なら私が、作る、ね」
千羽の姉を気遣う言葉。それには、言外に幼いなりの多くの不安が託されていたのだろう。美緒は、両親の愛情を一身に受ける千羽を疎んでいたのに、その言葉を聞いて千羽が両親にとってだけでなく、自分にとっても大切な天からの授かりものだったと気付いたのだ。
「お父さんもお母さんも、もうすぐ帰って来る、から」
美緒はようやく自然な笑みを戻して千羽に声を掛ける。そんな二人のもとに無事両親が帰宅するのも遠くなかった。今でも美緒は、帰ってきた両親の胸で千羽とともに泣きじゃくったのを覚えている。
それは美緒と千羽の距離を縮めた大切な想い出だった。美緒は球体に映る映像を見ながら、うっとりとした心地よさに身を委ねている。映像が霞み行き、消えると、カナデは満足そうだ。
「妹さんと気持ちがつながったエピソードを思い出せたのはいいコトよ。あなたは妹さんにしこりのようなものを持っていたのね」
美緒はしばらく呆然としていた。カナデの思い起こさせた「記憶」が余りに鮮明で色濃かったので、軽い疲労感をも感じてもいた。カナデは明るい顔で、相も変わらず両足をブラブラとさせている。
「カウンセリング。続ける? 私は、いつまでも時間があるから、あなた次第なコトよ」
カナデに誘われた美緒は、何か怖いもの見たさも手伝ってカナデを促す。
「カナデちゃん。私の記憶をもっと掘り起こせる? どうやって『今の私』が作られたのか、知りたいの」
カナデは深い酩酊感のある、二重瞼を大きく見開く。
「よろしいコトよ。それくらいカナデには容易いこと」
美緒は急ぐように、カナデの両腕を軽く握り締めて、彼女にねだる。
「お願い。もう少しすれば薙が帰ってくる。カナデちゃんは一緒に旅は出来ないでしょ?」
「もちろん。私、カナデはボルワナに仕えるデザートの一台に過ぎないコトよ」
「それなら! ねっ!? お願い。カナデちゃん」
カナデは少し疲れ気味だ。映像を映し出すのは、彼女にとっては随分労のいることらしい。だがカナデはやはりデザートだ。人間の頼みに応じることで「幸せ」を感じるように出来ているのだろう。カナデは困りながらも引き受ける。
「うーん。映像を映し出すだけなら、カナデは眠っていればいいんだけど、心の分析は二人でしましょうね」
美緒はちょっとした「悪いこと」を薙に、秘密にしてやっている、という気持ちも相まって相当に上気している。
「うん! そうする!」
美緒とカナデの二人は、そう約束すると、光が交わる球体の映像にもう一度見入っていく。美緒は軽く瞑想していき、映像は彼女の記憶の片隅にある思い出を映し出す。美緒はぽつりと呟く。
(この光景……、見覚えがある)
映し出された美緒の記憶は、学校のグラウンドだった。それは美緒が小学校三年生の頃の想い出だ。
美緒は母の麗奈に連れられて、町内会の野球大会を観に来ていた。母の麗奈が強い陽射しを左手で遮りながら、美緒に話し掛ける。
「美緒と同じ学年の子、三年生でレギュラーなんだって。凄いわね。ほら、あのセカンドの男の子」
美緒は麗奈の指差す方向を見る。そこには身軽なフットワークの男の子がいる。瞬発力のある体のバネと脚力。一目見て美緒は、その子に惹かれるものがあった。麗奈の前へと足を一歩踏み出して「彼」に見入る美緒に、麗奈は告げる
「そう、思い出した。鈴鹿君。鈴鹿大海君って言うんだって。あっ、ボールが行った」
そう。それが美緒と大海の初めての出逢いだった。大海は打球を軽快にさばいて、満足げにポジションに戻る。年長者に交じって、ひけをとらないプレーをする大海は、様になっていて颯爽としている。「カッコいい」。それが美緒の大海への第一印象だった。
美緒はこの時、既に一目惚れにも似た感情を大海に覚えていたのだ。
やがて蒸せるような暑さの中、野球大会は終わり、教室に置き忘れた教材を取りに向かった美緒は、ユニフォーム姿のままの大海とばったり出会った。
大海は当時から物怖じしない子だった。人見知りする子でもない。彼は美緒を見るなり、自信ありげにこう口にする。
「おっ。さっき見てた奴じゃん。俺のプレー、中々良かっただろ? やるだろ? 三年でレギュラーなんだぜ」
美緒は「スゴイ」くらいしか感想が浮かばなかったので、あえて黙っていると、あけすけに大海は言ってのける。
「何か感想ないのかよ。仕様がない。お前、どんくさそうだもんな」
美緒が憧れて、見惚れていた当の彼がこの言いよう。あざとくもある接し方。これが大海の本性か。そう思った美緒はすかさず彼に言い返す。
「失礼しました! 私だって体育は四です!」
「『四』ですか。じゃあ一番じゃないってことだな。おっと、もう行かなきゃ。冴えない女と一緒にいるのを見られたら、ヤバい、ヤバい」
そう見下し半分、からかい半分に大海は口にして、廊下を駆け抜けて行く。大海のピンッと筋肉の張った足が遠ざかるのを、美緒は見送って大いに苛立つ。
「何なんだ。あいつ」
そう口にしながらも、美緒は直観していた。「大海も私が嫌いじゃないはず」と。好意ゆえの憎まれ口だとは、まだ小さな美緒にもしっかりと分かった。
この思い出は、美緒の心に深く刻まれている。事実大海は、美緒の直観通り、その後も、ことあるごとに美緒へ気のある素振りを見せたのだ。
カナデと今現在の美緒が見つめる、想い出のエピソードは、やがて美緒の意識、視界から遠のいていく。
交わる光が弾け、球体が消えていくのを見て、美緒は心を奪われていた。カナデも開放感に満ち溢れている。カナデは人の記憶や思い出を音楽のように楽しむことが出来るらしい。
カナデは恍惚とする美緒に呼び掛ける。
「私、あなたのこと何て呼びましょうか。あなたのこと『あなた』って呼び続けるのは不自然だし、もう疲れたコトよ。二人の距離も縮めなきゃなコトよ。アハ、アハ、アハハ」
そう言ってカナデは笑う。心理介護型デザートだからか、やはりこの子、カナデは面白い。美緒は改めてカナデに好印象を持つ。
「そうだね。私、羽々根美緒。『羽根ちゃん』とか『美緒』とか好きに呼んでいいよ」
「アハ、アハハハハ。『羽根ちゃん』。その呼び名、面白いコトよ。羽根ちゃんって呼びたいコトよ。よろしくって? 羽根ちゃん」
そうケタケタと笑ったかと思うと、カナデは疲れたのか、ぼんやりと宙を見つめる。一点を見つめるカナデに美緒は尋ねる。
「今の想い出はどんな意味があるの? 『今』の私とどんな関係が?」
カナデはぼんやりとしながらも、自分の任務に忠実であろうとする。思案げな表情で、髪の毛をグシャグシャにした。カナデ自身も、自分に委ねられた能力をコントロール出来ていない。そんな印象だ。美緒はカナデの背中にそっと手をあてて労わると呟く。
「心理介護型デザートって大変。感情が豊かなのね」
公演の片隅にあるベンチにゆったりと腰掛ける美緒とカナデ。とても穏やかに時間が過ぎて行くような、落ち着いたひと時。だがカナデがいざ分析を始めようてしたその時、不意にカナデの手を厳しい顔つきで、誰かの手が引き留めた。
その手は間違いない。険しく、冷たくもある表情の薙のものだった。薙は凍てつく顔つきを崩さない。不快感さえ露わにしている。
「心理介護型デザートは解体指令が出ているはずだ。無闇に人間の感情を分析するのは禁じられているだろう」