プロローグ
月夜。漆黒の夜空にその飛空船は舞い上がる。人の欲望も絶望も全てその深淵に飲み込みそうな漆黒の夜空へ。
その闇夜を、飛空船は光で照らすように、逆風にあおられながらも、前に進もうとしている。
船は、船体が激しく軋む音を響かせる。その甲板上で誰か、少年が「孔雀! 孔雀!」と大声で叫びながら豪快に舵を切っている。
その少年は透き通った青い瞳をしており、短めに調髪した髪の毛を風に大きくなびかせている。
その華奢な細い腕で、舵を懸命に切る姿は、儚げで、妖艶でさえあった。
雷鳴が響き渡る夜空の真っただ中で、その子は、「美緒」という名の女の子へ向けて、こう呼びかける。
美緒、特別珍しい名前ではないが、軽やかで繊細な響き。
少年はその名前が、自分の人生にとって、生涯にとって最も大切で、必要なものであるかのように言葉に力を込める。
「美緒! 僕は独り立ちしなきゃならない! この大きな世界を! 自分一人の足で歩き、自分の目で見て! 自分で感じなきゃいけないんだ!」
美緒と呼ばれた少女。彼女はその少年の姿に見惚れるかのように、遠くの平原から、月夜に浮かぶ飛空船を仰ぎ見ている。彼女はまだ中学生くらいだろうか。
恍惚とする美緒に少年はなおも叫びかける。
「美緒! だからそのために! 君の力が必要だ! これは僕一人の力じゃ出来ない! だから美緒!」
その少年の激しく、切なげなイメージ、幻影ともいえるそれは、少年の闇夜を切り裂く声とともに、我が家で朝食を摂る羽々根美緒から、一瞬にして消えた。
美緒は、家族と食事をしながらそのイメージに、うっとりとしていた。だがすぐに目が覚め、我に返る。彼女は箸を止めて不思議がる。
「何だろう。今のイメージ。あの子。私の名前を必死に呼んでいた。それに『独り立ち』がどうこうって。なんだろう」
そう胸の内で呟くとしばらく考え、黙り込む美緒に、父親の浩一が話しかける。浩一はYシャツに袖を通し、食事を進めている。彼は極々ありふれた家庭の、極々普通のサラリーマンだ。
彼は今朝のニュースに興味を示す。
「それにしてもギリシャの経済破綻は大変だったなぁ。銀行が潰れていくなんて」
不意に浩一から話を振られた美緒。あの少年のお蔭で、折角のいい気分に浸っていた彼女は、現実に引き戻されて、つい胸の内で不平を漏らす。
「あー、そんな話大嫌い。イヤな気分になるだけ。面白くない」
彼女。羽々根美緒は今年で十四になる中学生だ。一見普通の女の子で、胸の内で思うところはあっても、親へむやみやたらと反発したりはしない。いわゆる「何となくいい子」だ。
両親や家族、周囲への不満を山と抱える女の子。なのにそれを解決する手段を見つけられないもどかしさを抱える女の子。羽々根美緒とは、そんな鬱屈した想いを持つ子だ。
口をつぐみ、不機嫌さを暗に示す美緒。「正直、一人にして欲しい」。彼女の心象はそのようなものだった。もちろん十四才で自立なんて出来ないとは重々分かってはいるのだが。
美緒は家族との会話もそこそこに席を立ちあがる。その彼女が振りまく不愉快さに妹の千羽が首を引っ込める。美緒は何とか、みなの気持ちの地ならしをする。
「ゴメン。今日、宿題が多いから苛立っちゃってるみたい。千羽、デザートのプリン、私の分まで食べていいよ」
「アリガト」
千羽は可愛らしく首をすぼめる。その様子、姿がまた、美緒には無邪気で羨ましくも映る。
自分がひねくれていて、天邪鬼なだけだと美緒は自分自身知りながら。
美緒は二階の自室に戻ろうと階段を上がる。その美緒に麗奈が呼びかける。
「あ、美緒? 明日、ゴミ出しの日だから。ゴミ箱のゴミ、全部持ってきてね。分かった?」
「分かってる」
美緒は仏頂面で階段を一歩一歩踏みしめていく。自分の日常の退屈さに歯噛みしながら。
美緒は部屋に閉じ籠もり、勉強机に座ると同時に、机にうっつ伏して、眠り込んでしまった。
こんな様子で不満を抱えながら、羽々根美緒の十四の春は何食わぬ顔で過ぎていくはずだった。
その日、夢の中に「あの子」が現れるまでは。何事もなく、周囲に当たり散らして終わるはずだった。そう。あの「少年」と夢で出逢うまでは。