7
◯
自分の吐いた、息の音が聞こえる。
驚いているはずなのに、僕はどこかで納得していた。どうりで、なんて言葉を思わず言いそうになった。無意識のうちに、気がついていたのだろうか。僕が、人間ではないということに。
僕は、人間ではない。だから、生きている。だから、あの日、「生誕の森」で、死ななかった。
「神」すら立ち入れないような場所で、僕が生き延びることができた理由はわからない。けれど、多分、僕が人間ではないことにその一端がある。そう考えたほうがまだ納得できる。
「……」
——目の前にいる「神」に違和感を持ったのは、このせいなのだろうか。
僕は自分を人間だと思っていた。だから、自分と同じ存在にしか思えないこの「神」を疑った。
でも、この「神」は僕と同じで、人間ではないのだ。僕の抱いた違和感は、それで説明が出来てしまう。目の前の存在は「神」であり、その「神」も僕も人間じゃない。だから、感じていた親近感を、違和感だと勘違いしただけなのかもしれない。
——いや、でも…………。
それでも、僕はまだ、釈然としない気持ちを抱えている。
頭を振って「神」に向き直った。こんなこと、今考えても結論なんて出ない。どうにもならない。それよりも、聞きたいことを「神」に聞くことを優先したほうがいい。まだわからないことが沢山あるのだ。
僕は、感情を映さない「神」のその顔を見つめ、また口火を切った。
「……僕が知ってると思ったって、何を?」
「——『予言』だよ」
こほん、とわざとらしく席をして、「神」は立ち上がった。
客席から見たときのように、その身に光を浴びている。カツ、とわざとヒールで音を出した。こちらを一瞥し、目を伏せ、「神」は優雅にお辞儀をした。
まるで、公演が始まる瞬間のようだった。
僕はつい姿勢を正して、その所作を見つめる。「神」が口を開くまでの時間が、永遠のように長く感じた。
「——『世界が終焉を迎えるとき、神でも人でもないものがその窮地を救い。神は、その力の意味をなくすだろう』」
意味を咀嚼するまで、数秒かかった。たった一人に向けるにしては、大袈裟なくらい芝居がかった「神」のその物言いのせいだ。
僕は瞬きをして、言葉を頭で反芻する。困惑の声さえ、僕の喉から出てはくれなかった。
「君のことだと思った」
一歩、「神」が僕に近づく。真っ白な僕の頭に、その手を這わせる。手はゾッとするほど冷たかった。
「——人でも、「神」でもない、だろう?」
確かめるように、「神」は言った。
黒い目が、怪しく光る。顔を寄せられて、僕の身体から汗が噴き出た。空気の塊を吐き出すことしかできない僕を、その目がじっと見ている。
僕は視線を逸らせない。どうして、この目を、見ることしかできない。
「神」は、にい、とその口角を歪めた。
「は、はは、はははは」
静かな劇場に、笑い声が響く。反響し声は、幾重にも重なった。「神」のその顔は、歓喜に満ちている。
僕はぞっとした。
——こいつ、本気で言っている。僕が、その「予言」の存在であると、心から信じきっている。
なぜか、そう思った。椅子の背もたれに寄りかかるように、僕は体を引く。
「世界を救うって、そんなこと……」
「うん、できっこないと思うよね。わかるよ」
——だから、君がきてくれて嬉しいんだ。
「神」は笑った。満点の笑みでこちらを見てる。不気味なくらい白かった肌が、血色を帯びていた。声が、心なしか熱っぽい。まるで信仰の対象を見ているような、そんな目をしている。
「神」の腕が僕の首にまわった。そのまま、僕の膝に乗り上げて、「神」は僕を抱きしめる。
「あ、あの、僕、何も、」
「大丈夫、『予言』は必ず果たされる。君は、ただ生きていればいい」
腕の力が強くなった。僕はその腕を振り解けない。すぐ隣にある顔を見ることができない。頬に、頬が触れる。今までまったく感じなかった寒気が、急に僕を蝕み始める。カチ、と歯がなった。「神」は、生きていないみたいに冷たい。触れている部分が、凍っていくような錯覚を覚えた。
「イヴ、君にひとつ聞いてもいいかな?」
「は、はい? どう、ぞ?」
声がひっくり返った。全てにおいて、訳がわからない。この場から早く抜け出せるなら、もうなんでもいい。そう考えてしまうほど、恐怖を感じていた。
そうだ、怖い。この生き物が、僕は怖い。それは理解ができないものに抱く恐怖であり、そんな存在に期待されているという事象に対する恐怖だった。詳細のわからない契約を、生まれた瞬間に結んでしまっていたと知ったときのような、どうしようもない気持ち悪さがそこにある。
僕は短く息を吐く。そして、なんとか口を開いた。言い訳をしたかった。問いを聞く前に予防線を張りたかったのだ。
「ほ、ほとんどのこ、こと、知らない、ですけど、」
「大丈夫、簡単な質問さ」
ようやく、巻きついた「神」の腕が離れた。ほっとしたのも束の間、その手はそのまま僕の頬を掴み、無理矢理目が合わせられる。
片目しか見えないというのに、僕よりよっぽどその眼力が強い。「神」は、じっと僕を見て、感情のない声で僕に尋ねた。
「——ボクの目、何色に見える?」
——なんで、そんな質問を?
そう返す元気はもうなかった。僕は確認するように、近すぎるその瞳をまた観察する。何度見ても、どう見ても、
「…………黒、」
——今も、黒く光ってる。
僕がそう答えると「神」は微笑んで、ようやく立ち上がった。そしてそのまま、いつの間にかそこにあったテーブルに置いてあったワインの瓶をつかむと、それを一気に煽った。紫色の液体が、吸い込まれるように消えていく。
口元をぐい、と拭って「神」は、またこちらに笑いかけた。
「おや、ワインがなくなったね。丁度いいし、今日はお開きにしようか。付き合ってくれてありがとう」
「………………………………」
僕は、もう言葉さえ出てこなかった。
「本当に送らなくていいのかい? 遠慮しないでいいんだよ」
——ボクがクルマを運転しよう。
そう朗らかに言う「神」に、僕は全力で首を横に振った。ようやく劇場から出られたのだから、もうこれ以上関わりたく無い。
なんで強引にお開きにしといて、送ろうとしてくるんだ。流石に理解ができない。しかも、この「神」、酒を飲んでいたのに、運転しようとしてる。「恩人」さんには、飲酒運転しようとしてる客がいたら何がなんでも止めろと言われたというのに。
「大丈夫です。一人で帰れます」
「遅くなったから、それぐらいはと思ったんだけどね」
「いや、本当に、気持ちだけで、お願いします」
「それじゃあ、これで」
「はい」
そういうや否や、僕はすぐに背を向けて歩き出す。もうすっかり真夜中だ。街灯以外、何も灯りはない。全ての建物から電気が消えている。
——早く、離れて、
「ああ、そうだ。ちょっと待ってくれ」
足を速めようとしたとき、そんな言葉で「神」が僕を引き止めた。
振り向きたくない。心からそう思ったけれど、無視するわけにもいかず、僕は「神」のほうを見る。引き返しはしなかった。
「神」は、ゆっくり一歩ずつ僕のほうに向かってくる。それはわざとか疑うほど緩慢な動作だった。
「——今日のお礼を渡してなかったね」
そう言って、懐からチケットを取り出す。そして、それに何かを書き込んだ。
「はい、これ。これを見せたら、いつでも関係者席に案内させるように話を通しておこう。ボクの公演を好きなだけ観にきてくれ」
——待っているからね。
そして、また笑顔を浮かべた。お手本のような、「神」の笑顔。
その顔にまた少しゾッとする。何を考えているのか本気でわからなかった。追い詰めてきたと思ったら、過剰なくらい優しくしてくる。態度が一貫していないから、性格が掴めない。情緒が不安定すぎる気がした。
動けずにいる僕に、「神」はずい、と近づき、チケットを僕に手にねじ込んで、また遠ざかっていった。
「——じゃあね。また、会おう」
闇に紛れるように、その姿が消えていく。強い風が吹いて、僕は思わず目を瞑った。
目を開けると、もうそこには誰もいない。まるで最初からいなかったかのようだった。残ったのは、手の中で潰れたチケットと寒空の下なのに冷や汗が止まらない僕だけだった。
「っ、」
なのに、僕は必死にあたりを見回している。警戒をとけない。得体の知れない恐怖がおさまらなかった。今も、あの「神」がみているような気がしてならない。ゆっくり、ゆっくり足を下げて、そして背を向けて一気に走り出した。
すぐに、息が切れる。でも止まれなかった。追いかけてきてない誰かに追いつかれるような気がしたから、走り続けるしか無かった。ここへの道のりは覚えている。多少走ったところで、すぐに帰れる距離じゃないことくらいわかっていた。でも、それでも、どうしても逃げたかった。ここから、「神」から、何かから。
震えるほど寒いのに、額を汗がつたっている。数分で足が棒のようになった。トップスピードのまま、ずっと走ってるせいだ。もう息がまともに吸えない。体力はとっくに尽きている。気力だけで、足を引きずっているのだ。
目が、霞んできた。肺が痛い。でも、もう一歩、少しでも遠くに……。
「あ、いた!」
急に耳に届いた音に体がこわばる。
地面に向いていた顔を上げるとそこには「恩人」さんがいた。とうとう幻覚が見えたのかと思って、目を擦る。「恩人」さんは息が荒く、膝に手をあててその息を整えている。そして、僕が何度瞬きをしても、そのままそこにいた。
「なかなか、戻ってこないから、心配したぞ。よかった、会えて」
そう言って、彼は歯を見せて笑った。
「話は後で聞かせてもらうけど、とりあえず帰ろうぜ。無事でよかった」
その声は、ここ数日ずっと聞いていた声と変わりなくて、いつもの彼に違いなかった。目の前にいる「恩人」さんは、本物だ。
ふと、後ろを振り向く。そこには、ただ夜闇が広がっているだけで、何もなかった。そうだ。わかっていたけれど、はじめてそれに安心した。
ずっとこちらを向いている「恩人」さんを見る。彼は安堵と疑問が入り混じった目で、僕をみていた。
戻ってきた。そう思うと、体の力が急に抜けていく。
「え、おい。大丈夫か!」
僕は膝を折りたたむように、正面から倒れた。頭が重くて仕方がない。景色がぼんやりしていく。意識が飛びそうなのだと、どこか冷静に思った。
慌てて支えてくれた「恩人」さんの肩越しに、街灯を見る。
——やっぱり綺麗だ。でも、この国では星は見えないんだな。
落ちそうになる瞼にどんどん抵抗できなくなっていく。
「おい、ここで寝るなよ!」
その声が、遠くなっていく。触れた「恩人」さんの手は冷たかった。なのに、まったく怖くないのだ。なぜかそれが少し嬉しい。
——不思議だな。どうしてだと思います?
そう言おうとしたけれど、その声は空気にしかならなかった。
「…………明日、絶対説明しろよな」
ため息とともにそう言うと、彼はその背中に僕を背負った。
——力持ちだ。すごい。
そんな感想を抱いた。毎日、フライパンを振っていると体力がつくのかな。
消えゆく意識のなかで、目の前の鼓動だけがはっきりと存在している。よくわからないことばかりの今日だったから、それが無性に嬉しかった。僕が小さく体を震わせると、「寒いか?」と声が降ってくる。なんとか首を振ると「そっか」と優しい声が聞こえた。
「……まったく、わけわかんねえよ」
独り言のように、彼が呟いたそれに心のなかで同意する。
わかんないな。全部。説明しろって言われたけど、何から話せばいいのかわからないし。色んなことが起こりすぎて、すべて忘れてしまいそうだし。正直、話したいとは思えないことだらけだし。
——あ、でも。
一つ、あった気がする。言いたいこと。
さっきまでまともに動かなかった舌が、急に言うことを聞く。はっきり、明瞭に、僕の声は街に響いた。
「僕、イヴです」
「は?」
怪訝な様子の「恩人」さんの声が聞こえる。その様子がなんだか、可笑しい。
「——僕、今日、イヴって名前になりました」
それだけ言うと僕は意識を手放した。
街灯が光るその遥か上で、星が瞬いている。星の輝きは、強く美しいのに、この「国」では見えない。遮って、本物のように振る舞っている偽物がいるのだ。僕らはそれを見上げて、それだけを見ている。
星と街灯、二つの異なる光の下で、眠る僕を背負った「恩人」さんは、こう言ったらしい。
「……じゃあ、さっさと帰るぞ。『イヴ』」
街灯が一つ、強く光った。




