幸せになってもらいたくて結婚相手を斡旋しているのに、拾い子は居座り続けるようです
リュヌス王国辺境の、とある小さな村。村人同士の助け合い精神が色濃く残るこの村には、王国一美しいと噂される少女、アンジュが暮らしていた。彼女の美貌は国を傾けるとまで言われており、遠路はるばる求婚者が殺到するほどである。
今日も今日とて宝石店を営んでいる好青年が、アンジュを求めて訪れたのだが――。
「お断りします」
アンジュは天使のような微笑みを浮かべたまま、その申し出を辞退した。
玉砕した青年はせめてとばかりに持参した宝石を置いていこうとしたが、アンジュは興味がないとばかりに突き返す。さらに追い打ちをかけるように「お出口はあちらです」と帰路を急かす始末で――。一縷の望みさえ打ち砕かれた青年は大きく肩を落とすと、とぼとぼと玄関口へ向かった。
こうして今日もまた、哀愁漂う背中を見送りながらマルクは思う。
このままではまずい、と――。
*
「なあ、アンジュ。何が気に入らないんだ」
青年を見送ったマルクは、クッキーに手を伸ばすアンジュに問いかけた。
「何がって……マルクが私を結婚させようとすること。以上」
アンジュは瞳を細めてマルクを一瞥したが、すぐさま視線を戻すと、手に持ったクッキーを一口かじった。サクサクと良い音を立てて食べている。人が頭を抱えているというのに、ずいぶんとまあ呑気である。
「それは仕方のないことだって、お前自身分かっているだろう!」
つい語気が強くなってしまったが、睨みつけないでほしい。それくらいこちらも必死なのだ。
いくらアンジュにその気がなかろうと、結婚しなければならないのっぴきならない理由があるのだ。
リュヌス王国に新国王が即位したのが三年前。そして日ならずして、とある法律が施行された。
それは成人してから一年以内に婚姻を結ばなければ、国によって伴侶が決められてしまうという強権的なものだった。
未婚の者同士を結婚させ、子を増やせば、将来的に国の経済が安定すると考えた結果らしい。
この国では十八歳が成人だ。王家も貴族もいわゆる政略結婚が主流であり、幼少期より婚約者が決まっていることも多いため、特に問題視されることなく法案が通ってしまったのだ。
その結果、結婚活動――通称婚活が難航していた者や、マッチングした相手との相性が良かった者にとっては僥倖の極みであるが、言動に問題がある者と結婚させられた者にとっては、奇禍に遭ったも同然である。配偶者の行動により心身ともに傷つけられたり、犯罪に巻き込まれたり、最悪の場合命を落とす者もいると聞く。
しかし、だからと言って拒むことは許されない。そうすれば、国家背信罪となり収容所に連行されてしまうのだ。収容所に送られた者がどういう扱いを受けるかは明らかにされていないが――巷では奴隷のように働かせられるだとか、人体実験の素材として使われると噂されている。いずれにしろ確かなことは、二度とこれまでの生活に戻ることは叶わないということだ。
そんな強権的な法律ではあるが、いくつか例外もある。
それはリュヌスの生まれではない外国人や未亡人となった者は除外されるというものだ。そのルールに倣うとマルクは対象外になる。マルクは元々画家として各地を巡っていたが、アンジュを養育するためにこの地に留まっているだけの外国人なのだ。
ふと出会った頃のアンジュの姿を思い出す。あの頃と今とでは、見る影もないほど美しく成長した。
艶のあるブロンドの髪は輝き、長い髪がなびくたび、爽やかな香りが空間に広がる。紫水晶を散りばめたような瞳と長いまつ毛が、彼女の愛らしさをより引き立てており、簡素なワンピースに身を包んでいるにも関わらず、凛と背筋を伸ばしたアンジュの姿は、まるで高貴なご令嬢が着ているような雰囲気さえ感じられる。
その美貌は誰もが目を奪われるほどだが、アンジュの魅力は容姿だけに留まらない。
手先の器用さを活かして、刺繍職人としても活躍している。その腕前は高く、老舗の仕立て屋工房の職人に引けを取らないほどであり、貴族からの依頼もあるほどだ。
誰かが困っていれば、汚れ仕事だろうとなりふり構わず助ける優しさも兼ね備えている。
そんな非の打ち所がないアンジュに、憧れや恋慕を抱く者が後を絶たないのは言うまでもない。
だからこそ今日の求婚者は、逃した魚が大きすぎた。
栄えた王都に店を構えており、老舗にも関わらず、こちらの身分を下に見ることもしない爽やかな好青年だった。顔立ちも端正で、アンジュと並ぶ姿は美男美女と言える。彼のような者ならば、アンジュに苦労をかけることなく、生涯大切にしてくれただろう。またとない機会だった。それなのに――。
「あと一ヶ月でお前は十九になる。それまでに相手を決めなければ、どこの馬の骨ともわからない男と結婚する羽目になるんだぞ!」
「……」
マルクの言葉に、アンジュはぷいっとそっぽを向いてしまった。かなりご立腹な様子だが、これもまたいつものことだった。
マルクが求婚者を斡旋すると、決まってアンジュの機嫌は悪くなるのだ。マルクだって、本人が嫌がることはしたくない。けれど――。
「あのなぁ、アンジュ。今ならまだ自分で選べるんだ。国にあてがわれた相手と合わなかったらそれこそ……」
暴力的だったら?
借金まみれだったら?
浮気性だったら?
マルクはアンジュにそんな生活をさせたくない。もう苦労はしてほしくない。ただ朗らかに豊かで幸せな生活を送って欲しいだけなのだ。それが過分の望みならば、せめて彼女が愛する者と生涯を共にしてほしい。
血の繋がりはなくとも、マルクはアンジュを庇護している。親子ほど年は離れていないとはいえ、言わば親のような存在だと自負している。だからこそ、より良い相手と結婚してもらいたいのに――。
「いつも言っているけど、私、結婚する気ないから。死ぬまでずっとこの家にいるから」
アンジュはずっとこの調子である。
悲しいかな。マルクの親心をわかってはくれない。危機感を覚えるどころか全く気にも留めていない。
こちらは必死になっているにも関わらず、アンジュはサクサクと小気味よい音を立てている。いつの間にかクッキーは残り二つになっていた。
「それは無理な話だってわかっているだろう! 大体、血の繋がりのない成人した男女が一人屋根の下で暮らすというのは、世間体が悪いんだ!」
「私はそんなの気にしないわよ」
「お前が気にしなくても、周りが気にするんだ!」
また一つ口に頬張っていないで、そこは気にしてほしい。
実際訪れた求婚者の大半から、「どういうご関係で?」と聞かれる。親子にしては年が離れており、兄妹にしては似ていないのだから、当然の疑問である。
毎度毎度『保護者のようなもの』と説明しているが、そのたびにどこかざわつくような違和感が胸を掠めていた。
「村長もリアーナさんも『そんな些末なこと気にするな』って言ってたわ」
「あの人達は余計なことを……っ!」
アンジュのいう村長は、いわずもがなこの村の長であり、七十歳を超えた好々爺である。リアーナはこの村唯一の酒場の店主で、年齢不詳の妖艶な女性だ。二人はアンジュを我が子のように可愛がってくれており、アンジュもまた二人には特別懐いている。それはいいが、余計なことは吹き込まないでほしい。
マルクが徐々に苛立ちを募らせていると、アンジュが立ち上がった。
「そういうことだから、もう求婚者は連れてこないで」
「いや、そういうわけにはいかな――――」
次の瞬間、不機嫌を露わにしたアンジュの顔が近づいて――言葉を封じられた。
口の中でサク、と軽い音がして、バターの風味が口いっぱいに広がる。何を入れられたのかわかったところで、アンジュがマルクの横を通り過ぎていく。
「おひ、あんひゅ……!」
まだ話は終わっていないのだが。
マルクがもごもごしている間に、アンジュは自分の部屋へと戻ってしまった。
まるで反抗期の娘である。いや、反抗期の時期は過ぎているのだが、マルク限定で永年反抗期を発動している。
「…………はぁ」
マルクはクッキーの甘さを感じながら、大きく息をついた。
*
「俺はどうすればいいんですかっ!」
その日の夜も更けた頃、マルクはリアーナの酒場を訪れていた。マルク限定永年反抗期の娘の相手など、飲まないとやってられない。
「厄介な法だよねぇ。まぁ、あたしは対象外だけどさ」
年齢不詳のリアーナはそう言うと、酒の入ったグラスをマルクの前に置いてから、煙管に火を付けた。
未亡人なのか、はたまたマルクと同じ外国人なのか。村長とはずいぶんと古い仲のようだが、対象外の真相はわからない。ただ、リアーナの年齢は聞かないというのは、村人全員暗黙の了解である。
「アンジュの好きにさせるのが一番じゃろ」
隣に座る村長がグラスを片手に言った。村長はマルクよりも随分前から来ていたらしく、すでに顔が赤らんでいる。
「そんなこと言って、アンジュがどこの馬の骨とも知らないやつと結婚してもいいんですか!」
「そうは言っておらんが、アンジュにその気がないのに周りがごちゃごちゃ言うてもなぁ……」
村長の言葉にリアーナも頷いて同意を示した。
マルクだって、できることならアンジュが望む相手と結婚してほしい。けれど、そうはいかないのが現実なのだ。アンジュの幸せを願っているのは同じはずなのに――。
マルクは歯がゆさを押し込むように酒を呷る。アルコールが喉を通り、カッと熱を帯びる。
「なんでみんな……そんな他人事のように……。アンジュが可愛くないんですか!?」
「可愛いに決まっておるじゃろう。それこそわしの孫だって、アンジュを嫁にしたいと言っておるくらいじゃからな」
村長の発言に、マルクは思わずリアーナと顔を見合わせた。
リアーナは煙管から口を離すと、ふぅと息を吐いた。煙がぷかぷかと宙を漂って、消えた。そして、
「……お孫さん、女の子でしょう?」
リアーナの指摘に、村長は渋い顔をしている。
確かに村長のところの孫娘はいつもアンジュを見るなり、「お嫁に来てほしい!」と熱意たっぷりに言っているが、この国では同性婚は認められていない。
「……あぁ、もう、おしまいだ……」
ゴンッと鈍い音を立てて、マルクはカウンターに突っ伏した。一つに結った月毛の馬の尻尾のような髪の束が、頬に触れる。額がじんじんと痛むが、アンジュの行く末を想像すればなんてことはない。
「落ち着きなよ、マルク。アンジュも馬鹿じゃないんだからさ。それにあの見た目で意外と強情でしょう? あんたがいくら頑張ったところで、タイプでもない男と一緒になることはないでしょうよ」
――タイプでもない男?
リアーナの言葉を心の内で反芻する。
「とにかく、どういう結果になったとしても、アンジュの誕生日は盛大に祝ってやるんじゃ。絶対に暗い顔を見せるんじゃないぞ」
「あたしもそれがいいと思う」
「いや、どうにかなるかもしれない……!」
マルクがあまりにも勢いよく立ち上がったばかりに、二人は虚を突かれたように動きを止めた。だがマルクは気にすることなくズボンのポケットから紙幣を取り出した。
「ちょっと、マルク?」
「二人とも、ありがとうございます! じゃ、ごちそうさまでした!」
ぽかんとしたままのリアーナに代金を握らせ、マルクは足早に店を後にする。
扉の上部に付けられた小さなベルが、カランカランと鳴る。
「何を思いついたのか知らないけど……」
「どうすることもできんというのになぁ」
二人の言葉は、店を去ったマルクには聞こえなかった。
*
翌朝、マルクはリビングでアンジュと向き合って座っていた。
「アンジュ、話がある」
「結婚相手の話なら聞かないわよ」
アンジュはうんざりしたような表情を浮かべている。美人というのはどんな表情でも様になるなと思いつつ、マルクは続ける。
「もう、数撃ちゃ当たる作戦は止めにする」
「はぁ? そんな作戦してたわけ?」
呆れたように大きく息を吐かれ、睨まれる。
「やめろ、睨むな。俺が悪かった。多くの出会いの中に、運命の出会いがあるかもしれないと思ったんだ。でも、それは止める。ただ、もう時間がないのはお前もわかっているだろ?」
アンジュは頷くことなく、ただじっと見つめてくる。
「だから、アンジュの男のタイプを教えてくれ!」
「は?」
「俺が、お前のタイプに合う男を探してくる!」
「…………なるほどね」
アンジュはどこか考えるように口元に手をやった。しばらくして、分かったわ、と呟くと。
「年は同年代よりは年上。立派な商家の後継者は嫌。あとは自分で財を成してないのに踏ん反り返っている人も嫌。実家を頼ることなく自立している人がいいわ。あとは困っている人がいたら見過ごせない優しさも欲しいし、子どもにも優しくないとダメね。暴力暴言はもってのほか。身長も私より二十センチは高くないと。あとは……」
「…………もういい。そのくらいで妥協してくれ」
指折り数えるアンジュに対し、もう聞きたくないとマルクは頭を抱えた。
「妥協はしないわ。結婚は一生に一度なのよ? 絶対に納得できる相手とじゃないと嫌!」
「それは分かるが……アンジュの好みでいけば、資産家や貴族は選べないことにならないか?」
「別に構わないけど?」
何が困るのかとでも言いたげな顔である。
確かに今までの求婚者は資産家や貴族が多く、それで言えば、アンジュのお眼鏡に叶う者はいなかったと思い返す。
けれどお金があれば、綺麗な指に針を刺すこともなければ、火傷の危険を冒して食事を作らなくてもよくなる。その麗しい美貌に相応しい宝飾品とドレスをまとうことだってできるのに――。
「――っ、だが……」
「先に好みを聞いてきたのはマルクでしょ。私、タイプに当てはまる人とじゃないと結婚しないから」
確かにいいだしたのはマルクである。そう指摘されてはぐうの音も出ない。
返す言葉に詰まっていると、アンジュは紫水晶の瞳でキッと睨んできた。
「うっ……わ、わかった……」
仕方ない。
自分の発言を撤回するわけにはいかず、マルクは大きくため息をこぼすと、しぶしぶ了承した。
了承はしたが――――アンジュの伴侶探しは想像以上に難航した。
アンジュと同年代であればまだ探しやすいものの、年上であれこれ条件がついている男は大体既婚者である。
まさかと思い、意中の相手が妻帯者で叶わぬ恋をしているのかと聞いたが、睨みつけられた挙げ句それから三日間口を聞いてもらえなかった。村長とリアーナからも苦言を呈された。
そして――努力の甲斐も虚しく、何の成果も得られないまま、アンジュの誕生日を迎えてしまった。
もちろんマルクは条件を緩めてもらえないか交渉したのだが――
「い・や・よ。全部の条件に当てはまる人とじゃないと結婚しないわ」
アンジュの意志は固く、一蹴された。
だが不思議とアンジュの機嫌は悪くない。むしろここ最近では一番上機嫌かもしれない。
村長やリアーナにも言われていた通り、今日だけはマルクも暗い顔は見せないよう振る舞っている。無力感に打ちひしがれる姿は、見せなくていい。
せめて誕生日プレゼントを買いに行こうと誘ったが、アンジュはいつも通り過ごしたいと、家にいることを望んだ。
ならばと日が昇っている間はいつものように家で静かに過ごした。いつもと違うのは、二人で同じ空間にいたことだろう。マルクは絵を描く時部屋に籠もるのだが、今日はリビングで針を刺すアンジュを描いていた。
そして夕暮れ時になると二人でキッチンに立って、テーブルが埋め尽くされるほどの料理を作った。
一緒に暮らし始めた頃のアンジュはまだ幼く料理ができなかったが、いつの間にかマルクよりも手際よく何品も作れるようになっていた。
いつものように向かい合わせで座り、豪華な食事に手を付けていく。ひとくち、ひとくち、噛みしめるように。この味を忘れないように。口に広がる感触を、風味をじっくりと味わう。
「美味いなぁ……」
つい、言葉尻がかすれてしまった。
いつもの光景、いつもの席。けれど、今日、終わってしまう。
そう自覚した瞬間、鼻の奥がつんとして熱いものが込み上げてくる。マルクが生家を出ていくときですら、こんな気持ちにはならなかったのに――。
「マルクが作ったのもすごく美味しいわ」
「……そうか。それは良かった」
口元に手を添え、満足げに頬を緩めるアンジュ。
そういえば最近はアンジュの怒った顔しか見ていなかった。その原因は言わずもがなだが、こんな楽しげな表情を見たのはいつ振りだろうか。怒った顔も可愛いが、やっぱり笑顔が一番可愛いと思う。
マルクは溢れそうになるものをぐっと堪えた。
後片付けを終え、時計を見る。
あと一時間もしないうちに、役人が来てしまう。結婚相手の名が記された書状を持って、アンジュを連れて行ってしまう。
どうするか。いや、どうしようもない。悪あがきしようにも、何の策もない。
もう、時間が、ない。
その時、ふいに清涼感のあるミントの香りが鼻を抜けた。目の前を見れば、アンジュが食休みのハーブティーを淹れてくれたらしい。
「あ……ありがとう」
「……マルク、ごめんね。わがままばかり言って、困らせて」
マルクにはめったに謝らないアンジュが、小さく頭を下げた。途端にざわりとしたものが胸を撫でる。
「な、なんだよ。謝るなんて、らしくないじゃないか」
「今日くらいは素直になろうと思ったの」
アンジュはいつになく真剣な眼差しを向けた。
「最後にもう一つだけ、わがままを言ってもいい?」
「……ああ」
最後という言葉に、胸が抉られるような気持ちになる。
「プレゼントが欲しいの」
「……っ! 何で昼間言わなかったんだ!」
女性の機微に疎いマルクは、贈り物のセンスが壊滅的らしい。村の皆からも、プレゼントを買う時は本人を連れて行けと口酸っぱく言われていた。
だからプレゼントを買いに行こうと言ったのに――!
勢いのまま席を立ち、まだ空いている店がないか思い出す。
「大丈夫よ、物じゃないから」
慌てるマルクをよそに、アンジュは落ち着き払った様子でゆったりと立ち上がった。
「物じゃないなら、なに――」
そう問い返した次の瞬間、突然胸ぐらを掴まれてマルクの上体が揺らいだ。
アンジュの美しい顔が目の前に現れて、そして――息ができなくなった。
何が起きたのか分からない。
何が起きているのかも分からない。
ただ、酔うような甘い香りがして。
マルクの唇に柔らかくてあたたかいものが触れていたと気がついたのは、アンジュの唇が離れてからだった。
「――っ!? な、なにして——っ!」
思わず口元に手をやるマルクに、アンジュはくすりと微笑んだ。
「プレゼントをもらったのよ」
「は? 意味が――」
分からない、そう言おうとしたのに、上手く言葉を紡げない。
「マルクは、私と初めて会った日のこと覚えてる?」
「忘れるはずないだろ! というかそれとキス……に何の関係が……!」
いい大人が生娘のように恥じらう姿がおかしかったのか、アンジュはくすりと笑った。けれど次の瞬間には、眉を下げ遠くを見つめた。
「マルクに出会うまで私は『ゴミ溜め場』でずっと暮らしてきたわ。ゴミ溜め場に捨てられるカビの生えたパンを食べて、泥水を啜って生きてきた。私は、およそ人間らしい生活はできていなかった」
今から十四年も前のことを、アンジュは鮮明に覚えていたらしい。
生家を家出同然に飛び出したマルクが、放浪の画家をしながら出会ったのが、リュヌス王国の『ゴミ溜め場』と呼ばれるスラムで暮らしていた一人の少女だった。
鼻が曲がりそうなほど腐敗臭の立ち籠めるゴミ溜め場で座り込んでいた少女の姿が、マルクの頭の中で鮮明に映し出される。
路上生活を余儀なくされる孤児なんてどこの国にもいる。もちろんマルクの生まれ故郷にもいたが、彼らを救ってきたかと言えば、否である。きりがないのだ。マルクが生家に残っていれば支援活動はできただろうが、そもそも家を出たマルクに慈善院を建てるような金銭的余裕もなければ、そんな崇高な考えも持ち合わせてはいない。ただ、その場凌ぎの食料を与えることくらいしかやってこなかった。
それなのに――気づけばあの日マルクは一人の少女に手を差し出していた。
「マルクが手を差し伸べてくれなかったら、私は間違いなく死んでいたでしょうね。そうしたら、人の温かさも、誰かと一緒に食べる喜びも、愛しい人と一緒に暮らせる幸福も――私は知らなかった」
――愛しい人。
その言葉に、心臓が跳ねた。
心臓がうるさい。なんだか顔も熱い気がする。保護者として接してきた自分の立ち位置が揺らぎそうで、必死に自分の心を律する。
「私は高価な宝石やドレスなんて欲しくない。貴族の夫人なんて立場も興味がない。名前もなかった私を一人の人間として扱ってくれた。そんなマルクとこの先もずっと一緒にいたいの」
アンジュの口から紡がれる言葉の一つ一つが、マルクの心に重くのしかかる。
こんなのまるで、プロポーズじゃないか。
「な……にを……。いくつ歳が離れてると思って……」
「十三ね。問題はないわ」
一歩、また一歩と迫ってくるアンジュに気圧され、つい後退りしてしまう。
「だが、俺は……」
「マルクが私を恋愛対象としてみてないことも分かってる。けれど、私はずっとマルクが好きだった」
「違う。アンジュは家族愛を恋心と勘違いして――」
「人の気持ちを勝手に決めつけないでくれる!?」
その瞬間、アンジュの手がマルクのすぐ側の壁を叩いた。同時に背中に硬いものがぶつかり、逃げ場を失ったことを悟る。
「私は結婚するならマルクとじゃなきゃ嫌。拾ったんなら、最期まで私の側にいてよっ!」
アンジュの紫水晶の瞳が揺れていた。美しい瞳の中では、眉を下げた情けない顔の男が映っていた。
「アンジュ、俺は……」
マルクが言葉を紡ごうとしたその時、こんこんと扉を叩く音が聞こえた。
来てしまった。
思っていたよりも早い来訪に、一瞬で指先が冷たくなった。
応答しなければならないのに、声が出ない。思わず息を潜め静かになった家の中で、扉を叩く音だけが響いている。
「……今、出ます」
静寂を打ち破るように声を出したのは、アンジュだった。
アンジュはマルクを囲っていた腕を下ろすと、踵を返し扉へ向かっていく。
「待て、アンジュ……」
咄嗟に細い腕を掴んだ。
振り返ったアンジュの表情に、マルクは胸が締め付けられる。
「ぁ……」
「……っ! マルクに選ばれないのなら、死んだほうがマシよ!」
ぽろぽろと大粒の涙を流すアンジュ。
けれど袖で涙を拭うと、マルクの制止を振り切って、歩みを進める。
どうすればいい?
マルクはアンジュと同じ感情を抱いてはいない。幼女趣味でもないマルクは、これまでもアンジュのことを一人の女性として、そういう目で見たことは一度たりともない。
拾ったのだって、奉仕精神だとか慈愛精神からではない。ただあの時――ゴミまみれの中にいたアンジュが、地に落ちた天使のように見えて。特に信心深いわけでもないくせに、なぜか放っておけなかったからというだけだ。
ただそれだけ。仮初の保護者として、アンジュには幸せになってもらいたいだけだった。
けれど――。
扉が開かれた瞬間、強い力でアンジュを引っ張り、胸に抱く。そして、
「アンジュは俺と結婚する! だから、連れて行かないでくれ!」
気づいたら、そう叫んでいた。無我夢中だった。
もう間に合わないかもしれない。けれど、少しでもアンジュの望みを叶えられる可能性があるのなら、マルクは賭けずにはいられなかった。
「そうか! それはめでたいのぉ!」
「…………はっ?」
決死の叫びに応えたのは聞き慣れた声で。
よく見ると、そこにいたのは村長だった。
「え? そっ、村長!?」
「よかったなぁ、アンジュ。実ったんじゃな」
「ええっ!」
困惑するマルクを置き去りに、二人は盛り上がっている。
村長とアンジュを交互に見るが、二人に戸惑った様子は見られず、かえって戸惑いが増していく。
「……は? えっ? な、何で、村長が……? 国の使いは……?」
「あぁ、それについてはわしから話そうか」
マルクの困惑に気づいた村長が、声音をやや硬くして説明を始めた。
アンジュは物心付く前から『ゴミ溜め場』にいた。
あの当時スラムに子どもがいた最大の理由は、他に行き場がなかったからだ。口減らしで捨てられた子や、虐待やネグレクトで自ら逃げ出した子、人身売買の道具として取引され、運良く逃げ出したものの頼れる場がなくなった子もいるという。教会や慈善院にも支援の限界がある。そしてそれらの施設に入れたとしても、良い環境とはいい難い場合もある。虐待やネグレクトで逃げ出した子の中には、慈善院から逃げ出した子どももいたらしい。
大人に裏切られた子どもはどうなるか。
大人が、社会が信じられなくなる。
同じ傷を負った仲間以外、信じられなくなる。
そしてそういった子どもは、そもそも出生の記録が残されていないことのほうが多いという。
子どもを捨てる、いたぶるような親ならば、足がつかないようにするだろう。また、親に知識がない場合もある。最低限の知識すら与えられなかった子どもが子を成した場合がそうなのだとか。
アンジュがどういう理由で『ゴミ溜め場』にいたのかはわからないが――生みの親の顔も名前も知らないどころか、自分の名前すらわからない。そんな少女に便宜上の名前と誕生日を与えたのは、ほかでもないマルクだった。
「でも、俺はここで暮らすときに届けを――」
「あぁ、わしが受け取った。じゃが、たとえアンジュがリュヌスで生まれたという事実があったとしても、そもそも出生の記録が出されていなければ、その子はリュヌス王国で生まれた王国民とはならんのじゃよ」
その言葉にマルクははっとする。
つまりアンジュは記録上、生まれた時からこの国に存在していないということになり、あの法律には抵触しないのだという。
「な、なんだよ……。だったらもっと早く言ってくれていれば……俺の苦労は一体……」
一人で焦り、結婚相手探しに奮闘した苦労がすべて水の泡だったとは。力が抜け、へなへなとその場に座り込む。
「私だって最近まで知らなかったのよ。あの法律が始まって、村長が教会にかけあって調べてくれてわかったんだから」
「えええ……じゃあなんで俺に教えてくれなかったんですか……。俺、アンジュの保護者みたいなもんじゃないですか……」
「わしらはみんなアンジュの味方じゃからな。鈍感な男に言ってみろ。進展するもんもせんじゃろ」
ニカッと笑う村長の言葉に、アンジュが頬を赤らめた。
どうやら村の皆はアンジュの気持ちを知っていたらしい。知っていて、アンジュの気持ちを尊重してくれていたらしい。
一人空回りしていたマルクが滑稽で仕方ないが――こうして長く続いたアンジュの結婚相手探しは、幕を下ろしたのだった。
*
翌朝。アンジュに叩き起こされたマルクは、村から一番近い小さな教会に出向いていた。
二人で婚姻の意思を示すと、見知った顔の司祭はどこか温かい視線を向けてきた。どうやら司祭もアンジュの気持ちに気づいていたらしい。外堀を埋めすぎだろうと隣を見やれば、しれっとした顔をしていた。
一通りの手続きを終え、マルクは教会のカーペットを踏みしめながら出口へと向かう。
「……何だか謀られた気がする」
「何よ。文句あるの!?」
隣を歩くアンジュがキッと睨みつけてくる。
「いや、ないけど……」
本当にこの娘は自分を好いているのだろうかと疑いたくなる反応である。
けれどそれを追求する気はない。
誓いを立てた時点で、マルクとアンジュは夫婦となった。今さらどうこういっても、元の関係には戻れないのだ。
アンジュはすたすたとマルクを追い抜くと、先に教会の外へ出てしまった。
また怒らせてしまったのだろうかと慌てて追いかけてみれば、扉のすぐ近くで待っていた。
「ねぇ、マルク」
艷やかなブロンドが風でなびく。
顔にかかる髪を耳にかけて、アンジュは目を細めた。
「私を拾ってくれてありがとう。これからもずっとあなたが大好きよ」
頬を染めたアンジュはマルクの胸元を掴んで引き寄せると、唇を押し付けてきた。
――とんでもないものを拾ってしまった。
そう思うのに、不思議と後悔はなくて。
どこか安心している自分がいることに気づいて。
マルクは行き場をなくしていた手をそっとアンジュの腰に回すと、今度は深い口付けを交わしたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。




