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「足、大丈夫?」

「ゆっくり歩けば、うん、大丈夫」


 時が経つと人の勢いは弱まり、その数もまばらになった。それでも集団が織りなす列は、まだ遠く続いている。


「あたし達、出遅れちゃったね」

 彼女はそう言って、また申し訳なさそうな顔をした。


「まだ時間はあるから、大丈夫。絶対に間に合うよ」

「……あらためて、ありがとう。あたし一人だったら、もう諦めてたから」


 彼女は、長い髪を耳にかけた。風はもうすっかり冷たい。なびく髪から除いた首が、寒々しい。だけど、彼女は平然とした顔で歩き続けている。


「その服で寒くないの?」

 僕が聞くと彼女は首を振った。

「全然、この国は暖かいでしょ。ちょうどいいくらいだよ」


 彼女は冷たい空気を春風のように浴びて、楽しそうな笑みを浮かべると、僕の顔を覗き込んだ。

「君は、この国の人?」

「僕は……えっと、この国の人というわけではない、かな」

「そっか、それなら、あたしといっしょだね。すごいよね。この国では、夜が明るいんだよ。あたしの国では、こんな遅くに出歩くなんて考えられなかった」

「技術がほかの国より発達してるんだよね」

「うん、ものすごく。見たこともないものだらけだよ」


 そう言って、彼女は目を輝かせながら街を見渡した。

「あたし、ここに来てから、驚いてばっかり」

「…………!」


 ふと、初めてこの国に足を踏み入れた時のことを思い出す。縦横無尽に動く人々、高い建物、構造のわからない機械、そのすべてが少し恐ろしく、なのにどうしようもなく心が弾んだ時のこと。未知で、だから嬉しかった。いつかは既知になり、感じなくなる想い。僕と彼女は、同じだ。同じことを知っていく最中で、同じことに感動している最中なのだ。


 そのことが無性に嬉しくて、僕は彼女に笑いかけた。

「僕も、一緒。ずっと驚いてる」

「本当? それじゃあ、お揃いだね。あたしたち」

「うん、お揃いだ」


 いつの間にか、お互い足を止めていた。長い道のりの残りを歩く時間が、過ぎ去ってしまうことが惜しかった。彼女はどうだろう。この想いも同じならいいのに、と僕はそう思った。


 風が吹く。それに背中を押されるように、僕らはまた歩き始めた。道にいるのは、もう僕ら二人だけだった。


「ねえ、君の名前を教えてくれない?」

 少しの沈黙の後、彼女が言った。

「あ……えっと……」

「あ、あたしはイヴっていうの。ちょっと前にこの国に来たばかりだよ」

「…………」


 ——僕の……名前……。

 自己紹介をしたくないわけじゃない。叶うなら、僕は名前を伝えたい。だけど、僕にはまだ呼ばれる名前なんてないのだ。


「生誕の森」で目覚めた僕は自分の名前すらも覚えていなかった。何日過ごしても、思い出す気配はない。もう元の記憶のことは半ば諦めている。なので「恩人」さんに新しい名前を考えて欲しいと頼んだのだけれど、荷が重いと断られてしまった。

 

 ——でも……自分じゃ、どうしても思いつかないんです。

 ——わかった。それじゃあ、自分の名前を決めるまで、俺の名前も教えない。

 ——え……? なんで……。

 ——俺だけ名前を呼ばれるのは、対等じゃない気がするだろ。焦らなくてもいいけどさ、いつかは名前で呼び合おうぜ。

 

 そんな会話をしてから、ずっと考えてはいるのだ。だけど、どうにも決めきれない。きっと自分のことがわからないままだからだ。そんな僕をどんな名前で表せばいいというのだろう。


「………………」

「む、無理に答えなくていいよ。ごめんね、あたし……図々しかったかな」

「いや、その、教えたくないわけじゃないんだけど」


 正直に、話してしまおうかと思った。記憶がない、

自分のすべてがわからない。そう話せばいいのかもしれないと考えた。だけど、初めて会った人に、そんなこと言われてもきっと困ってしまう。彼女を、困らせたくはなかった。折角、楽しく話すことができたのだから。このままでいたかった。


「……事情があって、えっと……名前を、忘れてるんだ」

「え、名前を?」


 咄嗟に口から出た言葉は、あまりにもお粗末で、僕はすぐに後悔する。もっと、何か、上手い誤魔化しかたがあったはずだ。


「名前を…………そっか。うん、自分の名前を忘れたいときだってあるよね」

 イヴは納得したようにそう言った。僕がわからないその想いを、彼女は完璧に理解したようだった。僕の息が、驚いたせいで、一瞬詰まった。


「え…………ある、かな?」

「あるよ」

 イヴに力強くそう言われて、つい、たじろぐ。


「で、でも、不便だから、そろそろ決めないとって思ってるんだ。そうだ、イヴは何がいいと思う?」

「あたし?」

「うん。新しい名前、君が決めてくれたら、嬉しい」


 僕の咄嗟の言葉に、彼女の大きな目が開いた。

「名前、かぁ……」

 そう言いながら、首を傾げる。そのまま、しばらく黙って歩いた。


 国立劇場の入り口へ続く階段を、列を成した人々が登って行く。その流れは、相変わらず速い。それを眺めながら、僕らは地面をしっかりと蹴る。確かめるように、夜の闇を二人で歩いて行く。


「…………『イヴ』、なんて、どう?」

 ふと、彼女はそう呟いた。隣にいなければ、とても聞こえないような、小さな声だった。


「……え?」

「君は、今、名前を忘れてるんでしょ」

「うん」

「完全に新しい名前だと、いつか君が名前を思い出したくなった時、困ると思うの。だから、あたしの名前をかしてあげるっていうのはどうかなって」

 イヴが、僕の顔を覗き込む。


「……君の名前を?」

 僕は、そう聞く。


「うん。誰かの名前なら、それは偽物だから。自分の本当の名前を名乗りたくなったとき、未練なく戻せるんじゃないかな。もちろん、君が良ければだけど」


 イヴは、不安げに僕を見つめている。


 僕は今まで、色んな名前を考えた。良いと思った名前も幾つかある。でも、自分はその名前には相応しくないと思ったから、やめた。自分を定義しきれなかったから。名前に見合う存在に成れる気がしなかったから。


 だけど、彼女の名前なら、「イヴ」という名前なら、僕が相応しくなくとも、そう名乗れる気がした。だって、偽物だから。定めなくていい余白のような、猶予ができたようなそんな気分だった。


 それに、きっと、「イヴ」と言う名前を忘れることはなくなる。自分が誰のものを借りているのか、ずっと意識して過ごすことになる。それなら、今のこの瞬間を、想いを、同じ名前を持つ彼女のことを、いつか思い出せる気がした。


「……うん、いいね。気に入ったよ」

「本当? よかった」

 イヴは、ほっとした顔をした。


「思い出せるまで、あたしと同じ名前だね。イヴ」

「うん。改めてよろしくね」


 彼女が差し出した手を握る。これがここでの正式な挨拶の形らしい。


 僕より低い手の温度が離れていく。

「あたしが呼ぶ『イヴ』は君のことになって、君が呼ぶ『イヴ』はあたしのことになるんだね。なんだか不思議」

「確かに」


 そう言った瞬間、十二時を告げる鐘が鳴り響く。もう公演が始まる時間だった。


「あっ、早く行こうか」

 小走りで階段を登る。劇場はもう目の前だったのに、その距離を惜しむように歩いていたせいで、遅れてしまった。辺りにいるのは僕らだけだ。観客はもうすでに中に入っているのだろう。僕は慌てて劇場の扉に手をかける。


「——……ごめん」

 その声に振り向くと、イヴが階段の下で立ち止まっていた。彼女は、僕を見つめて、困り顔でそこにいる。歩けないのかと思い、戻ろうとすると気まずそうに口を開いた。


「ごめん、その、あたし、チケットを取ってるから、座る席があるの。だから入り口、ここじゃなくて、えっと……ここでさよなら」


 風になびくその空色の髪が、やけに目についた。突風に目を瞑らないように耐える。なぜか、目を閉じたらもう会えないような、そんな気がしたのだ。


「……じゃあ、あたし、行くね。君も、急いでね」

 そう言って、彼女は背を向ける。どれだけ伸ばしても、もう手は届きそうにない。中に入らなければ、公演が始まる時間だ。


 ——………………。

 僕は扉に手をかけたまま、彼女を振り返った。ただ真っ直ぐ進んでいくその後ろ姿を見た。


「……また、会おう! イヴ!」

 遠ざかる彼女に届くように、僕は声を張り上げた。このまま、すり抜けていきそうな何かを手放したくなかった。これで終わりにはしたくなかった。


 イヴは突然の大声に驚いたように立ち止まる。そして振り返って、声を上げて笑った。その声が夜空に響く。


「あはは、ごめん。でも、君の声、大きすぎだよ」

「そ、そうかな……」

「……あたしもイヴとまた会いたいって、思ってるよ。だから、約束ね」


 そう言って、また背を向けた。彼女は。もう振り向かない。その背はどんどん小さくなっていく。


 ——また、イヴと会いたい。きっと会える。

 そう思いながら、僕はようやく劇場に入る。こもった空気とすれ違い、冷たい温度とともに進んだ。不思議と手の先が痺れるような、緊張しているような、そんな想いを抱えながら歩く。


 ——そういえば、イヴも、「神」を見に来たんだな。

 ふと、そんなどうでもいいことが頭を掠めた。

 


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