13
◯
冷たい水を一気に飲み干す。
そして僕は、胃の中のものを全部吐いた。夕飯を食べていなかったので、ほとんど胃液しか出なかった。流れていくそれを、僕はただ見つめる。
——……スッキリ、しない。
ぐらぐらと内臓ごと揺れているような気がした。あれからかなり時間が経ったというのに、ずっと消えてくれない。衝撃から、立ち直れていない。
カインの言葉を聞いた瞬間の感情が、ずっと僕にのしかかっているのだ。僕が原因で、人が死んだ。なのに、僕はなんて言った?
——申し訳ないな。
無意識にそう呟いた自分を、今も信じられない。ショックを感じたはずなのに、悲しみを抱いたはずなのに、僕はなんて軽い言葉を口にしたのだろう。
悲しんでいないわけじゃない。自責の念がないわけじゃない。でも、違和感がある。もっと、強い感情を抱いていないことへの違和感。この程度しか、感情を揺さぶられていないことに対する違和感だ。
人の命は、重い。守らなければならないもの、大切にすべきものだ。僕はそうわかっていたはずだった。なのに、それを損なってしまったというのに、僕の手からすり抜けていってしまったのに、僕はもっと気にやむべきだというのに、できていない。
——矛盾している。
自分の心が思ったより動かなかったことに、吐くほどショックを受けているなんて。僕は自分がここまで薄情なやつだとは思っていなかったのだ。
人の死に対して、もっと真摯に向き合えると思っていたのだ。自分を、過大評価していた。
「——……僕は、なんなんだろう……」
静寂のなか、扉が開いた。
「ん? まだ寝てなかったのか?」
赤い顔をしたオルカさんだ。随分飲んできたらしい。
「お帰りなさい」
「ただいま、大丈夫か? 顔真っ青だぞ」
「……大丈夫、です。水飲みますか?」
「ありがとう。貰うよ」
そう言って、彼は椅子に腰かける。
「久々に酔ったな」
笑う様子は見るからに愉快だった。
その様子は、いつもの彼だった。
コップに水を注ぎながら、僕はその冷ややかな感覚を確かめる。なみなみと注いで、オルカさんに手渡した。
「どうぞ」
「ありがとう。いやー、楽しかった!」
そう言いながら、彼はテーブルに突っ伏す。そういえば、旧知の友人と呑んでくると言っていた。きっと、積もる話があったのだろう。
「そんなに酔って、明日、店開けられるんですか?」
「次の日まで持ち越したことねえもん、俺。寝たらだいじょぶ」
そう言いながら、こく、こく、と今にも目を閉じそうな彼を僕は揺すり起こす。昨日と立場が逆で、ちょっとおかしかった。
「せめてベッドまで行ってから寝てください。僕にオルカさんは持ち上げられないですよ」
「……ん、わかってる…………」
僕はその手からコップを取り、洗い場まで持っていく。僕が彼にできることは、このくらいしかない。
流水でコップを軽く洗う。手を濡らす冷たい水が、少しずつ僕の頭を冷やしていった。
衝撃がだんだん抜けていく。「生誕の森」での出来事が、なんだかすべて、遠いもののように思えてくる。心のざわめきが、膜に覆われたように、鈍いものへと変わっていく。
——……落ち着いた。
それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけど、息は吸いやすくなった。楽になれた気がする。楽になってはいけないと、どこかで思っているけれど、その声さえ、いまはよく聞こえない。
数分にも満たないオルカさんとの会話が、僕の輪郭を描きなおすように、元の形に戻してくれたように思う。ここで過ごしている日常の僕に、だ。
直感でしかないけれど、僕は確かにそう思った。
「……なんでかな」
「——イヴ」
びく、と僕の肩が跳ね上がる。
いつの間にか、オルカさんが後ろに立っていた。眠そうに、目を擦っている。
「コップ、ありがとな。明日も早いし、もう寝ようぜ」
「あ、はい」
歩きながら、彼は大きな欠伸をする。つられて、僕も欠伸が出た。瞬きをすると、目に涙が滲んだ。
部屋に電気をつけないまま入り、僕はベッドに倒れ込んだ。重くなっていく瞼の下で、目が光を追いかけている。思考がどんどん重くなり、自分が眠りに落ちかけているのだとわかった。
今日の出来事を頭が勝手に思い出していく。朝からたどって、どうしても昼までしか進まなかった。記憶のなかで、空色の髪が輝いている。
——そうだ。明日、イヴに会うんだ。
それが、そのことが、何より大切な気がして、僕は、それでいいのだと夢現で呟いた。だって、彼女は友達なのだから。誰かの都合じゃない、僕の初めての友達なのだから。
僕は「予言」を果たす救世主であることを求められていて、それに応えることにした。だから、責任を負わないといけなくて、そして、何もわからなくても「予言」を成さなければならない。僕の好奇心が満たされるか否かに関わらず、僕が納得できるか否かに関わらず、進まなければならない。
だけど、それは明日を楽しんではいけない理由にはならない。僕がすべて忘れて、遊んではいけない理由にはならないのだ。
まだ形をなさない。手が届かない感情の形が、僕の脳裏を掠めてまた消える。起きたら忘れてしまうそれを、明らかにしないまま、僕は眠りに落ちていく。
だって、明日が大切だから、明日を夢見て、今日にしたいとそう思うから。




