坊っちゃんとお手伝いさん
「見ろ、広大だ」
「はい、殿下」
カテリーナ・ヴォルカノフは女騎士で、異例の王太子の専属騎士に任命された。まさにエリート騎士だ。
彼女はまさに仕事の鬼……ただ真っ直ぐ仕事だけをやってきた。
自分をこの地位まで引き上げてくれた王太子アーサー・パレオロゴスは……戦地の復興を視察し、広大な自然を前に凛とした声を上げている。
「君への俺の気持ちのようだ…………なんて……」
「え!?はははは!殿下お戯れを!」カテリーナは豪快に笑うと王太子の前に跪いた。
「我が命は殿下のために……」
そしてカテリーナは空を仰ぐように見上げる。
(殿下が御冗談を申し上げられる位……世の中は平和になりました!お母様……見てらっしゃいますか)
カテリーナは騎士団長の父の元に生まれ、入団し……国を守り命を落とした父の姿を間近で見た。
カテリーナは誓った。生まれ変わってもアーサーの元で、国のために尽くすことを。
――――――――――――――――――――――――――
「アサヒ様!アサヒ様!お弁当をお忘れでございますぅ!」
カリナは自作のお弁当を持って、先をスタスタ歩くアサヒを追いかけた。カリナはアサヒの家で住込みで働くお手伝いで、特にアサヒの世話係を任せられている。
「…………カリナ、一人で行くから大丈夫だよ」アサヒは弁当箱を受け取り、若干迷惑そうな顔をしている。
「とんでもございません!私、バチバチっと送迎させていただきます!」カリナはニッコリ笑いながら敬礼をした。
「……俺が運転するのに」
「何をおっしゃいます!アサヒ様がお怪我をされたら大変でございます!ご安心くださいませ……私カリナ先日タクシー運転手の資格を習得いたしました!」カリナは後ろの座席で、迷惑そうにため息をつくアサヒにミラー越しにニッコリ笑う。
アサヒは今年大学3年生、カリナはその2歳年上だ。
「…………へー」
アサヒはさして興味もなさそうな返事をする。
(これも全て……アサヒ様のためでございます!)
「本日のお弁当も栄養バランスにこだわらせていただきました!まずは、主食であるお米の説明から申し上げさせていただきます」カリナは前を向きながら今日の弁当の内容をアサヒに伝えようと思った――――――が。
「……雑穀だろ。知ってる」
「あー……さすがアサヒ様!大正解でございます……あ!でも……」
「ブロッコリー、卵焼き、トマトにパスタと唐揚げだろ」
「…………あ!言わないでください〜!今日は唐揚げのためにカリナ早起きしたんですぅ」
「いいよ、わざわざ早起きしないで……」アサヒは素っ気ない様子だ。
「いえいえ、私アサヒ様のお世話をさせていただくのが仕事でございますから!」カリナはニコニコ笑いながらそう言った。
「…………今日遅くなるから」
「かしこまりました!では飲み会が終了しだいカリナにご連絡くださいませ!私カリナ……ずっとずっとお待ちしております!」大学に到着すると、ポツリとそう言ったアサヒにカリナは敬礼をする。
「……いや、今日女子とかもいるから」
「左様でございますか!ではカリナ、アサヒ様のご武運をお祈りさせていただきつつ、本日は予定通り就寝させていただきます!」
どうやら本日のアサヒは合コンのようだ。
カリナは空気を読んで、アサヒにタクシー代を渡す。
「自分で払うから」
「いえ、こちら必要な経費となっておりますのでカリナの懐は痛みません!ご安心を!」
「……いってきます」
カリナは運転席からアサヒの側のドアを開けるため降りる。
「お気を付けて」
「……自分で開けるって……」アサヒは高校入学から……反抗期だ。カリナが車を運転出来るようになってからというもの送迎を嫌がるのだ。
(お年頃だから……)
「イナリ君!」
その時、爽やかで可愛らしい声が響きカリナは一礼して運転席に戻る。アサヒはいつも複数人と仲良くしているようで、女子が二人男子が一人迎えに来てくれる。
「カリナさーん」明るい雰囲気の男子生徒がカリナに手を振ると、みんなペコリと頭を下げてくれるのでカリナはそれに会釈をして駐車スペースから出て行くのがルーティンだ。
(さすがアサヒ様!もう既にご人望が厚く……!)
カリナはアサヒの成長に目をウルウルさせた。
小さい頃から仕えさせていただいているアサヒ……昔は「カリナ!カリナ!」と後をついてきて可愛かったが……
「カリナももう少しで必要なくなってしまいそうでございますね」
カリナは異性なので……例えばアサヒに彼女や許嫁が出来た時に引退する予定であった。それももう少しだ。
小さい頃に親を亡くしたカリナが、高校を卒業し免許まで取得できたのはイナリ家のお陰でである。
だからカリナはそれまで、アサヒの願い事はなんでも叶えてあげることに決めていたのだ。唐揚げが食べたいなら朝から仕込みをするし、夜中に迎えが必要ならばずっと起きていることも嫌わない。
――――――――――――――
「…………起きてたんだ」
「アサヒ様!今お帰りですか?体調が優れなさそうではありませんか!そんな時はカリナに連絡してくださればお迎えに向かいましたのに……」
その日の夜、カリナが玄関に気配を感じて出て行くと……かなり酔った様子のアサヒが靴を脱いでいたので思わず駆け寄る。
「カリナ、おれ……ホテルに行ったよ女子と」
「それはそれは……お水を飲まれます?」
「…………カリナ」
「はい、なんなりとお申し付けください!カリナはアサヒ様のためならなんでもいたします!」
「じゃあ抱かせてくれよ」
アサヒはそう言うとカリナを見つめた。
玄関のガラス窓から差し込む月明かりが……アサヒの影をやけに縦に伸ばしている。
「え?」
「…………はは……無理だよな、俺なんかと……ごめん、ちょっと言ってみただけ」カリナが目を丸くすると、アサヒはガックリと項垂れている。
カリナは(アサヒ様……)とある可能性を想像していた。
アサヒは今日……ホテルに女性を連れ込み……そこでなんらかの失敗をしたのではないだろうか。
カリナは想像した……アサヒは今体調が悪そうだ。
いざ甘い雰囲気にゲロ、深酒による勃起不全……はたまた急ぎすぎた故の女性からの拒否…………
「……そんなことありませんよ」
カリナはアサヒの手を握る。
アサヒの手を握ったのなんか……いつぶりだろうか。もう随分前だ。
ゴツゴツと男らしい手に……カリナは少し動揺する。
「普通の女性ならばアサヒ様になら土下座してでも抱かれたいと思いますよ」カリナはアサヒの顔を覗き込むように言った。
「………………カリナは」
「カリナも勿論そう思っております」カリナはコクコクと頷く。アサヒは見た目が爽やかなスポーツマンのようだし、好印象を持つ女性は多いだろう。
それに……
カリナは押し留めていた邪な気持ちに蓋をする。
(アサヒ様はあくまでもカリナの雇い主の御子息です)
「アサヒ様はお顔立ちも素敵ですし、背も高くて筋肉質でとても素敵です」カリナはアサヒを褒めちぎる。
「…………本当に?」
「はい、心の奥深くから!遺伝子レベルでそう思います!だから元気を出してくださいアサヒ様」カリナは宥めるようにアサヒの背中に手を置く。
「…………カ、カリナって彼氏いたことある?」アサヒは俯いたまま言った。酔いが回って寒いのか……声が震えているので、カリナは着ている上着をアサヒに掛ける。
今日は少し肌寒い。
「え?カ……カリナは……」カリナはドンドン顔が真っ赤になる心地がした。まさか雇い主にこんな告白をする日が来ようとは……!
「…………」
「カリナはとんとモテませんので、彼氏などは……」カリナは顔を真っ赤にすると眉を下げた。カリナは恋愛から縁遠い人生を送っていた。
学生時代は学校と仕事の両立で精一杯だったし、卒業すれば今までセーブしてくれていた仕事がその分増えて……慣れるまでは毎日仕事のことばかり考えていたものだ。
まあ時折異性と仲良くなることもあったが……アサヒが呼べばそちらを優先しているうちに、自然と消滅してしまってばかり……
しかし、カリナは結婚相手には全てを理解してもらいたいタイプだったのでなんら未練はないけれど。
しかし改めて恋愛経験を聞かれると……なんだか恥ずかしい気持ちも正直なところあるのだ。
どうせ後数年で転職予定だし……とお見合い紹介所に登録しようと思ったこともあったけれど、まだ結婚に焦る時期でもないなぁ……と見送ってしまっていた。
そして気付いたらこの年になってしまっており――――
恋愛経験のない……まっさらツルツルの成人女性が出来上がってしまったという寸法だ!
(こんな恋愛経験のない女に……アドバイスなんて生意気ですよね?)カリナは心の中で号泣した。なんて情けない!まさかこんな所で己が自分の仕事の足を引っ張ってしまうとは!
「……そうか、カリナってそうなんだ」アサヒが呟くように言うのを聞いて……カリナはますます恥ずかしい気分になる。
「そ……そうですよね!そうですよね!お恥ずかしいことにカリナ恋愛経験がないんです!」カリナは顔を押さえながら告白をした。
「そんな女が生意気にアサヒ様になんてこと!ああ!わかりました!アサヒ様!カリナ今すぐ恋愛経験を積んでまいりますぅ!」カリナは立ち上がるとそう言った。
外に飛び出そうとしたその時、腕を引かれる。
「落ち着いてカリナ」
「アサヒ様…………」
アサヒは立ち上がり、カリナに目線が合うように屈むと「誰かアテがあるの?」と冷ややかな視線を向けてくる。「…………う……な、ないですぅ……」カリナは自分の情けなさに涙が出そうになった。
「……じゃあさ、俺にすればいいカリナ」
「え?アサヒ様が?」
「そうだカリナ、今から俺はカリナの彼氏だ」アサヒがカリナの目を見つめる。
「いえいえ!御冗談を!」カリナがケラケラ笑うとアサヒは「………………いや、練習で。恋人の練習をしよう俺たち」と真顔で言った。
「練習でございますか?すみません……カリナはてっきり」カリナは恥ずかしさに頰を染める。アサヒの意図を理解出来ていなかったことが恥ずかしい。
「そ……そうだ」
「そんな……カリナには練習は必要ないです……アサヒ様のお時間が勿体ないので……」カリナはアサヒの優しさに涙が出そうになる。わざわざこんなカリナのために……自ら練習台に!?と、と、とんでもない!
(お気持ちだけいただきます。アサヒ様……立派になられて。カリナはいざとなったら結婚相談所に行きます)
「…………じゃあ俺の練習に付き合ってよ」
「アサヒ様のですか?」
「そう、俺のためならなんでもしてくれるんだろ?頼むよカリナ」アサヒはカリナの手を握って言った。
(アサヒ様の真剣な眼差し……本気でこのカリナに練習台になって欲しいのでございますね!)
「かしこまりましたアサヒ様、このカリナ……立派にアサヒ様の恋人(仮)を務めさせていただきます!」カリナはアサヒを見上げると、握りこぶしを突き上げたのだった。
しつこいようだが……カリナに恋愛経験はない。
――――――――――――――
「おはようカリナ」
翌朝……アサヒは他のお手伝いにあいさつをすませると、カリナのところにやって来た。
「え?アサヒ様……まだお休みになられていても良い時間でございますよ?」カリナはエプロンで手を拭いながら彼に駆け寄ると、そっと顎を親指で摘まれた。
「……自分の彼女が働いているのにグーグー寝てる奴がいるか?」とイケボで言われたカリナは……顔を真っ赤にしてぐにゃぐにゃと危うく崩れ落ちるところであった。
(し……刺激が強いです……!)
「は!?彼女!?」
「カリナと坊ちゃまが!?」
そのセリフを聞いた厨房がざわめいた。
カリナがあわあわしていると、アサヒが「ははは、カリナはかわいいなぁ」と笑って出て行った。
「違うんです……あの、アサヒ様が悩んでらっしゃいまして。あ、ここだけの話ですよ?」あの後たくさんの人に囲まれたカリナは……コソコソと真実を述べる。
「え?何?どうしたのさ?」
ベテランのヤマザキさんが、身を乗り出した。
ヤマザキさんは少し口調は乱暴だがとても温かい女性で、休憩中によく飴をくれる肝っ玉母さん型の女性だ。
実際にも子どもが5人居て、毎日「お金がない」と嘆いている。
「多分……今アサヒ様は大人の恋の難しさに嘆いてらっしゃいます。それであの……偽装の恋人関係なんです。私たち。アサヒ様のスキルアップのための」
「あのアサヒ様が?」
細身で少し神経質そうな女性はナカタさん30代前半位だろう。
2年前にこちらに引っ越して来たらしく、年はカリナより上だけどここの仕事はまだ新米だ。
彼女は非常に繊細なのか「先ほどの返答は間違えたかもしれない」や「なんであんなことをしてしまったのか」と過去の自分を嘆いてばかりいる。恐らく悪い人ではないだろう。
「私からしてみればアサヒ様はおモテになりそうですけれども……」ナカタさんが言葉を選んでいるのか、言葉少なげに言った。
「でもほら、坊ちゃんって少しクールというかね?まあ、大学生だもんねぇ……」
ヤマザキさんは飴を配りながら軽い様子でアサヒに関しての感想を述べる。
「してもあれだよなぁ、俺はてっきり本当に二人が付き合ったんだと思ったでや」北海道出身の厨房長が言った。
ヤマザキさんは顔をしかめながら「本当にデリカシーがないよ」と呆れたような視線を厨房長に向ける。
「…………からかわれてるだけでしょ」カリナより少し年上の厨房担当がポツリとそう言ったので「そ、そうなの。私恋愛経験がないから……多分それでからかわれてると思う。まあ……アサヒ様が満足するまでお付き合いします」とカリナは頭をかいた。
が――――――「……でもお弁当の飾りはハートにしちゃうという」カリナが先ほど作った弁当の蓋を開けて見せると、白米の上にハートに形どられた桜でんぶが乗っていたので、あまりのベタさに厨房にドッと笑いが広がった。
――――――――――――――――
「アサヒ様!いやいや!結構でございます!カリナが運転しますので!」カリナは運転席に乗り込もうとするアサヒを慌てて止める。しかし彼は飄々とした様子で「練習させてよ。運転しないと出来なくなるらしいから……ほら、デートの時に格好つかないだろ」となんのことではない風に言う。
「あ……そ、そうですか。それは失礼いたしました。確かに……彼女とお出かけしたりしますものね」カリナは思う。確かに大学生ともなれば……車でデートしたりもするだろう。
「…………まあ、今はカリナが彼女なんだけどね」アサヒは口の端を上げて、少し自嘲気味に笑った。
「え?あ……そ、そうか!ははは!すみません」カリナはうっかり設定を忘れていた自分が面白くて笑う。
「彼女なら助手席でしょ」
「あ、はい。そうなんですね」恋愛スキルが低すぎるカリナにはわからないことばかり……(情けない……)
カリナは大人しく腰を下ろした。
「こっちの駐車場でいいんですか?遠くありません?」
「……うん」
いつもと違い……裏の駐車場に車を停めるアサヒに、カリナは思わず声を掛けてしまう。
――――が、(あ……そ、そうか!私と一緒に居るのを見られるのは気まずい……!)カリナは偽物の恋人といては結ばれるものも結ばれまい、と一人納得しウンウンと頷く。
「こっちのほうが、カリナ……帰り近いだろ」アサヒはそう言うとカリナの頬にキスをして「じゃあまた後で」と飄々とした様子で車から降りて行った。
カリナの頬にキスをして
カリナの頬にキスを
カリナの頬に
「…………は!」カリナが我に返った頃には――もう1時間程経っていた。カリナは頬に手を当てながら(練習台……恐るべし!)と思った。
――――「こっちのほうがカリナ、帰り近いだろ?」――――
「カリナ?カリナ?」
ヤマザキが何度もカリナの肩を叩いたけれど……カリナはこちらに戻ってくることはなかった。
カリナは先ほどから同じ箇所をほうきで掃きながら……よだれを垂らし続ける疑似恋愛モンスターになったのである。
(アサヒ様……とっても素敵だった。練習台も悪くないなぁ)
「カリナ?さすがに本当にヤバいと思うの」
「…………は!」
カリナはヤマザキに揺すられて我に返る。
「私は今までなにを……!」
辺りを見渡すと……日はすっかり暮れ、洗濯物は畳まれ……掃除が完了していた。
「身体に染み付いた習慣って恐ろしい……でもそろそろ意識を取り戻し、坊ちゃんをお迎えに行きなさいカリナ……おばちゃん達はそろそろドロンしますよ」ヤマザキは人さし指に人さし指を重ねて上下に揺らすとそう言った。
「あ!本当だ!アサヒ様をお迎えに行かなくちゃ!すみませ〜ん!お疲れ様です!」
時計を見て、カリナもヤマザキのポーズを真似ながら玄関から慌てて飛び出した。
「カリナ遅い」
「す、すみませ〜ん!ちょっとぼんやりしてて!」
カリナは駐車場でスマホをいじるアサヒを見つけ……慌てて駆け寄った。
「……まあ、いいよ」アサヒはスマホを仕舞うと「カリナは助手席ね」とつまらなさそうに言う。
「いやぁ……遅れたのに運転していただくなんて申し訳ないといいますか……」カリナはトホホ……と項垂れる。
「遅れて来たんだから言うこと聞いてよ」
「かしこまりました!」
アサヒの強めの口調にカリナは慌てて助手席に座った。
「……何してたの?」
「ちょっと家事の効率が悪く……すみません」座席を調節しながら、少し棘のある口調で責められ……カリナは申し訳ない気分になり――――――
「あら?よく考えたらアサヒ様がお一人で通学した方がよくありません?」
カリナの脳は活性化され、より合理的な方法を導き出してしまったのであった。
「カリナがそうしたいの?」アサヒはミラーを調節しながらカリナに尋ねる。
「アサヒ様、またこうしてお待たせしても申し訳ないですから」カリナはにこやかにそう言った。何よりアサヒの運転はとても上手いのでカリナも安心したという部分もある。
「じゃあ、カリナも敬語やめてよ」
「え?」
「彼女は敬語で話さないでしょ。二次元じゃあるまいし」
「そ、そうです?」
「そうだよ」
「わ……わかった」カリナは頰を染める。
なんだか気恥ずかしい。
「……じゃあ俺も明日からは一人で行くよ。父さんには俺から言っておく」
「なんと頼もしくございます!アサヒ様!」ギアを入れ替えるアサヒにカリナはキラキラした視線を送る。
「……すごいねアサヒとかじゃない?そこは」
「あ!ごめんなさい!すごいね、アサヒ……」カリナは頰を染めて俯く。なんだろう……恥ずかしい。
「くくく……」アサヒが声を殺して笑っているのを見て、カリナは(アサヒ様ったら……やっぱり私をからかっているんだわ!……くそぅ……)と口先をコッソリ尖らせた。
――――――――――――
「アサヒ♡アサヒ♡アサヒ♡おはよう♡ふふ……今に見ていろアサヒ様め……完璧な彼女を演じてやる……」
カリナはその日一晩中、彼女の練習をした。
しつこいようだが彼女に恋愛経験はない。
そうして迎えた次の日――――――
「カリナおはよう」(きたきた!)
カリナは昨夜の練習の成果を全てこのひと言に込めた。
「アサヒ♡おはよう〜……ん?」今朝も余裕な様子で厨房にやってきたアサヒ。彼を振り返るとカリナは顔を覗き込んだ。
少し俯いたアサヒは顔を真っ赤にしているではないか!
「え?アサヒ様!?」
「い……いや、ごめん顔を洗ってくるよ」
カリナは暫しポカンとしたけれど……見間違いだったかも、と再び仕事に戻る。
(え……ええ?)
「アサヒ♡お弁当どうぞ」アサヒに玄関で弁当を渡す。
「…………」
「え?アサヒ様……?」カリナは顔を真っ赤にして動きを止めるアサヒを見上げた。
「大丈夫?調子悪い?」
「い、いや……大丈夫。いってきます」アサヒは弁当を受け取ると、玄関から出て行った。カリナはそんな彼をなんだか不思議な気分で見送った。
アサヒはなんというか……あまり普段から表情筋が動かないタイプなのだ。(アサヒ様大丈夫かしら……)
だからカリナは一日中心配をしておりました……あんなに顔を赤くして、アサヒは体調が悪いのではないか?と――――
「遅かったね」
「……うん、ちょっと買い物」アサヒは玄関で靴を脱ぎながら紙袋を持ち上げてカリナに見せた。
「いいですね」カリナはふと……次の休みに買い物に行こうかな〜と考えた。
靴下も可愛いのが欲しいし、下着だってだいぶくたびれてしまっている。
「何買ったか気にならないの?」アサヒはガサガサと袋の中で恐らく梱包を解いているのだろう。
「アサヒ様のプライベートな部分ですから」
「……今カリナは俺の彼女でしょ?彼女なら気にするもんだよ」アサヒはそう言って、カリナの目の前で時計を手のひらに載せた。
「時計を買われ……買ったの?」
「そう」アサヒはそれをカリナの手首に巻く。
「え?なに?」
「プレゼントだよカリナに」
「え!?こんな高いものいただけません!」カリナは目を丸くした。
「彼女だからね。設定してあげる」アサヒはカリナにスマホを出すように言って、それを操作している。
「…………それにさ、こういうのは『なんで勝手に選ぶの?』って言わなきゃいけないし、素直にスマホを渡さないもんだ」
カリナはキラキラした目で、自分好みの色のスマホ連携型時計を眺めていたけれど……「アサヒ様が選んでくださったものが私の欲しいものでございます!スマホの件はアサヒ様のお願い事は全て受け入れるように申し使っております!そしてこんな……本当にありがたき幸せ」カリナはアサヒに向かって敬礼をした。
(ああ……彼女って素晴らしい!彼女の任務最高だわ!)
――――――――――――――――――
「カリナ今日休み?」
「は……うん、休みだよ♡」休み当日……玄関で会ったアサヒにそう尋ねられ、カリナは素直に言った。
今日はちょっと久しぶりにお買い物に行こうかな〜なんてカリナは思っていたのだ。
「…………どこ行くの?」アサヒは俯きながらそう言った。
「お買い物」
「誰と?」
「え!?…………ひ、一人です。すみません……なんだか悲しい休日で……」カリナはガバリと顔を上げたアサヒの尋問めいた質問に……眉を下げた。
カリナには現在……特に親しくしている友人等はおらず、基本的にぼっちの休日を毎回エンジョイしていたのだが……(こうして改めて指摘されると……辛い!)
「……俺もこれから出かけるんだけど一緒に行かない?」
「え?いえいえ!そんな……アサヒ様のお邪魔になってしまいますゆえ!カリナは一人で大丈夫です」カリナはアサヒの優しさに……なんだか申し訳ない気分になる。
(アサヒ様……!さすがイナリ家の次期当主……!!素晴らしいお気遣いと優しい御心……カリナは涙が出そうでございます…!!)
「カリナは今俺の彼女だろ?デートしに行こうよ」
アサヒはなんということはないように飄々とそう言うと、カリナの手を引いた。
「え?デ、デートでございますか?」
「男女が出かけるとデートだ」
「今日は何を買う予定だったの?カリナ」電車内、吊り革に身を委ねながらアサヒがこちらを見ている。
爽やかな笑顔が眩しい。
「あ……あはは、あのぅ……下着と靴下を」
「……え?」
(キャー恥ずかしい……!すみません所帯じみていて……!)
少しの沈黙に……カリナはアサヒが呆れているに違いない、とちらりと視線を送ると彼は顔を真っ赤にしていた。
「え?アサヒ様!?大丈夫ですか?」
「だ……大丈夫……」アサヒは吊り革を両手で掴むと顔を隠すように窓の外を見た。
「いやぁ……お恥ずかしい。今日はアサヒ様のお好きなところに参りましょう!カリナはまた次の休みに行きます!お供させてください!」
「いや、大丈夫だよ。カリナが嫌じゃなかったら付き合うよ」
(とは言われましたが……)
カリナはさすがに下着は自粛して、靴下を買いに行くことにした。
「俺、後で参考文献買いに行くからカリナも行きたいところがあればそこにいきなよ」アサヒはカリナが後で一人、下着を買いに行きやすいようにしてくれたのだろう。
(ああー!素晴らしい……素晴らしすぎますアサヒ様!)
「うん、ありがとう」
「手繋いでもいい?」アサヒはカリナにそう尋ねる。
「え?あの……カリナは手汗がすごく」
「大丈夫だよ」カリナがもじもじしていると、アサヒが手を握った。
アサヒの大きな手に包まれて……カリナは思った。
(こ……これがデート……!)と――――
「段差あるよ」
「大丈夫ですアサヒ様!私に死角はございません!さ、こちらへ……お気を付けください」少し段差のある道……カリナはアサヒより先にその段差を越えると彼を引き上げるように手を引いた。
「カリナ、君は今俺の彼女だから。そういうのは俺がやる」
「あ、職業病が。ごめんなさい……これでは練習になりませんよね」
アサヒはしょんぼり落ち込むカリナの指に指を絡ませるように握り変えると「こうした方が恋人っぽい」と口笛を吹くように言った。
カリナは心臓が足りない……と思う。
たった一つのポンプでは……この鼓動を補えない気がする。それくらい彼女は今、ドキドキしていた。
(ああ……!アサヒ様!なんでしょうこれは!これが彼氏……!アサヒ様はもう練習なんていらないのでは!?)
――――――――
「カリナってそういう柄好きだよね」
「あのぅ……買ってもらってしまい、本当にいいので…………いいの?」カリナは靴下が入った紙袋を掲げてアサヒを見上げた。
「いいよ、彼女だろ?」
「……いやぁ、すみません。ありがとうございます」カリナは彼女という立場の素晴らしさに、思わず眉を下げた。
(恐るべし彼女……!靴下も買ってもらえちゃうとは!)
「でもなんで心臓?」
「これは今の私にとても重要なものだから……」カリナは蛍光イエローにたくさんの心臓が散りばめられた靴下と、その他臓器シリーズの靴下をゲットしていた。
「こんな所初めて入りまし……入ったよ」
「……ふーん……」
カリナは素敵な雰囲気のカフェで、メニューを眺めながら感動していた。(アサヒ様……!こんな素敵な場所をご存じだなんて……!立派な男性になりました……きっと本当の彼女もお喜びになられることでしょう……!)カリナはきっとアサヒには今までたくさんの出会いがあったに違いないと思う。
高校だって共学だった。
こんな素敵な場所を知っているなんて……
こんなカリナと練習をしてまで手に入れたい女性は果たしてどんな女性なのだろうか?
「アサヒ様のお好きな女性は同じ大学にいらっ……いるの?」
「…………俺の好きな人はカリナだよ」
アサヒの言葉にカリナは注がれるお茶を眺めながら笑ってしまう。そうだ、確かに今のアサヒはカリナが好きなのだ。
「あはは、そうでしたね」
「カリナは?」
「はい、私も今はアサヒ様が好きです」カリナはそう答えると、なんだか胸が苦しくなった。そう言えば自分の好きな人って誰なんだろう……好きな人って居たことあるのかな……とカリナは頭をグルグルさせた。
そうするとふと……アサヒの顔が浮かぶのでカリナは(……雇い主の御子息様!雇い主の御子息様!)とその邪な心を振り払うのだった。
カリナは気付いていない……アサヒの視線の意味を。(はははは、今はいい。カリナ……君には絶対絶対に俺の事を好きになってもらうからな!その為には俺は手段さえ選ぶまい……!練習?そんなもので終わらないぞ俺は!カリナは呑気だからこのままズルズルと結婚に繋げることも可能なはずだ!!)
アサヒはカリナのことが小さい頃からずーっとずーっと好きだった。でもカリナはのらりくらりとそれを躱し、自分を弟のようにしか見てくれないのだ。
(カリナったら……アサヒ様はあくまでもご主人様で……)
(カリナ!俺は君のことがす、す、すすすす……いや、愛してるカリナ……)
はるか昔からの二人のすれ違いはこれからも続く――――――――




