名もなき酒 1
カラン・・・。
店の扉に付いたベルがゆっくりと音を立てた。
「いらっしゃい。」
「どーも、マスター。」
シックでレトロ感が漂うカウンターの奥。
口髭を薄っすらと生やした少し丸い顔。
紳士的で落ち着いた雰囲気でカウンター日立つ“マスター”が、こちらを向いた。
そのがたいは、五十歳を過ぎているとは思えないくらいに、
相変わらずしっかりしている。
誰もいないカウンターの真ん中、俺はいつもの席に座った。
「今日はどうだったんだ?」
マスターはグラスをふきながら、心配そうな声で言った。
でも、相変わらず表情は変えようとしない。
「あぁ、もちろん。」
うまくいったと言う代わりに小さく口元を歪ませた。
「・・・そうか、確か今日は・・・
有名な財閥・・・だったっけか。」
その声がどこか寂しそうに感じた。
でも、俺は気づかない振りをして答える。
「うん、大企業の御曹司。」
「・・・へぇ。」
返事と同時に、コトンと目の前にグラスが置かれた。
淡いコバルトブルー色のカクテル。
小さな泡が音もなく静かに浮上する。
おそらく、マスターのオリジナルカクテルだ。
「今日のは?」
照明の光に当てると綺麗にその光を反射させた。
「“名もなきカクテル”。
お前みたいな酒さ。」
マスターは低めの声でフッと静かに笑みを浮かべた。
優しいその声は、やけに響いて聞こえた。
「“名もなき”・・・か、良い名前だね。」
俺は、グラスを口へと運び、ゆっくりと一口含んだ。
「うん、いい味。甘くもないし、辛くもない、癖になりそう・・・。」
ニコッとマスターを見ると、マスターもこちらを見て小さく笑い返してくれた。
「そうさ。一番辛い酒を隠す為にいくつかの甘い酒でカモフラージュさせてるんだ。」
マスターは同じカクテルを作り、自分でもそれを飲み出した。
壁に掛かっている時計の短針は、英数字で書かれた2より少し下を指していた。
もう一般客は訪れない時間だった。
来るとしたら、俺のような社会という世界から捨てられた裏の連中だけだろう。
「ブレンドによって、全く別の味になる。一滴でも、結構違うんだ。」
俺のグラスの隣に並べられると、確かに色付き方が少し違った。
「ホントだ。
そんなすごい酒なのに、どうして“名もなき”なわけ?」
マスターは、ふっと小さく笑みを浮かべた。
「こいつはな、いろんな名前があるからだよ。
“ブルー・スイット(青い英知)”、
“タクト(指揮者)”
、・・・それと、
“ラーク・ルーキー(いたずら坊主)”。」
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(※実際には存在しないカクテルの名前を使用しています。)