第六章 そう、そしてようやく雪解けの時
次の日、毎度の如くシャルを邪険にして客間へと追いやった駈が、小恋愛に向かって口を開いた。
「ここあ、お腹空いたー。このままじゃ、お兄ちゃんが死んじゃうぞー」
そんな駈に対する小恋愛の返答は、マグマさえも瞬間冷凍できそうなほどの冷たい眼差しだった。
「死ねば。その方が世のため、人のため、私のため、そしてあんなに健気に尽くしているにも関わらず、邪険にされてる小さな女の子のためよ。止めないからさっさと死になさい」
シャルに冷たく当たった時は、常にこの反応である。
「ここあ、何怒ってんだよー。生理……ゴス!」
K―1ファイターすら一撃で仕留めそうなハートブレイクショットを叩き込んでから、小恋愛が冷ややかに言った。
「私の怒ってる理由が分からないなら、あんた、本当に終わってるわね」
小恋愛の声は、やはり限りなく冷たい。
「あんた、ほんとに変よ。いくらなんでもやりすぎ。いつもなら、涙流して神様に感謝しながら、思わず角切りにして近所の犬にあげたいくらいむかつくニヤケ顔になって、その辺で踊り狂ってるのに。ほんと、どうしたの?」
小恋愛の真剣な表情に、駈も真顔になった。
「別に。あいつは俺の寿命が欲しくてやってんだろ? 要は自分のためだろうが。つまり、この新妻ごっこも俺の寿命をもらうためのお芝居なんだよ。自分が生きていくために体を売ってると考えれば、娼婦と変わらな……パシン」
駈の言葉を止めたのは、突然の小恋愛の平手だった。駈の頬に徐々に痛みが走る。
「それしか方法がないんだからしょうがないじゃない!」
小恋愛が叫ぶ。その迫力に駈は何も言えなかった。
「あの子には他に方法が無いの。そうしないと本当に死んじゃうの。だから、あれだけ必死になってるんじゃない。お芝居とかゴタク並べる前に、あの子の状況を考えてあげなさいよ」
「…………」
「あんた、あの子があとどれくらい生きられるか知ってるの?」
「さあな、興味ない」
「一ヶ月よ」
駈の目が大きく見開かれる。
「何……だと」
「あの子はあと一ヶ月しか生きられないの」
「馬鹿な、そんなのハッタリに……」
「あの子が私に直接言った訳じゃないわ。偶然話してたのが聞こえただけ」
その言葉に、駈は何も続けることができなかった。
「生きるために必死になって何が悪いの? 寿命を延ばすために頑張って何が悪いの? 少なくとも、年中人形やアニメに無駄な時間を使ってるどっかの馬鹿よりはよっぽどマシよ」
小恋愛は一気にまくしたてた後、最後にポツリと言った。
「今のアンタを見たら、お姉ちゃん何て言うかしらね」
「…………」
駈の顔に怒りが走る。そして、力任せにドアを開けて駈はリビングを出て行った。
本当は駈にも分かっていた。シャルの真剣な想いが。自分の命のためとはいえ、懸命に駈に尽くすシャルの姿に駈は何度も心を開きかけた。
しかし、駄目だ。シャルが小恋愛に危害を加える可能性が無いとは言い切れない以上、やはり安易にシャルを信用する訳にはいかなかった。小恋愛とシャルの仲が良いのも問題だ。どうにかして遠ざけられないものか。いや待てよ、だったら逆に……
駈が思考を巡らせる。そう、自分は小恋愛を守らなければならない。小恋愛に危害を加える者は誰であろうと絶対に排除する。あの時、自分はそう誓ったのだ。
「おい、契約してやるよ」
リビングで話をしていたシャルと小恋愛に向かって、駈は言った。
「え? え?」
突然のことに、シャルはまだ混乱している。
「何日欲しい? 俺の一日がお前の一年だったよな? 一ヶ月でどうだ? 三〇年なら十分だろ?」
「じゃ、じゃあ、嫁にしてくれるのか?」
ようやく駈の言葉の意味を理解したのか、シャルは飛び上がって喜んでいる。
「良かったじゃない。シャル」
小恋愛も我が事のように喜んでいる。しかし、シャルの言葉を駈は一言で切り捨てた。
「何勘違いしてるんだ?」
「「えッ?」」
シャルと小恋愛の声が重なる。
「契約するとは言ったが、嫁にするとは言ってないぞ」
その言葉に、シャルが急に困ったような顔になった。
「えっ? じゃ、じゃあ、何をすればいいのだ? あの、わっちはあんまり難しいことは……」
「俺の前から消えろ」
「え?」
駈の言葉にシャルが凍りつく。
「俺の前に永久に現れるな。もちろん小恋愛も前にもだぞ。簡単だろ? ただ消えるだけで、俺はハッピー、お前もハッピー。万事解決だ」
そう、これが駈の出した結論だった。寿命が欲しくて自分に付きまとっているのなら、さっさと契約を済ませて帰らせればいい。寿命が縮むというのは精神的にかなりダメージがあったが、それでシャルを追い払えるなら安いものだ。
シャルはまだ固まったまま動かない。
「嫁になると言ったって、どうせ大したことはできないだろ? それならとっとと消えてくれた方が俺としてはずっと助かる。もう、お前の顔を見なくて済むんだからな」
そう言って、駈はニヤリと笑った。
「愚兄、あんた……」
小恋愛が怒りに満ちた瞳で駈を睨みつける。
一方のシャルは唇をギュッと噛み締めていた。
「ほら、さっさと契約するぞ。落ちこぼれ」
『落ちこぼれ』、その言葉を聞いてシャルは思わず叫んだ。
「嫌なのだ!」
シャルの突然の叫びに、駈も小恋愛も一瞬固まる。
「わっちは落ちこぼれなんかじゃないのだ! できそこないなんかじゃないのだ! ちゃんと嫁だってできるのだ! だから、だから……嫁にしてくれるまで帰らないのだ!」
気が付くと、シャルはリビングを飛び出していた。それを慌てて小恋愛が追いかける。
しかし、リビングを出る直前、小恋愛が駈を睨みつけて言った。
「愚兄、あんた最低よ。あんたには、言って良いことと悪いことの区別もつかないの?」
小恋愛の目はどこまでも冷ややかだった。
「シャルを追いかけなきゃいけないから、あんたを殴ってる暇はないわ。でも、今のあんたをお姉ちゃんが見たら、きっと大泣きするわよ」
小恋愛は呆然とする駈を残し、リビングを出て行った。
▲▲▲
「みーつけた」
小恋愛は、陸橋の下でポツンと座っているシャルに声を掛けた。
「ふふ、前もここだったよね?」
シャルは、ベンチの上で体育座りをしたままポツリと言った。
「ここはあんまり人がこないのだ。雨だって凌げるし」
「ダメよ。女の子なんだから。襲われたらどうするの?」
小恋愛の言葉にシャルは寂しそうに笑う。
「……別にいいのだ。どうせもうすぐ……」
「死んじゃうから?」
「! 何で知ってるのだ?」
驚くシャルに、小恋愛は申し訳なさそうに答えた。
「ゴメン、前にしてたお姉さんとの話聞いちゃった」
謝る小恋愛にシャルは優しく言った。
「えう、いいのだ。別に聞かれて困るようなことでもないのだ」
「……でも」
「わっち、落ちこぼれなのだ」
シャルが自分の膝に顔を埋めて呟く。
「わっちたち死神の持って生まれてくる寿命は人間の五分の一程度なのだ。そこから生贄と契約して寿命を延ばす。早い者なら一〇歳くらいから契約を始めるのだ。本来死神は人間界に渡航する許可さえ下りれば、自由に生贄と契約できるんだけど、特殊な体質だったわっちはなかなか寿命が適合する生贄が見つからなかったのだ。今までこんな死神いなかったから、そのせいで、周りからはできそこない扱い。それに落ちこぼれだったわっちは、死神学校でもいつも成績は下の方で、能力だって死神なら誰でもできる寿命を削り取ることだけ。私だけ他の死神の力も削り取ることができたけど、削り取った力を自分で使える訳じゃないし。その力のせいで皆からも嫌われていたのだ」
シャルの話を小恋愛は黙って聞いている。次第にシャルの声に涙が混じり始めた。
「そんな中、わっちの姉さまがようやくわっちと寿命が適合する生贄を見つけてくれて。それを聞いた母さまが、すぐさまわっちを人間界に叩き落としたのだ」
そこでシャルは涙を拭った。
「家族からもずっとできそこないって呼ばれて、クロニクル家の者ならその力を証明しろって家も追い出されたわっちは、なんとか皆を見返してやりたいと思って、自分なりにがんばってみたのだ。自分は一人前だぞって。落ちこぼれなんかじゃないぞって。でも、でも……」
シャルの目に再び涙が溢れる。
「やっぱり、駄目だったのだ。やっぱりわっちは……」
そこで、小恋愛はシャルの頭を優しく抱きしめた。
「大丈夫よ。大丈夫」
そして、優しく髪を撫でる。
「言ったでしょ? 私がシャルをあいつの嫁にしてあげるって。こう見えても、私は約束を守る女よ」
小恋愛が優しい瞳でシャルを真っ直ぐに見つめた。
「でもほんと、あんたみたいな良い子、あの馬鹿にはもったいないわ」
そう言って、小恋愛はいつまでも優しくシャルの髪を撫で続けた。
▲▲▲
定期試験、それは成績の悪い者にとっては一種の拷問である。
すでにあきらめてしまった者はそのまま何もせず、追試、もしくは補習という裁きに連行される。牙に至ってはテストという単語の意味すらよく理解していないらしく、テスト当日もふつーに教室で居眠りをしている(ちなみに、牙が何故進級できたのかは流星学園七不思議の一つとされ、今なお学園の非公式新聞部がその謎の解明に向けて動いている)。駈もいつもならこの『すでにあきらめてしまった者』の中に入るのだが、こと今回に限り、駈はそれに抗う者だった。なぜなら……
「SGYの握手券が当たったんだぴょん♪」
このテンションである。そう、今回の補習が行われる休日は、ちょうど大人気アイドルグループ『SGY47』の握手会と重なっていた。
この日のために必死で金をため、一〇件以上の神社にお参りした結果、見事にSGYの人気ナンバーワン、ぱるなこと桃先春菜の握手券が手に入ったのだ。駈はその時の感動を言葉にしたかったが、残念ながら駈のボキャブラリーはそこまで充実していなかった。せいぜい語尾にぴょん(もう古い)を付けるくらいである。
それはさておき試験である。駈の学校の赤点は三〇点未満、つまり二九点以下である。ということは、普通に考えれば苦手科目さえ何とかすれば免れる数字であった。ということで、駈は苦手科目の勉強に入る。
二年F組西岡駈、苦手科目……全部(保健体育は除く。←しかし、今回保健体育のテストはない。故に、実質全部)勉強開始三〇秒、早くも危機が迫っていた。クラスの友人(オタク仲間、駈に女子の友人はいない)に土下座して何とかノートのコピーは手に入れたが、何が何やらちんぷんかんぷん。数学や古文にいたっては、こんなものが将来何の役に立つのだと一人で教科書に文句を付ける始末であった。
しかし、まだ時間はある。自分はあきらめない。オタクの力を舐めるなよ。そう意気込んで、駈は勉強を続けた。
そして、あっさりと試験は終わった。この物語に召喚獣やクラス対抗戦は無いのである。
オタクの力が発揮されたかどうかは定かではないが、駈の取った赤点は数学と古文の二つ。一応は大健闘である。普段の駈は少なくとも、全体の半分は赤なのだから。
しかし、それでも赤点を取ったことに変わりはない。後日行われる追試に合格できなければ補習。イコール握手会にはいけない。そして、それはつまり駈に死ねと言っているのと同義であった。今度こそ失敗は許されない。握手会に参加するため、駈は再び戦場へと戻って行った。
気が付くと眠ってしまっていた。時刻は午前二時。深夜である。いかんいかん、もう時間がない。少しでも勉強を進めておかなければ。
そう思って、体を起こした駈の肩からヒラリと毛布が落ちる。小恋愛が掛けてくれたのだろ
うか? ふと、部屋の中央にあるテーブルに目を向けると、そこには夜食と思われるおにぎりと味噌汁が置いてあった。
駈は最初に小恋愛がそれを作ってくれたものだと思った。しかし、よく見るとおにぎりの形は不恰好で全てバラバラ。味噌汁に至っては、味噌が固まりで浮いている。誰が作ったのかは一目瞭然であった。
駈はこのまま食べずに捨てようかと思った。しかし、皿に手を伸ばした瞬間その手が止まる。
皿の載ったテーブルの下には、血の付いた絆創膏が落ちていた。もちろん自分の物ではない。
そこで駈は思い出した。シャルが毎日指に絆創膏を巻いていることを。
その数は日に日に増えていき、今では絆創膏を巻いていない指はなかったことを。
それを思い出した瞬間、駈は皿を覆っていたサランラップを取っていた。そして、ブサイクな形のおにぎりを一口齧る。アニメや漫画にありがちの塩と砂糖の間違いはなかった。中の具も普通に梅干。形が歪なだけでまずくはない。味噌汁を一口啜る。なるほど、冷え切ってはいたが、味噌の塊を除けば飲めないことはなかった。
ふと、駈は思った。何であいつは自分なんかに付きまとっているのだろう? 確かに自分はあいつにとって効率の良い生贄かもしれないが、あれだけ邪険にしたのだ。さっさと別の生贄を探せばいいのに。
にも関わらず、シャルは駈の元を離れなかった。手を傷だらけにして料理を学び、必死に駈の世話をしていた。どれだけ駈が邪険にしても、ずっと謝りながら世話を続けていた。
本当は、謝らなければならないのは自分の方だ。
冷え切った味噌汁を啜りながら、駈は自分の器の小ささを痛感していた。
午前五時を迎えた。外はもう太陽が昇り始めている。勉強もやれるだけのことはした。後は運命を天とオタクの神に委ねるのみ。
外からててて、という階段を下りる音がした。小恋愛の足音ではない。駈は空になった器を持って自分の部屋を出る。キッチンではシャルが包丁を握っているところだった。
「おい」
「ふぁ? え、あ、おはようございますなのだ」
まさか駈が起きているとは思わなかったのだろう。シャルは一瞬驚きのあまり飛び上がった。そして、その後すぐに包丁を背中に隠す。
「えと、えと、わっちは何もしてないのだ。ちょっと早く目が覚めちゃっただけなのだ。昨日の夜、小恋愛が下ごしらえだけしておいてくれたから、後はちょっと手を加えるだけでもあったりなかったりしちゃわないのだ」
言い訳するにしてももう少しうまくできないものだろうか。あまりにお粗末な言い訳に、駈は思わず噴き出しそうになった。しかし、笑いはしない。今回は笑いに来た訳ではないのだ。
「これ……」
「あっ!」
空になった食器を見て、シャルが一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに元に戻った。
「あの、それ、小恋愛が作って持っていったのだ。お夜食用にって」
そう言って、シャルは笑う。
「……そうか」
駈は今までシャルが作った料理に全く手を付けなかった。この夜食を作ったのがシャルだと知ったら、きっと駈が怒ると思ったのだろう。そんなシャルを見て、駈は何と言って謝ればいいのか分からなくなってしまった。だから、駈は皿を流し台に置いて、リビングを出る時……
「サンキュ」
とだけ言い残した。しばらく時間が経った後、シャルが飛び上がって足をどこかにぶつけ、苦しんでいるような声が聞こえたが、駈は聞こえないフリをした。