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◯
「君、名前は?」
あの後、「神」は去り、劇が始まった。
劇に、「神」は参加していなかった。「神」は、もう出てこないらしい。劇はラブロマンスで、見応えがあり面白かった。席に座っていた人たちが、カーテンコールで立ち上がって拍手をしていた。
なのに、僕の脳裏には未だあの「神」が焼きついている。幕が降りたとき、がっかりしている自分がいた。舞台の真ん中に、またあの黒い瞳が現れるのではないかと密かに期待していたのだ。きっと、観客もみんな同じ気持ちだ。人波が動き始めてからも、みんな、どこか上の空でしきりに舞台のほうを気にしている。
また観に来たい。劇場に向かう集団の気持ちが少しわかった。「神」を一秒でも長く見ていたい。彼らはそう思っているのだ。
余韻もほどほどに劇場を出る。冷えた空気が心地いい。こもっていた熱気が解消されていくようだ。わらわらと進む人々を避けて、邪魔にならない位置に移動した。そして、あたりを見回す。イヴはまだ出てきていないみたいだった。
——また会えないかな。
そう思った。
その時、
「初めまして」
そう声をかけられた。
振り向くと、そこにいたのは「神」だった。
「君と話がしたくてね。追いかけて来てしまったよ」
——ああ、そうだ。君、名前は?
僕の周りから息を呑む声が聞こえてくる。ざわざわとした声が一層大きくなった。
片目を隠した黒い髪、長いマント、タイツに包まれたすらりとした足、心なしかさっきより体格がよく見えるけど、まごうことなく舞台にいた「神」そのものだった。
しかし、あまりにも普通に、ただそこに立っている。さっき観客を虜にしていた存在とは思えないくらい、「神」は当たり前に僕の目の前にいた。こうしていると、服が少し風変わりな若者にしか見えない。身長も僕と同じか、少し低いくらいだ。
「神」は、顔立ちと肩の上で切り揃えた髪のせいで、ここまで近づいても性別がまったくわからない。だから、上背が相応なのか長身なほうなのかはわからないけれど、どちらにしても人間として違和感はなかった。
見れば見るほど、この「神」は人間にしか見えなかった。
「聞こえているかい?」
「あ、うん。聞こえてます」
衝撃で黙ったままだった僕を、「神」は覗き込むように眺めた。
「僕は、僕の名前は、イヴ、です」
こんなに早く、しかも「神」にこの名前を名乗ることになるとは思わなかった。
「なるほど、じゃあイヴ、時間はあるかな? さっきも言ったけど、ボクは君と少し話したい」
「あ、あります。……多分」
数多の視線が、僕に突き刺さる。ざわざわとした声が、また少し大きくなった。
「じゃあ、移動しようか。ここはちょっと騒がしいからね」
僕を連れて、「神」は劇場へ戻った。
中に人はもういない。がらんとしていて、静寂が痛いくらいだ。
「こっちへ」
そう言われて、舞台まで上がる。そこには、向かいあうように、椅子が二脚置かれていた。
「神」はその一つに腰掛ける。促されて、僕も向かいに腰を下ろした。
真っ黒い瞳が、射抜くように僕を真っ直ぐみている。その目には何の感情も宿っていない。急に冷や汗がふき出て、僕の額を伝った。
「君は……」
「神」が話す。話し始める。
張り上げている様子はないのに、その声は舞台の隅々まで届いた。
「君は、何者だ?」
意味が、僕に届くかは別として。




