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◯
「それで、イヴ? 昨日、何があったんだ?」
テーブルに着くなり、僕の「恩人」、オルカさんは僕にそう聞いた。不思議な響きを持つその名前を、僕は今朝ようやく知ったばかりだ。
窓からは朝日がさしている。昨日と同じ光のはずなのに、一層眩しく感じるのは何故だろうか。睡眠の足りてない頭で考えても、答えは一向に出てこない。
僕はとりあえずカフェオレを飲む。マイルドになったコーヒーの苦味で、頭を回そうと努力する。しかし、カフェオレは減るばかりで、昨日あったことを纏める助けはしてくれなかった。
オルカさんは黙ったままの僕を見て、ため息を吐く。
「俺、結構、心配してたんだからな」
「……はい、すみません、ほんと」
「謝って欲しいんじゃなくてさ……」
説明、しなくてはいけない。なんであんなに遅くなったのか、僕には話す義務があるし、彼には聞く権利があるだろう。でも、どうにも上手く言葉にならない。
——僕の、名前以外に……確かなこと……。
ようやく、たった一つだけ頭をよぎった。
「そうだ、僕って人間じゃないらしいです」
ぼと、とオルカさんは持っていたパンを皿の上に落とした。せっかく半熟だった目玉焼きの黄身がいまの衝撃で割れている。
僕はつい、あっ、と声をあげてしまった。彼の持つこだわりについて、ここ数日延々と聞かされてきたせいだ。何故かオルカさんは目玉焼きを割る瞬間にうるさかった。
彼は僕を見たまま、固まっている。止まった時の中で、黄身だけがどろりと流れていく。
「オルカさん。パン、落ちましたよ」
「…………………………は?」
「だから、パン」
「馬鹿、そっちじゃねえよ」
食い気味にそう言って、彼は指先でパンを拾い、手が汚れないように苦心しながら一口齧った。もぐもぐと咀嚼しながら、その味を確かめている。そして、ようやく飲み込むと躊躇いながらも口を開いた。
「…………人間じゃないのか? お前」
「……らしいです」
「わけわかんねえって」
オルカさんは天を仰ぐ。
僕は、自分のパンを控えめに齧った。ここに来てから、毎日同じものを食べている。僕に細かな味はわからないけれど、美味しいことだけはわかる。
「…………食事」
オルカさんがぼそりと呟く。
「え?」
「それで、今までのやつで大丈夫か?」
「はい、美味しいですけど……」
その言葉以上の意味を読み取れないまま、僕は答えた。口に合うか、は初日にも聞かれたはずだ。
「そうか、じゃあいいや」
彼はそう言って、珈琲を啜る。
「いいやって、何がですか?」
「同じ食卓につけるなら、暮らしていけるだろ。それなら、人間じゃなくても、『いいや』」
面食らった。次は僕が固まる番だった。
「…………そこなんですね」
あまりにも、簡単で単純な論理だった。それで納得できるようなことではない気がした。なのに、彼はもう変わらぬ顔でパンを喰んでいる。
「大事なことだろ。それで? それが判明するようなことがあったから、あんなに遅くなったってのか?」
「まぁ、はい。『神』と色んなこと話してたので、時間がかかりまして」
「はぁ⁈ 『演劇』の神と⁈」
睡眠が足りてない僕の頭に、オルカさんの絶叫が響く。この人のここまで大きい声を聞いたのは初めてだった。
「嘘だろ⁈ え⁈ 嘘だよな⁈」
「嘘じゃないですって。あっ、そうだ、ほら、これ昨日もらったチケット、らしいです」
「神」に手渡されたそれをオルカさんに見せる。
彼は僕の手からそれを抜き取り、目の近くでまじまじと眺めると、また大きな声をあげた。
「——マジじゃん!」
僕の顔を見る彼の顔が、心なしか青ざめている。
「やっば、え、やばぁ。じゃあ、お前まじで人間じゃないんだ」
「え、信じてなかったんですか」
「信じてたけど、今もっと信じた。『神』と、話したのか。そんなこと、できるんだな……」
そう言ったオルカさんの顔が青から赤へと変わっていく。渦巻いていた感情が、ただ一色、興奮へと塗り変わっていく瞬間を、僕は見た。
「どうだった? 話したんだろ? この国の、俺たちの『神』と」
彼のその目には、確かな信仰心が宿っていた。「神」に対する絶対的な信仰だ。
「どうって、言われても、」
——困ってしまう。
それが正直な感想だった。
「神」の見た目は覚えている。だけど、それだけだ。元は「神」を理解したくて公演を観に行ったはずなのに、余計わからなくなってしまった気がする。あの「神」の性別すら、僕はまだ知らない。
——だから……。
「……緊張してたので、あまり覚えてないです」
そう言うしかない。
得体の知れない「神」が怖い。なんて、彼の前で言えるわけがないのだから。
「そっ、か」
そんな僕の様子を察したのか、オルカさんはそれ以上追求してこなかった。熱を冷ますように、言葉を飲み込むように、彼はコーヒーを喉に流し込む。
「でも、その、すごい存在なんだなって思いましたよ。女性にも男性にも見えますけど、どっちなんですか?」
「ん? ああ、どっちでも無いよ」
「……どっちでも無い?」
「——『演劇』の神には性別が無いんだよ」
そう言って、オルカさんは残ったパンの最後のひとかけを口に放り込んだ。
ガタッ、とテーブルから音が鳴った。僕が無意識に立ち上がったせいだ。瞬きを忘れて、ただ彼を見つめる。オルカさんは手についたパン屑をはらいながら、口を動かしていた。
「…………性別が、ない?」
「うん、知らなかったんだな」
「し、知らないですよ。え、それってどういう……性別がないって、なんで、」
テーブルに手をついて、僕は身を乗り出す。急に近づいてきた僕に驚いたのか、オルカさんはカップを持ったまま体を後ろに逸らした。
「なんでって言われても……俺もわかんねえし。そういうもんだとしか言えないよ」
「そういうもん…………? 『神』っていうのは、性別がないんですか?」
「いや、うちの国の『神』だけ無い。他国の『神』には普通にあるよ」
彼はあまりにも平然にそう言った。
「…………」
僕は息を吐く。
「演劇」の神には性別が無い。これは彼の常識なのだ。この国の常識で、当たり前のことなのだ。だから、これ以上聞いても、きっと意味がない。そう自分に言い聞かせる。
ふと「演劇」の神の姿を思い出す。遠目で見たとき、僕はどこかで女性であるような気がしていた。目の前に来たときは女性なのか男性なのか、わからないと思った。しかし、正直、気になんてしていなかったと思う。わざわざ疑問に思わなかった。性がどちらかなんて、気にする余裕がなかったせいかもしれない。
ふいに、黒を煮詰めたくらいに黒い、あの瞳が僕の頭をよぎり、背筋が凍った。あの訳のわからなさを思い出してしまった。気を逸らすため、僕はまた口を開く。
「不思議なもんですね。この国の『神』にだけ無いなんて」
「…………」
二枚目のパンを用意するため、立ち上がったオルカさんは、僕のその言葉に一瞬動きを止めた。遠くを見るみたいに、特定の場所ではないどこかを見ていた。僕は少し心配になり、席に戻った彼の顔を伺う。
「あの、どうかしました?」
「……思い出してた」
「思い出したって、何を?」
「『この国の神は例外である』」
「はい?」
「十年くらい前、公演で言ってたんだ。だから性別がないんだったと思う」
——例外……例外、例外?
ひとつの言葉を確かめるみたいに、何度もなぞった。今までに例がないから、例外。
あれは、あの「神」は何かが、従来の「神」を逸脱している。そんな予感が僕の脳を掠めた。
「——例外ってどういうことか詳しく教えてくれませんか?」
何かが、わかりそうな気がした。もう少しで、答えに手が届く。そのためのとっかかりが欲しい。もやがかかっているけれど、確実に目の前にあるのだ。逃すわけにはいかない。その思いだけで、問いた。
あれが、例外。なら僕は? 僕は、それ以上のイレギュラーじゃないか? いや、だけど、なら、なんで、「神」は、あのとき…………。
「悪いけど、」
思考が中断した。
確信めいた何かは、霧散して消えていく。一夜の夢のように、形すら思い出せないほど跡形もなく崩れていった。それでも、残った期待感だけを持て余し、僕は次の言葉を待つ。
「十年以上前の話だから、細かいことは覚えてないんだ。いま思い出すまで忘れてたしさ」
「……そうですか」
「ごめんな、俺から話したのに」
僕はぬるくなったカフェオレを一気に飲み干す。引っかかるように、舌にべたりと張り付いた。もう一度、その感覚を拭い去るために飲み込む。
「そう言えば、この国の『神』に性別はないけど、三人称で呼ぶときは便宜上『彼』で統一されてるんだぜ」
「へぇ、でも『神』をそんなに軽々しく呼ぶことなんてないんじゃないですか」
沈黙から逃げるように、僕とオルカさんは会話を始めた。お互い、わざとらしいくらい軽い調子だった。
「公演で必要なときのためだよ。俺らには、そんな機会はないさ」
「はは、やっぱり」
もう小さくなってしまったパンを控えめに齧る。冷めても相変わらず美味しい。
時計を見るともうそろそろ店を開ける準備を始めなくてはならない時間だった。僕は皿を持って立ち上がる。
「……オルカさん、『予言』って知ってます?」
「…………ん?」
——僕、世界を救うらしいんです。
とは、言えないけれど、それでも誰かに頼らずにはいられなかった。何も理解してない僕ひとりで考えるには、荷が重すぎる。何か、何でもいいから知りたいのだ。「予言」について、彼の、あの「神」以外からの知見が欲しかった。
「……ああ、『予言教』のことか。勧誘でもされたか? 珍しいな。滅多に見かけないってのに」
「——『予言教』?」
「あれ、違ったか? 国を跨いでる宗教団体だよ。『予言』の神を信仰してるらしいけど、正直何やってるのかよくわかんないんだよな。ほぼ都市伝説みたいな」
「予言教」それは、僕が聞いた「予言」と何か関係があるのだろうか。
詳しく知りたかったけれど、慌ただしく店へと向かうオルカさんを見て、また機会を見つけて尋ねることにした。もうすぐ、開店時間だった。
僕も準備を手伝うため、オルカさんの後を追いかける。箒を手に取り、いつもより手早く掃除を始めた。
ふと、野菜を切り出すオルカさんが大きな欠伸をしているのが目に入った。昨日、僕をここまで運んでから眠りについた彼は、何時まで起きていたのだろう。
——僕の「恩人」は、優しすぎるくらい優しい。
そう思いながら、僕も大きな欠伸をした。




