見なかったふりを、いたしましたの
今回は文の移り変わりで◆を使ってみました。
わたくし、エレノア・フォンティーヌが風紀委員長を引き受けたのは、単純な理由からでございます。
フォンティーヌ侯爵家は、代々この国の記録を預かる家。父は王宮書記官長を務めております。
書き残す。数える。日付を添える。
物心ついた頃から、それが当たり前でございました。
ですから学園に入って、記録の残らない噂ばかりが飛び交うのを見て、単純に、気持ちが悪かったのです。
◆
三年前の秋、西階段でひとつの噂が生まれました。
「ヴァレンハイト公爵令嬢が、ポワレ男爵令嬢を突き落とした」
わたくしは、その日のうちに調べを始めました。
風紀委員の職務でございます。
踊り場にいた生徒は七名。五名から証言が取れました。ポワレ嬢は、三段目からご自分で座り込まれた。
そしてセレスティア様は、その時刻、南棟で王妃教育の講義を受けておられた。
証言と、講義の記録。両方が揃いました。
わたくしは書面をまとめ、第二王子殿下の従者にお渡しいたしました。
これで終わる、と思っておりましたの。
◆
二日後、その書面は暖炉で焼かれました。
「灰になっていたよ」
教えてくれたのは、殿下の従者だったレオンハルト様でした。
男爵家の三男で、当時はまだ、殿下のお側におられた頃です。
「すまない。俺が渡した。渡した先で燃やされた」
「……あなたのせいではありませんわ」
「そう言ってもらえる立場じゃない」
彼は、それきり口を閉ざしました。
わたくしは書面の写しを持っておりませんでした。原本を渡してしまえば終わると、そう信じていたからです。
自分の甘さに、腹が立ちました。
◆
その夜、わたくしはセレスティア様のお部屋を訪ねました。
謝罪をするつもりでした。
助けられなかった、と。
「顔をお上げになって、フォンティーヌ様」
「……ですが」
「あなたが調べてくださったことは、存じております。七名のうち五名から、というところまで」
どうしてご存じなのか、伺うのが恐ろしくなりました。
セレスティア様は、机の上のものを、わたくしのほうへ滑らせました。
小さな、飾り気のない革張りの手帳でございました。
「今日から、これを始めます」
「……それは」
「書きます。日付と、時刻と、あった通りを」
「殿下に、お出しになるのですか」
「いいえ」
セレスティア様は、少しだけ首を傾げました。
「出せば、また燃やされますもの」
わたくしは、言葉を失いました。
この方は、わたくしの失敗をご覧になって、笑いも責めもせず、ただ、燃やされない方法を考えておられたのです。
「フォンティーヌ様。ひとつ、お願いしてもよろしくて」
「なんなりと」
「風紀の記録を、続けてくださいませ。あなたのお家のやり方で」
その日から、わたくしたちは別々に数えはじめました。
◆
三年間、セレスティア様は一度も泣きませんでした。
わたくしの知る限り、という条件はつきますけれど。
雨の中、二時間立っておられた建国祭の日も、翌朝には何事もなかったように授業に出ておられました。
わたくしのほうが、よほど腹を立てていたと思います。
「セレスティア様。今日こそは、お怒りになって結構ですのよ」
「なぜですの」
「なぜ、って」
「怒っても、日付は変わりませんわ」
そう言って、手帳に一行、書き足されるのです。
わたくしは、その姿を見るのが、だんだんつらくなってまいりました。
この方は、感情の置き場所を、紙に決めてしまわれた。
人が泣く代わりに書くというのは、そういうことなのだと、あのとき初めて知りました。
◆
二年目の春、わたくしは図書委員のクロエ様に声をかけました。
ベルナール子爵家の、小柄なご令嬢でございます。
この方は誰にも頼まれていないのに、貸出簿も委員会の議事も、すべて几帳面に写しておられました。
「クロエ様。ひとつ、伺ってもよろしくて」
「……はい」
「なぜ、写しを取っておられるの」
「なくなるからです」
即答でございました。
「わたくしの家は、代々こういうお役目でして。父が申しますの。一部しかないものは、無いのと同じだと」
わたくしは、思わず笑ってしまいました。
フォンティーヌの家訓と、まったく同じでございましたから。
その日から、わたくしたちは三部ずつ写すことにいたしました。
一部は手元に。一部は信のおける方へ。
そして最後の一部は、どこへ出すかを決めずに、伏せておく。
三年前の教訓でございます。
燃やされたのは、一部しかなかったからでした。
◆
卒業夜会の夜。
殿下が婚約破棄を口になさったとき、わたくしは扇の陰で、静かに息を吐きました。
来た、と思いました。
三年、待った日でございます。
セレスティア様が腰から手帳を外されたのを見て、わたくしは立ち上がる支度をいたしました。
名を呼ばれるのが、分かっておりましたから。
「――エレノア」
「はい、セレスティア様」
わたくしは、扇を閉じました。
三年前に燃やされた書面を、今度は声で読み上げるためでございます。
燃やせるものなら、燃やしてご覧なさい。
この広間の三百人の耳から、どうやって灰にするおつもりですか。
そう思いながら、わたくしは証言の数を、ひとつずつ申し上げました。
途中で、ポワレ嬢がこちらをご覧になりました。
助けを求めるような目でございました。
わたくしは扇を開いて、風紀の記録を申し上げました。
夜間に寮を抜け出した回数、三十一回。同伴の令息、四名。
あの方は、ご自分が数えられているとは思っておられなかったのでしょう。
誰も見ていないと信じている人ほど、よく数えられているものでございますのに。
ひとつだけ、申し上げなかったことがございます。
三十一回のうち一度、ポワレ嬢は東屋で泣いておられました。
お相手の令息が、先に帰ってしまわれた夜のことです。
記録には残しました。読み上げは、いたしませんでした。
あの場で読み上げても、誰も救われないからでございます。
断罪は、必要な分だけでよろしいのです。
◆
すべてが終わって、回廊に出ますと、夜気が冷たうございました。
わたくしは、どうしても伺いたいことがございました。
「悔しくは、ありませんでしたの?」
「……ありましたわ」
そう仰るのに、お顔はいつも通りでございます。
三年間、ずっとこれでした。
ですからわたくしは、もう一歩だけ踏み込んだのです。
「では、悲しくは?」
セレスティア様は、足をお止めになりました。
そして、初めて仰いました。
毎日、少しずつ悲しかったと。
悲しいと申し上げても、あの方は笑うだけだったから、書くことにしたのだと。
その手帳は、角がすり切れ、背が二度も綴じ直されておりました。
三年分の重さでございます。
「……明日のご予定は?」
「何もございませんわ」
「まあ」
「本当に、何も」
そのお声が、震えました。
ほんのわずかに。
ご自分でも驚いておられるようでした。
ちらりと。
つい覗き込んでしまうと、あの方は仄かに口の端を歪めていました。
笑ってるような、泣いているような。
ようやく仕返しが出来て、解放されて笑っているのか。
今までの苦しみが蘇ったのか。
わかりかねるからこそ。
◆
「セレスティア様」
「なんですの」
「今、笑いましたね」
「……別に」
「笑いました」
「帰りますわ」
この方は笑ったのです。
苦しい思い出なんてもうこの先いらない。
わたくしが、皆がもっともっと楽しい思い出をこれからプレゼントするから。
その後、馬車の中でセレスティア様は一度も窓の外をご覧になりませんでした。
わたくしも、何も申し上げませんでした。
ただ、隣に座っておりました。
それだけでございます。
◆
後日、フォンティーヌ家の書庫に、一冊の帳面が納められました。
表紙には、日付だけが書かれております。
中身は、風紀委員長を務めた三年分の記録でございます。
わたくしが数えたもの。
燃やされなかったもの。
いつか誰かが必要とするかもしれませんので、そのまま置いてございます。
記録終了。




