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 ◯

 

 笑い疲れて、静寂が広がる。気まずいような、やっぱり嬉しいような、きっと互いにそんな気持ちだった。


「……食べようか」

 僕はようやくサンドイッチをイヴに渡す。

「あ、ありがとう」


 彼女はすぐ受け取って、包み紙を開け始めた。僕も忘れていた空腹を思い出して、大きな一口で自分のサンドイッチを齧る。

 ——うん、美味しい。


 咀嚼しながら、僕はイヴのほうを見る。彼女の口に合うか、少し気がかりだったのだ。


「——ん! これすごく美味しい」


 イヴが感嘆した声を漏らした。僕は安心して、息を吐く。そして、自分が作ったわけではないけれど、不思議と誇らしい気持ちになった。


「そうでしょ?」

「うん、有名店なのも頷けるね。野菜をこんなに美味しいと思ったの、初めてかも」

「素材からこだわってるからね。それに心を込めて作ってある」

「……君が作ったわけじゃないでしょ」

「僕が心を込めて運んだよ?」

「あはは、なにそれ」

 彼女が笑って、僕も笑った。


「あたし、この国の色んなとこ行ったけど、知らないものがまだ沢山あるみたいね」

 イヴはそう言って、またサンドイッチを美味しそうに頬張る。


「例えばどこに行ったの?」

「機械工場とか、噴水広場とか、龍が封印されてるっていうお城にも行ったよ。ほら、あそこ」

 彼女は一際、目立っている大きな建物を指差した。


「——あとは、国立劇場には何度も行ってる。あそこの公演、何回観ても飽きないんだ」


 どきっとした。


 僕の心臓が変な音を立てた。真っ黒な「神」の瞳が、自分を見ている錯覚を覚える。訳のわからないあの存在が一瞬で僕の意識を支配する。


 僕はその場で頭をふり、思考からなんとか追い出した。


「…………そうなんだ。僕は、まだ一回だな」

「え、じゃあ、昨日は初めての公演だったの?」

「うん」

「わあ、じゃあ悪いことしたね。最初のほう見逃しちゃったんじゃない? 『神』の話を聞く滅多にない機会だったのに、あたしのせいで……申し訳ないな」

「いや、大丈夫だよ。入ってすぐに始まったから」

「本当? それならよかった」


 そう言って、彼女は心底安心したように息を吐く。あまりにも大袈裟な仕草に、僕はちょっと面食らった。


 イヴは僕の動揺している様を見て、少し不思議そうな顔をする。そしてはっとした顔をして、気まずそうに口を開いた。


「……あはは、ごめん。そっか、この国では、『神』を見ることは難しくないんだったね」

「他の国はそうじゃないの?」

「? ふつう、『神』に会える機会は限られてるものでしょ? 『神』が姿を見せる機会が多いって言われてる『欲望』の国だって、年に一度の飽食祭にしか現れないらしいし」

「——この国は、当たり前じゃない?」

「? そうだね。『神』と人の距離は近いと思うよ」


 ——距離が近い。

 僕はその言葉を頭の中で反芻した。


「……ていうか君、この国の人じゃないって言ってたよね? なのになんで知らないの?」


 じと、と疑いの目でイヴは僕を見た。その視線を避けながら、僕は乾いた笑いで返事をする。僕の事情をどう言えばいいのか、検討もつかなかった。


「……ふーん、教えてくれないんだ。あたしは君の友達なのにな」

 拗ねた声で彼女が言う。言葉の一つ一つに棘が生えているみたいな言い方だった。


「……あ……えっと、その……」

 言い淀む僕を彼女は冷たい視線で睨む。


「ふん、いいよ。あたしだって、君に秘密をつくってやるんだから」

「イヴ! ごめんって!」


 そっぽを向いてしまった彼女の機嫌を僕は必死で取ろうとする。イヴの空色の髪が、風に靡いて広がっていた。


「あの……なんて言ったらいいか……」


 僕がなんとか言葉を纏めようとすると、彼女の背中が震え出した。今度は泣いているのかとまた焦ったけれど、聞こえてきたのは笑い声だった。


「——あはは、ごめん、言いすぎたね」

「……いや、本当にごめん。僕、上手く言えなくて、」

「いいよ。よく考えたら友達だからって全部を言わなきゃいけない義務はないよね」


 そしてイヴはようやくこちらを向く。その顔は、一転して穏やかだった。


「——君にだって、きっと事情があるんだろうし。言えるときがきたら、教えてね」


「…………うん。いつか……」

「……そうだね。いつか」


 イヴが食べ終えたサンドイッチの包み紙を畳む。それを見て、僕も最後の一欠けらを口に放り込んだ。


 そよ風が、服を揺らす。穏やかな午後だ。瞬きをすると目が少し痛い。眠いのだと気づいて、僕は欠伸をした。


 ——昨日の睡眠時間が短かったせいだ。夜、遅かったから。


 ふと昨日と今日は地続きなのだと、当たり前のことに気づいた。「神」に出会った昨日の夜と 友達と会話する今日の午後が、連なっているということに現実味が感じられない。


 ——世界を救う……。


 そう言われた。そして、「神」は僕が救うのだと信じている。だけど、僕にはわからない。自分が本当にその「予言」の存在なのか、「神」はどうして僕がそうなのだと確信しているのか。その全部が不透明だった。


 ——だから、知りたい。


 わからないものは知りたいと思う。当たり前の感情だ。だから、僕は知りたい。どうして、僕なのか。あの「神」が心から信じる理由は何なのか。


 暗闇のなかに取り残された僕の唯一の指標がその好奇心なのだと今気づいた。得体のしれないあの黒い瞳が怖いのなら、「神」のことを、「予言」のことを知れば、克服ができる気がするのだ。何も持っていない僕だけど、知ることができれば何かが定まる気がするのだ。


 けれど、どうすれば、何をすれば良いのだろう。「神」とまた会って、話を聞けば良いのだろうか。でも、あの「神」はあれ以上の説明をしてはくれない気がする。だって、ただ生きるだけで、いつか「予言」にたどり着くと彼が信じているのなら、僕に納得させる必要なんてないのだ。


 でも、僕は、今のままでは進めない。

 何もわからないまま、世界を救うことなんてできない。確信が、理由が欲しいのだ。僕が世界を救う理由、「神」でも人でもない僕がどう歩けばいいのか、その指針が。


 ——僕はあまりにも普通に生きてる。

 普通に朝食を食べて、普通に働いて、普通に初めての友達に浮かれて。人間となにも変わらない。食べて、寝て、生きている。


 そんな僕にとって、救世主になる未来はあまりにも曖昧で、重なることのない線の先にあるような気がするものなのだ。だから、それが必然に起こることなのだとしたら、僕の知らない何かがあるはずなのだ。判断を覆すような、何かが。その何かを、見つけたい。それが今の僕の想いだった。



 

 

 ようやく、自分の心に整理がついた。日常に戻ることで俯瞰してみることができたのかも知れない。


 青空に息を吐く。


 僕はふと、寄りかかった姿勢を戻す。イヴは、どこか遠くを見つめていた。きっと、彼女も何か考え事をしているのだろう。


 僕の視線に気づいたように、イヴは微笑んでこちらを向いた。そして、何かを告白するように小さな声で話し始めた。


「——……ねえ、イヴ。なんで人は死なないんだと思う?」


 その言葉尻は震えている。突飛な話題で、僕は言葉に詰まった。彼女は、何を考えていたのだろう。僕には、検討もつかない。


「——あたしはね。その人に役割があるからだと思うの。何か、やらなければならないことがある。だから、人は死なない」


 その口調は真っ直ぐで、澱みない。彼女は立ち上がって、僕の正面に立つ。見下ろすように、僕を眺めて話し続けた。


「きっと、それは幸せなことなんだ。だって、役割があるのなら、それは死ぬために生まれてきたんじゃないって証明になるでしょ?」


 突風が吹いて、空色の髪がイヴの顔にかかる。その表情は見えない。どんな顔をしているのか、僕にはわからない。


「——イヴ、あたしね。その…………」


 髪の隙間から覗く、彼女の目が潤んでいるような気がした。どうして、泣きだす寸前みたいに見える。彼女のまつ毛が揺れた。イヴは瞬きをして、ゆっくり息を吐き、髪を耳にかける。緩慢な動作が終わると、彼女は何かを飲み込んだような顔をして、苦笑いした。


「……君を、遊びに誘っていい? 明日、一緒に公演を観に行かない? 今度は隣で、観たいな」

「………………もちろん、いいけど」


 僕がようやくそう言うと、彼女は顔を逸らして、また隣に腰掛けた。


 二人の間に、重い静寂が広がる。


 彼女が言おうとしたのは、きっと別の何かだ。僕は飲み込んだその言葉を聞きたいと思った。だから促そうとしたけれど、僕も言えなかったことがあったと思い出して、やめた。


 友達でも、全てを明かせるわけではない。イヴが飲み込むと決めたことに、僕が踏み込んでいいわけがないのだ。


 ——いつか…………。

 未来に無責任な期待をする。いつか、彼女の事情に踏み込めるときが来たらいいと思う。僕の事情を上手く話せる瞬間がくることを心の奥で祈る。問題を先送りにするように。


 ——でも、今は……。

「……前と同じ、夜の公演でいい?」

 余計なことを言わないように、言葉を選んで、僕はそう言った。


「うん、あたし、君のお店まで行くから、そこで待ち合わせしよう」

「ありがとう、じゃあ、待ってる」


 彼女は嬉しそう笑った。彼女が喜んでくれて、僕も嬉しい。それで、いいのだとそう思った。




 

 彼女と少し他の話をして、夕陽を見ながら別れた。イヴはゆっくり歩いて、そして、何度も振り返って僕に手を振ってくれた。その背が小さくなるまで見送って、僕も歩き始める。


 頭のどこかで、ずっとイヴの言葉がこだましていた。


 ——何か、やらなければならないことがある。だから、人は死なない。


 彼女は、確かにそう言った。僕は、だから死ななかったのかもしれない、とどこかで思ったのだ。勝手に納得した心地になったのだ。


 僕は、「生誕の森」で、普通なら生きては出られない場所で、死ななかった。それは僕に「神」が混じっているからだと言われて、そう納得しようとしていたけれど、よく考えたらそんなはずない。


 だって、「演劇」の神は言っていたじゃないか、「神」ですら無事では済まない、と。


 僕は自分の体を見下ろした。目立った怪我も、傷もない。もちろん、生きている。そう、僕は、無事なのだ。


 そこにきっと理由がある。僕がやるべきことが、世界を救う理由がある。そう思った。それなら、考えるべきは、僕が死ななかった理由をどうしたら知れるのかだ。


 自分を納得させる理由を、探しにいく。そのための言葉を僕は知っていた。それをいま、思い出した。


「——『迷ったら、出発地点に戻ること』」

 小さく声に出してみる。


 この国に来てすぐ、オルカさんに言われた言葉だ。道が多すぎて、目を回した僕にこれだけは覚えておけ、と教えてくれたのだ。それだけで、ほとんどは解決できる、と彼は胸を張って言った。


 いま、僕は迷っている。「予言」、「神」、わからないことだらけで、自分の動機すら不透明だ。


 だから、僕の出発地点から、進み直してみるのだ。それはきっと「生誕の森」に違いない。何かが、そこでわかるはずだという予感があった。


 ——今から向かえば、夜には着く。

 僕は「生誕の森」へ、足を進めた。

 


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