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クライマックス・クライシス

作者: 茶野

 俺と天野秀一の勝負が始まったのは、あいつが俺の通う小学校に転校してきた最初の日だった。

 その日ちょうど、漢字のテストがあった。それまで一度も他の奴に負けたことのなかった俺を、わずかな差であったもののあいつは負かした。次の日のサッカーのPK戦は俺があいつからゴールを奪った。それから俺たちは、何をやるにつけても勝負に持ち込まずにはいられなかった。

 中学、高校と同じクラスで、学部さえ違うものの大学も一緒。腐れ縁。いつかの同級生がそう言った。それはおそらく間違っていない。

 大学を卒業して二年。別々の進路を歩み、二度と出会うことはなかったはずなのに、俺は今、あいつの前に立っている。

「なんだ、花村か」

 抑揚のない低い声は二年前とまったく変わっていなかった。

 まさかの隣人の正体に唖然とした俺とは反対に、天野は眉ひとつ動かさない。分厚い眼鏡の奥で切れ長の目が光る。宣戦布告の合図だ。十年来の癖でつい身構えてしまったが、俺の予想に反して天野は黙りこんだままでいた。

 よくよく見れば、天野の恰好はひどいさまだった。何日も洗っていないんじゃないかと疑ってしまうほどに染みと汚れのついたシャツに作業用ズボン。元来の癖毛は伸ばし放題の無法地帯と化してしまっている。なぜか髭だけがきれいに剃られ、口元はすっきりとしていた。

 昔から自分や周囲に気をつかうことを知らない奴だったが、ここまでひどいのは初めて見た。彼女なんてものはいないだろう。人間をやめてしまったかのような天野の姿からは、女の匂いが感じ取れなかった。

 耐えきれなくなって、俺はふっと視線をそらした。すぐ右を向けば、ここが日本主要都市であると思えないくらいに木々が生い茂る森が視界に飛び込んでくる。左を見ても、ふり返ってみても同じ。

 周囲を半径五百メートルの森に囲まれた丘の上に、今日から我が家となったアパートは存在している。

 この築五十年の木造平屋建築は、バブルとかいう俺には考えられない時代の遺物らしい。入居者がいないままに年を経て、今では廃墟かと見まがうほどに寂れきってしまった。近いうちに来ると予測されている大地震がきたら、ひとたまりもないだろう。

 そんな身の安全上に不安を抱えるこのアパートに越してきたのは単に家賃が安かったからだ。職場にも前住んでいたところよりは近い。もちろん彼女の将来の働き先にも。

 だが、大学に残って研究を続けているはずの天野にとっては不便この上ない場所であろう。最寄りの地下鉄の駅まで徒歩で二十分。それから大学まで一時間半くらいかかるはずだ。

「お前こんな辺鄙なところから通ってんの?」

「どこに」天野は俺の問いかけに怪訝そうな表情を浮かべた。

「どこって、大学に決まってるだろ」

「ああ」俺に言われてやっと思い出したようだった。「大学なら休んでいる」

 一瞬、奴に頭を殴られたのかと思った。しかし天野の手は半開きの戸にかけられたままだった。一度天野に戻しかけた視線を、再び緑に向ける。

 あの天野が一度決めたことを諦めるなど、考えてもみなかった。他人を蹴落としてでも自分の信条をつらぬく奴だったはずだ。

 どうして、と尋ねた。奴がきちんと事情を説明してくれるとは思わなかったが、聞かずにはいられなかった。

 案の定、天野は俺に背を向けた。

「挫折かよ」もしそれが事実だとしたら、絶対本人に向けて言ってはいけない言葉を投げかけた。「やっと自分の限界に気づいたのか」

 天野に優しく接することなどできるはずがない。俺の言葉がどんなに奴の胸をえぐろうとも知ったことではないと思った。ふう、と天野は浅く、それでいて複雑な色をはらんだ息をついた。

「入れよ」

 天野は俺に背を向けたまま、戸を開け放った。その瞬間、金属だと思われる匂いが鼻をついた。硬貨に触れたあとの手の匂いにいちばんよく似ていた。それと、たった一度だけ足を踏み入れたことがある、大学のとある部屋の匂いに。

 天野の部屋は、俺のものと同じ広さであるはずなのに、とても窮屈に感じられた。その理由は間違いなく、半球状の鉄の塊が部屋を占領しているからだ。目算半径三メートル、いちばん高いところは天井につくほどである。使い道はまったくの謎だ。

 だが先ほどの問いの答えだけは、説明がなくとも飲み込めた。

 天野がふりかえる。俺は天野に向き直った。

「何だよ、これ。東京ドームの劣化版?」

 声にだいぶ挑戦的な響きが含まれているのが、自分でも分かった。天野の目が光る。今度こそ宣戦布告で間違いない。

 天野は自信満々だった。いつもの仏頂面こそ変わりはしないが、手をあごに当てるしぐさが、ありありと奴の心のうちを表している。

「タイムマシンだ」

 唐突に天野は言った。そして内容も唐突すぎた。何、と思わず聞き返してしまう。

「だから、タイムマシン」こんなことも理解できないのかとばかりに、天野は眉をひそめた。

「冗談もいいかげんにしろよ」

「冗談じゃない。冗談だと思うなら試してみるか。きっと過去の世界に行けるぞ」

 それを聞いて、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いがこみあげてきた。

 未来に行くというならともかく、いくら何でも過去に遡るなど無理な話だ。商学部出身の俺にだって、いや、小学生にすら分かる。過去へのタイムスリップが不可能だということは、何十年以上前からの定説だ。工学部の天野がそれを知らないはずはない。それを知った上で言っているならば、奴の頭はおかしくなってしまったに違いない。

「花村が言いたいことは分かる。教授たちにも無理だと言われた」

 なんだ、分かってるじゃないか。俺が安堵したのも束の間、天野は神仏をも敵に回す暴言を吐いた。

「だが、俺の方が正しい。不可能だという考えが間違っている。俺が正しいと言えば正しいのだ」

 超傲慢。自尊心の塊。それこそが奴の真の姿である。

「そういうわけで今は調整中だ。帰れ帰れ」

 犬でも追い払うかのように、天野に部屋の外へと追いやられる。

「で、そんなもの作ってどうするんだよ」

 戸を閉められる前に、急いで問いを投げかけた。

「決まってる。人生をやり直すんだ」

 天野の答えは明確かつ単純だった。だが奴にはあまりにも似つかわしくない言葉でもあった。

 くっだらねえ。そのつぶやきは、天野の耳に届いたかは定かでない。天野は黙って部屋の戸を閉めた。鍵をかける音が聞こえた。



 ◆◇◆



 また天野さんのこと言ってる、と彼女は言った。けーくんったら、本当に天野さんのことばっかり意識してるんだね、と。

 そうでもない。そう答えるのが、彼女と知り合ってからの口癖になっている。きっと彼女は信じていない。日本に帰ったら会わせてよ、と電話口の彼女は楽しそうに笑った。つられて俺も笑った。

 しかし耳障りな金属のこすれる音が、俺たちの幸福な空気をぶち壊した。犯人はすぐに分かった。また明日、と約束して電話を切る。そして俺は外へ飛び出て、隣の部屋の戸を叩いた。

「おい、天野。うるせーぞ」

 返事はない。許可なく他人の家に入るのはかなり気が引けるが、天野となれば別だ。ためらいなくドアノブに手をかける。鍵はかけられていなかった。昼間の一件の後、外に出たのかもしれない。

 あの汚い身なりで家に女をつれこんでいるとも思えなかったので、躊躇せずに足を踏み入れる。入ってすぐに、天野の後ろ姿があった。俺にはとうてい扱えそうもない機械を片手に、あの巨大な金属の塊に夢中になっている。他の人間――たとえば同年代の女が見たら眉をひそめるに違いなかったが、俺には奴の背がとてつもなく大きいものに見えた。もやもやとした感情がわき上がってくる。

「おい、こんなこと真夜中にやってんじゃねえよ。迷惑なんだよ」

 天野がふり向いた。先ほどの呼びかけは全く聞こえていなかったのだろう。天野は俺がここにいることに全く驚かない。

「もう少しで完成なんだ。我慢しろ」

「うるせえ。せっかくの彼女からの電話を邪魔しやがって」

 わざと『彼女』という単語を強調した。予想通り天野は食いついた。

「彼女? 花村に?」

 まあな、ともったいぶるように答える。興味津々になっている天野に、少し優越感をおぼえた。こういう方面においては俺の圧倒的勝利だ。

「六月に結婚するんだ」

「百合ってやつか」

「お前、うちの表札見たんだ」

 籍を入れてすらいないのに、彼女は先走って『花村景助・百合』と表札を作って送ってきた。花をモチーフにした、いかにも彼女の好きそうなデザインなのだが、それを見て天野はどう思ったのだろうか。

「ま、『ゆり』じゃないんだけどな。百合って書いて『りりー』って読むんだ」

「……親は子どもが可哀そうだと思わないのか」

 天野は苦い顔をして言った。いくら百合は英語でリリーだからといっても、漢字は定められたとおりに読むのがいいと思っている天野には理解できないのだろう。

 かくいう俺も、最初は彼女の名前を呼び間違えた。

「本人もちょっと気にしてる。いつもちゃんと呼んでもらえないって。でも、俺の上司よりはずっとマシだって。上司さ、昔流行ったキャラクターの名前なんだ」

 上司の名前を言うと、天野は噴き出した。

「悲劇だ、それは」

 声は常に平坦だが、天野は怒っているときと笑っているときが多い。

「そう考えると、俺もお前もかなり恵まれてるよな」

 景気を助ける、で景助。俺が生まれたときはちょうど、戦後最大の不景気だったらしい。地元で小さな飲食店を営んでいた両親が、景気回復を願ってつけたという。そのおかげか分からないけれど、俺の会社の黒字は右肩上がり、今のところは両親の話でしか知らない二十四年前のように、リストラの恐怖に怯えることなく生活できている。

「それで、その彼女とやらは」

「二つ年下でさ、パティシエ見習いなんだ。で、今はフランスで修業中。帰国したら、この近くの店に雇われることになってる」

「すごいな」

 なんのためらいもなく、天野は彼女をほめた。自分がほめられたかのような錯覚に襲われる。悪い気持ちではない。

「あと一週間もすればここに来るんだ。そのときに会わせてやってもいいけど」

 一週間。天野は複雑な表情を浮かべた。

「あと一週間もしないうちに、これが完成する」

「それは残念」

 タイムマシンなど動きっこない。どんなに天野が研究したとしても。

 せめて夜中はやめてくれ、と言い残して部屋を出る。しばらくは不愉快な金属音はやんでいた。冷蔵庫から、来るときに買って冷やしておいた缶ビールを取り出し一気にあおる。会社の同僚や大学時代の友人と飲むときはチューハイばかりだが、俺は本当はビールの方が好きだ。ただしあまり強くないから、好きだと言っても飲めるのはせいぜいひと瓶ほど。天野もビールの方が好きだろうな、とふと思った。よく考えなくとも奴と飲んだことは一度もない。

 ひょっとするとアルコールに弱い体だったりして。そうなんとなく考えたとき、再びあの音が聞こえてきた。

 怒鳴りこみにいくのはもう面倒になっていた。空になった缶を捨てて、しつらえたばかりの布団の上に倒れこむ。

 眠りに落ちる瞬間、タイムマシンが本当に動いたらどうなるかという問いが脳裏をよぎったような気がした。



 ◆◇◆



 朝七時に家を出て出勤し、午後六時に帰宅する。しかし今日は珍しく残業で、ボロアパートへと続く坂をのぼったときには十二時を回っていた。

 明日も仕事があるので会社に泊まってもよかったのだが、俺は帰宅することを選んだ。

 天野のタイムマシンは今夜完成する。

 坂をのぼりきると、小さな窓から光が漏れていた。曇りガラスをとおってぼんやりとした光が、アパートの前に立っている天野を照らす。

 俺の姿をみとめると、天野はゆっくりと歩み寄ってきた。再会してから全く変わらない服装。洗濯くらいしろよ、と言ったら、着替える時間がもったいなかったんだ、という返事がかえってきた。

「でも一応は完成したんだろ?」

 俺の問いに、天野はうなずく。

 過去になど行けるわけがない。そう思いつつも、天野がタイムマシンに乗りこむのに間に合うように急いで帰ってきてしまった自分がいる。間に合って、つい安堵している自分がいる。

「本当に過去に行くのか」

「当たり前だ」

 揺らぎない答えに、俺は笑うしかなかった。ここでやめろと言えば、天野に負けたことになる。生来の負けず嫌いが顔を出し、俺はつとめて平静を装った。手にしていたコンビニの袋の中をあさる。エコだなんだと騒がれた時代はとっくに終わり、廃棄物から作られる再生可能な袋を使うのが当たり前になっている。二十四年もすれば時代は変わるのだ。

 俺がビールの缶を取り出すと、天野は怪訝そうな顔をしてまじまじと缶を見つめた。

「お前、酒には弱いか?」

「いや。飲んだことがないから分からない」

 天野は酒税が高いというようなことをつぶやいた。子どものころと比べて二倍近くの価格になってしまった酒類は、働いていない天野にとっては手が出せないものなのかもしれない。

「じゃあ、これを機に飲めばいいじゃん」

「いや」天野は首を横に振った。「酔ったら困る」

 酔って醜態を見せるのが嫌なのだ、と俺は悟った。酔いつぶしてやるのも面白いと思ったが、缶を袋の中に戻す。

「お前、本当に行くわけ?」

「同じことは二度言わない」

「……で、その人生のどこを変えるんだよ」

 頭脳明晰、スポーツ万能、ちゃんとした服を着さえすればそれなりに見える容姿。どこに不満があるのだろうか。知り合って十四年、負けるたびに悔しい思いをしてきた俺からすれば、これ以上何を望むのか不思議で仕方ない。

「全部だ、全部。天野秀一という人間そのものを変える」

 俺は生まれてこなければよかったんだ、と天野は言った。

「過去に行って、両親が出会わないようにする。そうすれば俺が生まれることもない。小学生のときからずっと計画していた。それが今、実現する」

 天野の言葉に、小学生のときに聞いた噂を思い出した。天野のDV疑惑。クラスメイトが嬉々として話しているのをくだらないと聞き流していた。あれは、もしかすると真実だったのかもしれない。だが、今ここで聞いても仕方のないことだと思った。

「そっか」それしか口にすることしかできなかった。「俺が口出しするようなことじゃなかったな」

 あはは、と乾いた笑い声をあげてから、はっと気づく。天野の顔に影が差していた。

「俺は、花村が羨ましかった。だから、負けるわけにはいかない」

 何が、と聞いても答えないであろうということは分かっていた。逆に俺が同じことを問われたとしても答えなかっただろう。天野に負けたくない気持ちが邪魔をするだろう。

 天野は顎に手をやった。他は全部おざなりになっているのに、そこだけはきれいに手入れしてある。

「お前、髭の感触が嫌だったのか」

 まあな、と天野は肩をすくめた。顎に手をやるしぐさは、天野の自信を表す。けれども今は、なぜかその自信も虚勢のように見えてならない。

「なあ、お前がもし過去に行って人生を変えたら、少なくとも小学校では俺が一番になれるってことだよな」

「そういう、ことだろうな」

「じゃあ、『花村くんもすごいけど、やっぱり天野くんの方がすごいよねー』なんてことは言われなくなるんだ。それはいいことだよな」

「そんなことばかり気にしていたのか」

 呆れたように天野はため息をつく。

「そうだよ。人間なんて単純な生き物だからな。女の子の声援ひとつで何でもできるもんだって」

 天野はいまいち理解していないようすだった。きっと言葉では説明できない。

「どうせうまくいかないって」

 本当に行ってしまうのか、と実のところは言いたかった。だが三度も繰り返すと、天野のタイムマシンを認めてしまうことになりそうだったのでやめた。

 天野は何も言わなかった。窓から漏れる明かりだけに照らされているせいか、眼鏡の奥の瞳を見ることができなかった。天野はきびすを返し、部屋の戸を開ける。やはり黙ったままだった。俺も口をかたく閉ざしていた。

 天野が姿を消す。ガチャリという鍵のかかる音。勝負の結末はあっけなかった。あっけなさすぎて、俺は期せずして手に入れた勝利をどうしたらよいのか途方に暮れ、夜の闇の中に立ちつくしていた。



 ◆◇◆



 この都市ではめったにお目にかかれない緑あふれる景色を見て、彼女は歓喜の声をあげた。

「いいよね、こういうところ。実家によく似てて落ちつく」

 高校卒業と同時に実家のある長野を出てここに来た彼女は、高層ビルの立ち並ぶ都会的な風景よりも自然を好む。

 彼女はボロアパートの適度な大きさと質素さを喜び、庭があることを喜び、自分が作った表札がちゃんとかかっていることを喜んだ。二十二歳だとは思えない、子どものような喜びようがくすぐったくて心地よい。

 やっぱり、奴に自慢したかった。

「部屋に入ってもいい?」

「いいけど、待て、鍵開けるから」

 ジーンズのポケットの中を手探りで鍵を探す。小さな鍵はひっかかってうまく出てこない。苦闘していると、ギイと音をたてて戸が開いた。

「けーくん、鍵かかってなかったよ」

「そんなはずはない。絶対にかけたって」

「もしかしたら、鍵が壊れてるのかも。なんかこの鍵、小さくて情けない感じじゃない?」

 危ないから換えたほうがいいね、と彼女は言って部屋を見わたす。外観のわりにきれいな内装は彼女のお気に召したらしい。上機嫌でフランスから運んできた荷物を広げる。

「鍵壊れてるって?」

 半信半疑で鍵をかけ、それからドアノブをひねる。いとも簡単に戸は開いた。

 まさか。彼女をおいて外に出る。電気を消さなかったのだろう、天野の部屋からは光が漏れていた。おそるおそる戸に手をかける。戸が開く。あの金属の匂いが漂いはじめる。天野の姿は見えない。

 天野と別れて三日。本当に過去に行ってしまったのだろうか。そう思ったとたん、奴の名前が口をついて出た。その次の瞬間、俺は後方へと飛ばされた。

 地面が揺れている。森も、アパートも、俺の視界のものすべてが上下左右に大きく揺れる。立ってなどいられなかった。土がむき出した、つかむところのない地面を俺は転がった。必死で彼女の名前を呼ぶが、天地がひっくりかえるような揺れのせいで周りがどうなっているのか確かめることすらできない。

 しばらくして揺れがおさまった。のろのろと這い上がってみて、俺は愕然とした。

 先ほどまでそこに五十年の歴史をたたえていたアパートが見るも無残につぶれていた。家具もろとも倒壊していた。血の毛が引いていくのを感じた。

 彼女の名を呼ぼうとしても、思うように声が出せない。考えるより先に体が動いた。片端から、崩れた屋根や柱をどかしていく。手が傷つくのはかまわない。俺は必死だった。

 けれども、日が沈んでも彼女は見つからない。いくら名前を呼んでも返事は戻ってこない。一本の柱を何とか引き抜いたとき、足元に何かが転がった。

 表札だった。

 ふっと体の力が抜けていくのが分かった。力なく、かれた声で彼女を呼ぶ。

 天野のタイムマシンが脳裏をよぎった。今ならあいつの気持ちがわかる。タイムマシンの存在を信じたくなる。

 もし本当に過去に戻れるなら、俺は真っ先にタイムマシンに乗りこむ。彼女がフランスを立つ前に、ここへ来る前に、いやアパートがつぶれる前でもいい。

 時間を戻してくれ。そんな俺の願いは聞き届けられることはない。



 ◆◇◆


 ――東海地震の死傷者、行方不明者数はいまだ確定しておらず、今もまだ倒壊した建物の下敷きになっている人が多数いる模様です……。

 ラジオから、深刻なふうを装ったアナウンサーの声が聞こえてくる。実際にあの揺れを体感した者でなければ、大地震の悲惨さを本当に理解することなどできない。

 深いため息をついて、地面にそのまま腰をおろす。どこを見ても瓦礫の山だ。高層ビルが密集していた中心部の被害はもっとひどいと聞いたが、俺にとってはどうでもいいことだった。ボランティアらしき中年女性に食事をすすめられたのを断って、気を紛らわせるために目を閉じる。

「生きてたんだな」

 足音とともに低い声が頭上から降ってきた。はっと顔をあげる。

「天野」そう呼びかけて、俺は悟った。「過去には行けなかったみたいだな」

 考えてみれば、天野のことを忘れたことはなかった。もし天野のもくろみがうまくいっていたら、俺と天野は出会うことがなかっただろう。俺の記憶に天野が現れることはなかっただろう。

「行けなかったんじゃない。行かなかったんだ」

 ぬけぬけと天野は言う。行くのが怖かった、とは言わない。行きたくなかった、とも。

「タイムマシンの研究はもうやめだ。それより今は耐震建築だ。あのタイムマシンの耐震性を生かせばきっとうまくいくぞ」

「そんな簡単に諦めていいのか」

「諦めたんじゃない。終わったんだ」

 その言葉は真実なのだろうな、と思う。天野は憑きものが落ちたようなすがすがしい表情を浮かべていた。天野には珍しい、笑顔だった。

「お前に負けるのはごめんだったからな」

 現実から逃れてしまえば、勝負にすらならない。天野もよく分かっていたようだ。

 辺りを見わたして天野は、「彼女は?」と問いかけてきた。意識不明の重体、と答える。天野が青ざめる。

「重体、だった。今は元気に怪我人生活やってる」

 二日かけて探しても見つからなかったときには、もう駄目だと諦めかけた。しかし救助隊員の助けが来て、ようやく彼女を見つけることができた。あのときほど医学の力が偉大だと思ったことはない。昏睡状態から彼女は意識を取り戻した。

「それならよかった」天野は言う。心からの言葉に違いなかった。

「だが、もう六月も終わったな」

「六月なら来年もある。そのころまでに住むところが見つかればいいんだけどな」

 うまく行くかどうか、未来のことは誰にも分からない。

 そうだ、と思いだしたように天野は手にしていた袋をかかげてみせた。中から缶をふたつとりだす。あのアパートの下から見つけた、と天野は言う。

「今日は飲んでやってもいい」

「昼間から?」

 彼女が聞いたら怒るだろう。けれども俺は天野からビールを受けとった。

「だいたいお前、それはもともと俺のだ。なに偉そうにしてるんだよ」

 天野は聞こえないふりをして、ビールを開ける。俺もそれにならう。

 ガスの抜ける小気味いい音が、勝負の再開を知らせた。



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