翼の生えた女性 2
「キレイな世界」と相通じるように薙も悪い子ではない。少しだけ少年特有の悪戯っぽさがあるだけだ。「それならば」と美緒は薙が話をしてくれるまでひたすらに待つことにする。
孔雀は半月の灯を頼りにするかのように前進を続ける。夜空に舞い上がる孔雀は、画工が年月を掛けて描きあげた絵画にも似た趣きさえ漂わせる。
夜闇を、薙の夢世界を彩る孔雀のしばらくの航行ののち。薙は思うところがあったのか、それとも美緒に隠し続けるのは彼女に迷惑がかかると察したのか、不意に一呼吸置いて、「内緒」と言ったはずの、翼の生えた女性について美緒に話を始める。
夢と現実の関係性に触れておかなければ、美緒にまた何かのトラブルが起こる。薙にはそれは自明だったからだ。
その薙の気遣い、心持ちに美緒は胸を打たれると同時に、意外に思う心情も抱いていた。薙は、美緒の対極のある心持ちを知ってか知らずか、静かに口を開く。
薙の顔に少しシリアスな影が帯びる。
「翼の生えた女。彼女について話してもいいよ」
「内緒、じゃなかったの?」
美緒は嬉しくてたまらないのだが、薙が一度は秘密にしようとした話。薙に催促したようで、少し申し訳ない気持ちにもなっていた。薙は美緒の控えめでどこか内向きな返事に微笑む。
「だって美緒は知りたいだろ? 翼の生えた女性について」
「うん。そりゃね」
美緒は一転、頷いてみせる。薙は、その顔に光が射した、美緒の要望を聞き届けると、少し歩を退かせて美緒と距離を取り、翼の生えた女性について、美緒へと話して聞かせる。
「翼の生えた女性。彼女の名前は『ナナリス』と言ってね。ついに彼女が美緒に手出ししてきたのか。そう思うと残念だよ」
悲哀を滲ませて薙は口元に手をあてがう。
「もう彼女の正体を明らかにしなければならないね」
勿体ぶった様子の薙を見て、美緒は上体を前屈みにする。
「『ナナリス』って言うのね!? あの女性! 凄く綺麗なのにどこか怖かった。私が『薙の共連れ』かって。薙には簡単に目的を達成させはしないとか。そんなこと言ってた。彼女、一体何なの!?」
薙は思い詰めた表情で、頬を手でさする。その様子は少し大げさで、まるで薙が自分自身をカリカチュアでもしているようだ。薙は重々しく口を開く。
「ナナリスとは闇の種族、魔神ロデオメの一人娘」
「『魔神ロデオメ』」
おののく美緒をよそに、薙は事実と思しきことを、軽快に体をターンさせて両手を広げると次々と告げていく。
「彼女、ナナリスは、とある復讐心から僕を襲おうとしている」
よくよく聞いてみれば、話のあちこちに粗があり、滑稽とも思える中身だが、その話に興味を強く惹かれている美緒は、ますます興奮する。
「それで!?」
「ナナリスは、光の種族の王子である僕を襲おうとしているんだ!」
美緒は、顔をやや紅潮させて一しきり薙の話を聞くと、中身を全て鵜呑みにしたのか、吐息混じりで悲しげに顔を伏せるしかない。
「そう、なんだ」
すると打ち沈む美緒を見て、薙がクスクスと笑い声を立てると、やがて大声で快活に笑い転げる。薙の高笑いを前にして美緒は戸惑い、彼に同情したのにと、それこそ不服げだ。
「な、何よ」
薙はよほど楽しかったのだろう。笑い疲れて、船体の縁に手をやり、体を支えると、素直な気持ちを吐き出す。
「アハハ。単純だな。美緒って。魔神ロデオメ? 光の種族? 全っ部! 嘘だって」
「なっ!」
驚きと呆れ、半ば憤慨も相混じり、顔をしかめる美緒を見て、薙は心の底から愉快そうだ。
「なっ。美緒。簡単に人の話を信じるなよ。そんなおとぎ話あるわけないじゃないか。少しは人の話を疑えよな」
美緒は怒りを通り越して、両腕を力強く、甲板に向かって振り下ろすと、たまらずに語気を強める。
「ヒッドイなぁ!」
「悪い、悪い。あんまり美緒が思い詰めた顔するからさ。ちょっとからかってやろうかなって思っただけだよ」
薙の悪戯も程よい加減が丁度いいはず。薙の度が過ぎた嘘に美緒はふてくされる。
「じゃあ、やっぱり内緒にするつもりなのね」
「ゴメンな。美緒。もう少し待っておくれよ」
今度はうって変わって優しげで、諭すような口調の薙。そんな彼に謝られると美緒も、怒りを鎮めざるを得ない。
「じゃあさ。これだけは教えて。あの翼の生えた女性、名前が『ナナリス』っていうのはホントなの?」
薙は、甲板の縁に寄り掛かり、壁に両肘をかけてもたれると、気持ち良さそうに風に身を委ねて遠くを見つめる。薙の豊かな髪の毛がふんわりとなびいている。
「名前が『ナナリス』っていうのはホントだよ。俺にちょっかい出すつもりでいるのもホント。そして、俺と美緒の邪魔をしようとしているのもね」
当て推量が当たってしまい、「あっ」と口にしてしばらく言葉を失う美緒から、薙は徐々に視線を逸らして夜空を寂しげに見つめる。
「そっか。僕だけじゃなく、現実世界にまで、美緒にまで、干渉してきたのか」
薙の姿はどこか切なく、哀感にも満ちていた。それなのに薙の瞳は涼しげに透き通っている。
「ホントに、困った人だ」
美緒は薙の話を黙って聞いていた。美緒はもっと深く突っ込んだ話を、薙から引き出したかったが、彼のそれ以上説明しようともしないし、事実を話すつもりもなさそうな様子を見ると、静かに口を閉ざすしかない。
美緒は「じゃあ、あと一つだけ」と上目づかいに呟くと、薙の気持ちを損ねない程度に、もう一つ質問をしてみる。
「薙。ヒューマンバードについても何か、知ってるのね?」
ヒューマンバード。改めてその名前を聞いた薙は、若干瞳に憂いを滲ませる。それはヒューマンバードが彼の生涯、あるいはこの夢世界での旅路において、重要なキーパーソンであるのを知っているからのようだった。
薙は俯いてこう返事をするだけだ。
「ヒューマンバード。うん。知ってるよ」
「やっぱり! 薙。あなたは知ってるのね!? ヒューマンバードって一体何なの?」
そう身を乗り出して尋ねる美緒に、薙は一言、「教えない」と言うだけだった。美緒は「何で?」と不服がるも、薙が話したがっていないのを見ると、それ以上訊き出すのをやめた。
薙が秘密にしておきたいのなら仕方がない。今は深く詮索する時でもない。そう美緒は思ってもいた。
それに今は薙との旅の心地よさを満喫していたい。その淡い気持ちが胸を占めている間は「雑音」を封じていたい。そう美緒は感じてもいた。美緒は「孔雀」の内部へと通じている扉に寄り掛かると、船体に吹き込む風に体を預けていた。
月明かりが美緒と薙の進路を仄かに照らし出している。美緒はたまらずに気持ちが良くなって、瞳を閉じる。すると穏やかな陽射しが遠くからうっすらと差し込んでくる。
それは夢と現実の境目だろうか。美緒の心と体が二つの場所にあるような感覚。美緒は夢世界から離れていこうとしているのか、彼女の耳に突然、母、麗奈の呼ぶ声が響いてくる。
「美緒。学校行く時間でしょ! 早く起きなさい!」