人型機械都市 ボルワナ 1
美緒は、大海の呼びかける声に手を差し伸ばしながらも、深い眠りに落ちていく。夢の中。意識が鮮明になった美緒は、こざっぱりとした印象のオフィスに立ち尽くしていた。オフィスは清潔感に溢れ、デスクワークに励む人で活気に満ちている。
美緒は、そこが「孔雀」の甲板上でないのにも関わらず、その肌触り、感触、息遣いから、薙の夢世界であるのを確かめると、後ろを振り返る。オフィスから少し離れた場所では、長い通路が、「会長室」とプレートか掛けられた部屋へと通じている。
「会長室」。そこに誰がいるのか美緒は見当がつかないが、美緒は強い興味を惹かれて誘われるように通路へと出向いていく。
通路を歩いていくと「会長室」から、忙しげで、慌てふためいた様子の猫が出てくる。猫は紺のスーツに身を包み、書類を山のように抱えている。
「困ったにゃぁ。会長の求めるレベルの高さも考えものだにゃぁ」
スーツをスマートに着こなし、仕事に勤しむ猫を見ても、美緒は、最早何の不自然さも感じない。すれ違いざまに彼、「猫」に挨拶をする。
「お疲れ様」
「お疲れ様。会長は今、ムシの居所が悪いから気をつけるといいにゃ」
「ありがと。猫さん」
美緒の言葉に気分を多少良くしたのか、猫は足早に、軽やかな足取りで立ち去って行く。美緒は、というと、今しがた猫が出てきた扉の前に立つと改めてプレートを見つめる。
「会長室」。たしかにそこにはそう書かれている。「だが」と思って美緒は物思い、口元へ手をあてる。
「誰だろう? 会長って」
そう不思議がりながらも、美緒はまるでそれが当たり前であるかのように、扉をノックしていた。
「失礼します。会長、羽々根です」
扉の向こうからは、落ち着いた、紳士然とした声が返って来る。
「どうぞ」
その返事を受けて、会長室へと一礼して入った美緒は。こじんまりとした、デスクの椅子にネズミが座っているのを見て取った。そのネズミは、美緒には見覚えがあった。
「そう。そうだ!」。美緒は閃きにも似た感覚を得て振り返る。彼、そのネズミは、美緒がこの「夢世界での旅」を始める時に、時計屋で出逢った「ジョニー・ステファー」だった。
今やIT長者となった「彼」を前にして、美緒は興奮しながらも、なぜか無意識に、筆記具をポケットから取り出していた。美緒は胸の内で自分の行動を疑問に思う。
(ん? 何だ? 私はジャーナリストか何かか?)
そんな美緒の意識とすれ違うように、ステファーは美緒へソファに座るよう促す。
「ピュリツァー賞を受賞した羽々根さんの取材ならいつでも大歓迎ですよ」
ピュリツァー賞。身に覚えのない受賞経歴を並べられても、今ひとつピンと来ない美緒だが、ステファーへのインタビューを始める。
ステファーとの穏やかな質疑、とても充実した時間が瞬く間に過ぎ行き、取材も終わりに差し掛かった頃、美緒は会長室から一望出来るニューヨークの高層ビル群をうっとりと見つめて、ステファーに尋ねる。
「それにしても、いかがですか? 会長室から眺める景色は。サクセスストーリーの象徴ですね」
美緒がそう誉めそやし、ステファーの心の機微に触れると、彼は、予想に反して若干の憂いを滲ませ、額の汗をハンカチで品よく拭う。
「そうですね。私は一方では大きく成功し、『成長』しましたが、その分失うものも多かった。私の成功はつまるところ、『失った思春期』の代償でもあったのです」
美緒はそのステファーの後悔にも近い言葉を聞いて、深い感慨を覚える。
「失った思春期」
美緒の悲しげな表情を見て取ったステファーは、若き日の精気に満ちた笑みを浮かべる。
「でも私にはまだまだ大きな夢がたくさんある。それを叶えるまで立ち止まるわけには行きませんよ」
美緒が、鷹揚として深いロマンティシズムをも持ち合わせたステファーに心を打たれていると彼はもう一言言葉を付け足す。
「そして私はこれから多くの若者に出逢うでしょう。私は自分の半生があったからこそ、彼らにより健やかな成長の道しるべを示してあげたいのです」
美緒がステファーの懐の深さに感嘆していると、彼は右掌で軽く美緒の隣を指し示す。
「そう。そこにいる、薙君にもね」
「薙」。美緒は、不意にステファーの口からついて出た名前に驚くと、自分の傍に薙が寄り添う気配を感じ取った。視線を向けると薙は気持ち良さそうに、摩天楼を眺めている。
「薙!」
そう胸の内で声をあげる美緒の背中に、薙は優しく触れて、澄みきった、良く通る声を彼女へかける。
「なっ。美緒。いい景色だろ? 一緒にこんな景色を見ようぜ」
ステファーは少し肩を寄せ合う薙と美緒の二人を、目を細めて微笑ましげに見つめている。美緒はこの夢世界でのステファーの風変りな役割に一面、心の安らぎを覚えると、薙の声に「薙?」と問いかけて頷いてみせる。
(そうだね。薙。本当にいい眺め。一緒にこんな景色を、見よう?)
美緒の心を包み込むような薙と共に、彼女は束の間の間、ガラス張りの高層ビル群に見惚れて目を閉じる。すると彼女の足元から涼しげな風が吹き込んで来る。
「気持ちいいね。薙」
薙もその風を美緒と一緒に感じているのか、心地よさそうに唇を撫でる。美緒は一つ小さな息を吸い込み、瞳を閉じる。
「スーッと風が吹き込んでくる。団扇で扇がれるような風。気持ちいい。最高。……団扇? 団扇?」
摩天楼に団扇。その組み合わせの滑稽さに美緒が思い至ると同時に、薙の姿は一瞬にして遥か彼方に遠のいていく。美緒は薙を何とか引き留めようと手を精一杯に薙へ伸ばした。
「薙!」