翼の生えた女性 3
美緒は薙との夢の余韻に浸りながらも、朝食を済ませると駆け足で登校する。美緒は薙との旅のお蔭もあってか何気ない日常に、ちょっとした新鮮味を感じ取っていた。
美緒が昼休みを迎えて、掃除に取り組んでいると、彼女のクラスに突然、川崎が訪ねて来た。美緒が憧れている川崎。だが川崎は美緒のクラスとはほぼ何の関係もない。親友もいないはずだ。そう考えてみると突然の川崎の訪問は美緒には不思議ににも思える。
(川崎君だ。何の用だろう)
見ると学級委員の楠木が川崎に用件を訊いている。川崎は何事か用づてを楠木に伝えると、あっさりと立ち去って行く。
ホウキを片手にきょとんとして、川崎を見送る美緒。川崎のやけに精気のない雰囲気を気遣いながらも、「結局何の用だったのか」と訝しむ美緒を、楠木が手招く。
楠木の呼びかけに応じて、美緒はホウキを傍らに立て掛けると楠木に近づく。すると川崎の能面のようだった表情が心配でならなかった美緒に、楠木は告げる。
「川崎君、羽々根さんに用があるって。屋上に来て欲しいってさ」
不意の川崎の呼び出しに戸惑い、若干面食らう美緒。
「えっ? そ、そうなの? 何だかわけが分からないけど」
そう苦笑いにも似た笑みを零す美緒は、変に冷やかされる前に、その用事をさっと終わらせてしまおう、と心に決める。
美緒は掃除を終えると、早速屋上に向かう。楠木が美緒に優しく声を掛ける。
「羽々根さん、ファイト。頑張って!」
「そんなんじゃないって。楠木さん」
そう照れ隠しで右手を振りながらも、美緒は実は心の底から困っていた。川崎には憧れていても特別面識はないし、妙にからかわれるのも美緒は嫌だ。
だから美緒は「別に川崎君は告白するわけじゃないし」とあっさりと気持ちを切り替えて、屋上への階段をのぼっていく。
(今度の体育祭の役員になって欲しいとか、そういうことでしょ。きっと)
美緒は、ごくごく自然な予想をすると、最後の階段を踏みしめて、屋上への扉を開ける。
屋上では川崎が柵に手を添えて、美緒を待っている。その微笑にはいつもの彼の爽やかさが出ていない。屋上に吹き込む風はやけに強く、美緒は右手で風を遮る。
「えっと。それで」
美緒は気分に弾みを持たせようと一言口にすると、襟を正し川崎に歩み寄る。
「何か用なの? 川崎君」
川崎は率直な印象だが、どうも様子がおかしい。会話のテンポというか間合いがどこかずれている。彼は整った綺麗な顔立ちを、それは蝋人形のように崩さない。
「羽々根さん、あのね」
「うん」
美緒が軽く頷くと、川崎は何のためらいもなく、唐突に、不自然極まりなく、こう告白する。
「僕ね、実は羽々根さん、君のことが好きなんだ」
「えっ?」
美緒は何か根拠のない疑い、今、目の前にいる川崎の「存在」を怪しむ感情が湧き出たが、とりあえずはやや間の抜けた顔で当惑してみせる。当惑と疑い。複雑な感情二つを持て余す美緒にも構わずに、川崎は畳みかける。
だがその言葉遣い、チョイス、セリフの全てが映画から借りてきたかのように、どこか鋳型にはまっていて浮ついている。
「羽々根さん、寝ても覚めても君のことが頭から離れないんだ。僕は君が好きだ」
「えっ。ちょっ」
たまらずに川崎から後ずさりする美緒。近くの飛行場から飛び立った飛行機が青空に飛行機雲を形作っている。その清々しい青空を背景に川崎は両手を開いて、足を前に踏み出す。だが川崎の顔はその澄みきった青空とはどこか対比を成している。
「僕と付き合ってくれないか。彼女になって欲しいんだ」
「はぁ!?」
美緒は、いつものように活き活きとしていない、若干感情にも起伏がない川崎が気になって仕方がない。それに美緒にとって川崎の告白は、唐突で真実味がまるでなかった。現実的な肌触りが感じられない。リアリティにも乏しい。
(何か変だぞ。川崎君、いつもの活気がまるでないし。それに私、川崎君に『好きだ』って言われたのに全然ときめかない)
美緒がどうも変だと感じていると、その美緒を置き去りにして、川崎はなおも美緒に歩み寄ってくる。たじろいで歩を後ろに退ける美緒は、川崎の手元が一瞬、羽根の集まりになって揺れているのが見えた。
「羽根!」
何か閃きにも似た感情が美緒に芽生えるよりも早く、川崎の両手は美緒の両肩をがっしりと掴む。今度は川崎の肩口が羽根の塊となって揺れ動く。変化のない川崎の表情は、美緒には恐怖に近いものがある。
「羽々根さん」
言い寄る川崎の手を払いのけようと、美緒が体をのけ反らせると、その瞬間、力強い薙の声が響く。
「おい!」
美緒が声のする方を振り返ると、薙が屋上の入り口で短銃を構えて立っている。薙。この不気味で不穏なシチュエーションを脱するために差し込んだ一筋の光。頼るべきものは彼しかいないであろう、当の薙の存在。美緒がすぐに「薙!」と助けを求めると、薙は川崎に向かって言い放つ。
「邪魔をするなよ。俺達の旅を」
その直後、薙は突如として川崎に発砲した。今、目の前にいた川崎は異様で、脅威にも近いが、薙の発砲にはさすがの美緒も焦る。思わず美緒は叫ぶ。
「ちょっと! 薙!」
すると薙の放った弾丸が、川崎を貫くか貫かないかの瞬間、川崎の体は「羽根の集まり」に成り変わり、弾丸をよけた。
「羽根! 川崎君!? 一体何なの!?」
美緒の動揺にも構わずに、銃に弾丸を込める薙。その薙の様子を見て、川崎、そう確かに川崎だったはずの「羽根の集まり」は、屋上の柵を乗り越えて、階下へと飛び下りた。
「ちょっと川崎君!」
美緒はもうその「羽根の集まり」が川崎でないのを半分自覚していながらも、柵を飛び下りた「川崎だったはずの存在」を反射的に、柵越しに目で追う。
「川崎君! 大丈夫!?」
すぐさま美緒が見下ろした柵の下には、翼の生えた人間の姿に成り変わった女性の姿があった。彼女は翼を大きく広げると飛び去って行く。
「ナナ、リス!」
たしかに一瞬、美緒の方を振り向いた「彼女」の顔は、そう、紛うことなき、ナナリスの「それ」だった。
「ナナリス! どうなってるの? これは?」
当惑するばかり、困惑するばかりで、疲れ切ってしまった美緒に、ゆったりとした足取りの薙が近づく。薙は何事もなかったかのように、銃を懐に仕舞う。
「危なかったな。美緒。あいつは美緒を邪魔立てして、俺達の旅を終わらせないつもりなんだ。こうなったら二人で協力しよう」
協力。その力強くも美緒を信頼しきった薙の言葉に、美緒は安心して力が抜けてしまう。薙がふらつく美緒を抱き抱えようとすると、今度は屋上に大海が転がり込んで来るのが美緒には見えた。
どうやら川崎が、美緒を呼び出したとの噂を聞きつけて、からかい半分になだれ込んできたらしい。
大海の姿を見届けた薙は、自分の役目を果たしたと感じたのか一言こう言って姿を消す。
「じゃあな。美緒。また夢の中で会おうぜ」
「薙!」
美緒が薙を引き留めようと呼び掛ける間もなく、彼は立ち去っていく。手を伸ばして呆然と立ち尽くす美緒に、息を切らして彼女に駆け寄った大海が呼び掛ける。
「あれ? 川崎は? どうやら告白は失敗に終わったみたいだな。それとも告白なんかじゃなかったのかな。どっち?」
そう陽気に尋ねる大海に、陰気で陰鬱な気持ちが去った美緒は、顔に赤みが差し、ほっとして訊く。
「あなたは本当に大海? だよね」
大海は大海で事情はまるで知らない。美緒の質問の意味が分からずに、眉をひそめて怪訝な顔を浮かべる。
「何だ? 当たり前だろ」
「そっ。良かった」
そう言って胸を撫で下ろす美緒は、ここ最近の疲れだろうか、それとも今体験した非現実的な出来事のせいだろうか、急激な眠気に襲われる。美緒は体中から力が抜けて、膝から崩れ落ちてしまう。美緒は大海の声が遠く離れていくのを感じ取っていた。大海の声は遠方で響いていく。
「おい、羽々根! 大丈夫か!?」