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クズ王子の婚約者ですが、地獄の再教育で性根を叩き直すことにしました

作者: くるり
掲載日:2026/02/13

「……というわけで、エドワード殿下。今期の国庫予算案のうち、王宮のバラ園の維持費を三割カットし、その分を孤児院への教育支援金に充てるよう調整しておきましたわ」


公爵令嬢ラナーシャは、完璧な所作で紅茶を一口啜り、机の上に分厚い書類を置いた。

その仕草は優雅そのものだが、瞳には一切の容赦がない。

前世で国の福祉政策を支えてた彼女にとって、国家予算の無駄を省くなど、朝飯前の事務作業に過ぎなかった。


「………は?」


対面に座る第一王子、エドワードは、口に含んだ高級菓子をポカンと落とした。

絹のような金髪に碧眼。

顔立ちは確かに「国宝級」だが、中身は驚くほど空っぽである。


「ラナーシャ、お前……また勝手に私の楽しみを削ったのか! バラは王族の心の滋養だぞ! それをなんだ、どこの誰とも知れぬガキ共に文字を教えるだと? 卑しい、卑しすぎる!」


「『卑しい』……。殿下、その言葉、そのままお返しいたしますわ」


ラナーシャは扇で口元を隠し、冷ややかな視線を向けた。


「昨夜、お忍びで高級カジノ『金色の羊亭』へ出向かれましたわね? そこで失ったチップ一枚で、下町の子供たちが一ヶ月どれだけパンを食べられるか。……いえ、算数が苦手な殿下に計算を求めるのは酷でしたわね」


「なっ……! き、貴様、監視しているのか!?」


「『管理』と呼んでいただきたいですわ」


エドワードは顔を真っ赤にして立ち上がった。

「うるさい! 私は王子だぞ! この国の宝だ! 堅苦しい説教など聞きたくない! マリアを見習え、彼女はいつだって『殿下は太陽のようですわ』と私を全肯定してくれる!」


マリア。それは、最近エドワードの傍に侍っている子爵令嬢だ。

「殿下はそのままで素晴らしいのです」と耳元で囁き、彼の放蕩を加速させている、毒入りの砂糖菓子のような女。


「太陽、ですわね。……ええ、確かに今の殿下は太陽のようですわ。

周りにいるすべてのものを、その熱(傲慢)で干からびさせて殺してしまう、凶作の象徴のような太陽です。」


「き、貴様ぁぁ!!」


エドワードが吠える。

だが、は動じない。

彼女は優雅に立ち上がると、ドレスの裾を払った。


(……あーあ。今日もやっぱりダメだったわね。話してわかる相手なら、苦労はしないわ)


ラナーシャは王宮の回廊を歩きながら、静かに拳を握った。

彼女の脳内には、王宮の豪華な廊下ではなく、下町の路地裏にある、温かな出汁の匂いが漂う小さな食堂の光景が浮かんでいた。


(……よし、決めた。言葉でわからないなら、胃袋と筋肉で叩き直すしかないわね)


「お玉とフライパンの準備をしなきゃ。……待ってなさい、バカ王子。明日からあなたの人生、一変させてあげるから」


完璧な令嬢の唇が、不敵に吊り上がった。





ラナーシャが公爵家の至宝として、そして「王国の頭脳」として期待を背負ったのは、彼女がようやく言葉を話し始めた頃からだった。


五歳の誕生日に贈られた、精巧なドールハウス。

普通の令嬢なら「おままごと」に興じるところだが、ラナーシャはその模型をじっと見つめ、翌日には父である公爵に『公爵邸の排熱効率と家事導線の改善案』を提出した。


「お父様、キッチンの熱を廊下に逃がす魔法回路が非効率ですわ。

これでは夏場は熱がこもりますし、冬場は薪の消費が二割も無駄になります。

……あ、ついでにそこのメイドのミナさん、あなたは少し腰を落として掃除したほうが効率的ですよ。腰痛の予防にもなりますわ」


五歳児の口から飛び出した、あまりにも具体的で血の通った「改善案」。

公爵は持っていたティーカップを落とし、メイドたちは「ラナーシャ様……!」と感動の涙を流した。


この日から、公爵邸におけるラナーシャの言葉は「神の啓示」と同義となったのである。


舌足らずな声で語られる、あまりにも論理的なコストカット。

公爵は驚愕したが、試しに娘の言う通りに改修したところ、邸の運営費が劇的に減少した。


七歳になれば、家庭教師が泣いて逃げ出した。

「教えることがありません! ラナーシャ様は、私が三日かけて解く高次魔導数式を、おやつのクッキーを食べながら暗算で片付けてしまわれるのです!」


彼女の瞳はいつも、子供らしい夢ではなく、現実の数字と構造を見つめていた。

前世で、国の福祉政策を支える若きエリート官僚だった記憶。

それが、この異世界で彼女を「神童」へと押し上げたのだ。


十歳になる頃には、彼女は父の代理として、領地の新産業——廃棄される羊毛を再利用した『断熱材』の流通——を成功させていた。

だが、彼女が本当に変えたかったのは、領地の帳簿の数字だけではない。


「……お父様、この断熱材の売り上げの三割を、私の自由にさせていただけますか?」


「三割? 相当な額になるぞ。何に使うつもりだ、ラナーシャ」


「『投資』ですわ。この国の未来を、安売りしないための」


彼女が始めたのは、公爵家の名前を一切出さない、市井の『孤児院(兼こども食堂)』だった。

最初は、領都の隅にある古い空き家を買い取り、孤児やお腹を空かせた子供に料理を振る舞うだけの小さな試み。

しかし、ラナーシャはそれを単なる「施し」では終わらせなかった。


「タダで食事を出すだけでは、彼らから自立の心を奪いますわ」


彼女は前世の知識を活かし、孤児院の裏に小さな菜園を作らせ、子供たちに「収穫の手伝い」という役割を与えた。

さらに、断熱材の工場から出る端切れを使い、子供たちに簡単な手袋や帽子などの『防寒用の小物』を作らせて販売するルートも構築した。


「食事(福祉)」を与え、「教育(技術)」を授け、「仕事(経済)」を回す。


ラナーシャが十代前半で構築したこの「小さな循環」は、またたく間に成果を上げた。

彼女の孤児院(兼こども食堂)に通う子供たちは、スラムに落ちることなく、職人街の見習いとして次々に巣立っていったのである。


「領民を飢えさせない。そして、彼らに誇りを持たせる。それが貴族の最低限のマナーですわ」


そんな彼女が、十八歳になり、国を揺るがす「最大の問題児」の婚約者に指名されたのは、ある意味で必然だった。


国王は、贅沢三昧の我が子を更生させるために、自力で社会構造を再構築してしまった最強の『劇薬』を、王室という名の末期患者に投入したのである。





深夜、王都のメインストリート。

魔導具の街灯が煌々と照らす大通りを、第一王子エドワードは上機嫌で歩いていた。


「ふふ、自由だ! マリアとの甘い時間、カジノのスリル……。しつこい護衛を撒くのは骨が折れたが、やはり私は天才だな!」


彼は、自分が「お忍び」のつもりで顔を隠しもせず、高価な刺繍の入った外套をなびかせていることに気づいていない。

これでは「誘拐してください」と言っているようなものだが、ここは治安のいい王都。

誰も王子に手を出す者などいない——そう信じて疑わなかった。


その時だ。


「……殿下。夜遊びにしては、少しばかりお行儀が過ぎるようですわね」


背後から聞こえた冷徹な声に、エドワードの肩が跳ねた。


「え……ラナーシャ!? な、なぜお前が――」


振り返ろうとした瞬間。

ラナーシャは、いつもの華やかなドレス姿ではなく、動きやすい革の胸当てとズボンに身を包んだ「実戦仕様」で、王子の襟首をガシッ!と掴んだ。


「な、なんだ貴様! 放せ! ここは大通りだぞ!」


「騒がないでいただけます? 周りには『酔っ払った弟を連れ戻す姉』に見えるよう、カモフラージュの魔法をかけてありますわ。……さあ、こちらへ」


「うわあああ!? 引っ張るな! 腕が抜ける!」


ラナーシャは信じられないような膂力(生活筋)で、じたばた暴れる王子を、大通りから暗い路地裏へと一気に引きずり込んだ。


「ひっ、ひどい……! 汚い! 靴が汚れるだろうが!」


「靴の心配より、ご自分の将来の心配をなさい。……強制執行のお時間です」


「な、なにを……う、動けな……」


ラナーシャの指先が、王子の首筋のツボを鋭く突く。

膝をついたエドワードの頭から、彼女は手際よく「ジャガイモ搬送用」の麻袋をズボリと被せた。


「もがっ!? んぐっ、ふぉあ!?(放せ、不敬だぞ!)」


「不敬? いいえ、これは『更生プログラムへの強制参加』ですわ。不法投棄されていた『クズ(王子)』を、たった今回収いたしました」


麻袋の中で「もがもが」と暴れるエドワードを、ラナーシャは片手で軽々と担ぎ上げる。

その姿は、高貴な令嬢というよりは、獲物を仕留めた熟練の狩人のようだった。


「んぐっ! むがーっ!(放せ! 殺される! どこへ連れて行く気だ!)」


袋越しに聞こえる悲鳴に近い叫びに、ラナーシャはふっと冷たい微笑を浮かべ、袋の横をポンポンと優しく叩いた。


「安心なさってください、殿下。私がこれからお連れするのは、温かい食事と笑顔の溢れる、素晴らしい教育施設ですわ。……ああ、そうそう。言い忘れていましたけれど」


ラナーシャは、袋の中の王子には見えないはずの、底冷えするような笑みを夜道に投げかける。


「――前世の知識にある『某ヨットスクール』に放り込まれないだけ、マシだと思いなさいな。あちらは、今の私よりずっと『情熱的』な指導で有名でしたから」


「んぐ!?(よ、よっとすくーる……!?)」


聞いたこともない単語の響きに、本能的な恐怖を感じたのか、袋の動きがピタリと止まる。


「さあ、行きましょう。明日の朝食の仕込みは、あなたの『皮剥き』から始まりますわよ」


月光に照らされた路地裏を、麻袋を担いだ令嬢が悠然と歩いていく。

この日、王国の歴史が(物理的に)大きく動いたことを、まだ誰も知らない。





麻袋から引きずり出され、孤児院の冷たい床に転がされたエドワード王子。

彼は髪を振り乱し、必死に指を突き出した。


「ラナーシャ、貴様ぁ! これがどれほどの不敬罪か分かっているのか! すぐに近衛兵が来るぞ、父上もお前を許さないはずだ!」


するとラナーシャは、返り血(返り泥)一つ浴びていない優雅な動作で、懐から一通の羊皮紙を取り出した。そこには、燦然と輝く王家の紋章と、現国王の直筆署名。


「残念ながら、殿下。陛下からは『全権委任』を承っております。ここに書いてありますわよ?――『息子を人間にできるなら、多少の損傷は問わない。ラナーシャの言葉は私の言葉と思え』と」


「……なっ、ち、父上が……そんな……」


「さらに、殿下の捜索願は今後一ヶ月、受理されないよう手配済みです。今、表向きのあなたは『重い流行り病で離宮にて静養中』ということになっていますわ」


エドワードの顔から血の気が引いていく。

王宮という後ろ盾を、実の父親によって完全に断たれたのだ。


「さあ、言い訳の時間は終わりです。某ヨットスクールよりはマシな環境で、しっかり『人間』になっていただきましょうか」


ラナーシャは、キンッ、とお玉を指先で弾いた。


「まずはその汚れきった顔を洗ってきなさい。……お湯? そんな贅沢、あるわけないでしょう。あそこの井戸水を使いなさいな。大丈夫、泥水の味は意外と苦くないですから。……後の幸せのために、ね?」





翌朝。 エドワード王子が目を覚ましたのは、ふかふかの天蓋付きベッドではなく、硬い木のベンチの上だった。


「……う、うう……。身体が痛い。喉も渇いた……おい、誰か。誰かいないのか!」


王宮なら、声を上げれば侍女たちが飛んできて、最高級の果実水と温かいタオルを差し出すはずだ。

しかし、返ってきたのは、脳天に響くような「カーン!」という甲高い音だった。


「やかましいわよ、殿下。ここは王宮じゃなくて『食堂』です。働かない者に飲む水はありませんわ」


目の前には、すでにエプロンを締め、巨大な鍋に火をかけているラナーシャが立っていた。

彼女の足元には、土がついた大量のジャガイモが山積みになっている。


「さあ、起きて。まずはそのジャガイモの皮を、すべて剥いていただきますわ」


「な……な、なんだこの泥の塊は! 私にこんな卑しい作業をしろと言うのか!」


「卑しい? 食材に貴賤きせんはありません。あるのは『食べられるか、食べられないか』だけです」


ラナーシャは冷たく言い放つと、お玉で足元の山を指した。


「今日の朝食はジャガイモのガレットとスープ。あなたが剥かないと、ここにいる子供たちの朝ごはんがなくなるんです。ほら、始めなさい」


エドワードが絶望に打ちひしがれながら、泥臭いジャガイモと格闘し始めた時だ。


「……ねえ、お姉ちゃん。このおじさん、何してるの?」


ひょっこりと顔を出したのは、こども食堂の常連である六歳の少年・レオだった。

その後ろには、数人の子供たちが興味津々な様子で並んでいる。


「このおじさんはね、今日からここで修行することになった『見習い』さんよ。みんな、挨拶して」


「「「おねがいしまーす!」」」


子供たちの元気な声が、王子のプライドに突き刺さる。

エドワードは震える手でナイフを持ち、不器用にジャガイモを削り始めた。

だが、慣れない作業のせいで、剥くというより「ジャガイモをどんどん小さく削っている」状態だ。


「あーっ! おじさん、それじゃ食べるところがなくなっちゃうよ!」


レオが叫んだ。


「ダメだよおじさん! 皮だけを薄く剥くんだよ。……えっ、もしかして、ジャガイモも剥けないの?」


「……なんだと!?」


「あはは、ほんとだ! 迷子のおじさんかと思ってたけど、ジャガイモも剥けないなんて、赤ちゃんみたい!」


「赤ちゃんだー! 大きな赤ちゃんがジャガイモいじめてるー!」


「き、貴様ら……! 私はこれでも王子……」


「はいはい、口を動かさないで手を動かして」


ラナーシャが、ピシャリとお玉で机を叩いた。


「レオくんの方がよっぽど上手ですわよ。さあ殿下、子供たちに笑われたくなければ、集中しなさい。朝食までにその山が終わらなければ、あなたの分のご飯は『ジャガイモの皮の素揚げ』だけですからね」


「……っ、そんな……! 私は……私は第一王子なんだぞ……!」


涙目でジャガイモと格闘するエドワード。

その背中に、子供たちの「おじさん、がんばれー!」「剥き方、レオくんに教えてもらいなよー!」という無慈悲な応援が降り注ぐ。


前世で、数々のダメな組織を立て直してきたラナーシャは、その様子を冷徹かつ満足げに眺めていた。


(ふふ。プライドを折るには、格下だと思っている相手に正論をぶつけられるのが一番効くのよね。某ヨットスクールの鬼コーチも、きっと今の私を見て頷いているはずだわ)


こうして、王子の「地獄の人間更生キャンプ」の幕が上がったのである。





「……終わった。終わったぞラナーシャ! 全部剥き終わった!」


エドワードが叫んだ時、食堂の窓からは朝日が差し込み、ちょうど開店準備が整ったところだった。

彼の目の前には、不揃いながらも白く輝くジャガイモの山。

指先はアクで真っ黒、膝はガクガク。

それでも、やり遂げたという奇妙な高揚感が彼を包んでいた。


「お疲れ様。では、すぐに焼き上げますわね」


ラナーシャは手際よくジャガイモを千切りにし、鉄板の上でパチパチと音を立ててガレットを焼き上げた。


「さあ、召し上がれ。あなたが自分で皮を剥かなければ、この世に存在しなかった『朝食』ですわ」


差し出されたのは、表面がカリカリに焼けた黄金色のガレットと、クズ野菜を煮込んだ熱々のスープ。 王宮の朝食なら、温めた銀器に盛られたオムレツや、焼き立てのクロワッサンが並ぶはずだ。

だが、今の彼には、この質素な一皿が何よりも神々しく見えた。


(……腹が、減った。死ぬほど減った……)


エドワードは震える手でガレットを掴み、そのまま口へ放り込んだ。


「……っ!?」


外側の香ばしさと、中のホクホク感。

そして、自分で泥を落としたジャガイモの甘みが、空っぽの胃袋に染み渡っていく。


「……な、なんだこの料理は。……味が、薄いぞ。塩気が全然足りない。王宮のシェフなら、もっと最高級の岩塩を使って……」


強がりの言葉を吐きながらも、エドワードの目からは大粒の涙が溢れ、ガレットの上にポタポタと落ちた。


「……マリアなら、こんなものは出さない。もっと、甘いお菓子のような……ぐすっ。……なのに、どうしてだ。どうしてこんなに、止まらないんだ……っ!」


「それは、あなたが自分の手で『価値』を生み出したからですわ」


ラナーシャが冷たく、しかし静かに告げる。

エドワードは涙を拭いもせず、無我夢中でガレットを口に詰め込んだ。


「……ふん! やっぱり味が薄い! 味が薄すぎて……涙の味しかしないじゃないか……!」


(……嘘だ。本当は知っている。これが、泥水をすするような思いをして働く民たちが、毎日食べている『命の味』なんだと……)


「おじさーん! やっぱりお腹空いてたんだね! 泣きながら食べるなんて、レオの弟と同じだー!」

「本当だ! おじさん、おいしい?」


子供たちの無邪気な声に、エドワードは皿を抱え込んで背を向けた。


「うるさい! 調査だと言っているだろう! 調査が終わるまで、私に話しかけるな!」


そう叫びながらも、彼は最後の一欠片まで大切に口に運んだ。

ラナーシャはそっとお玉を置き、時計を確認する。


「さて、朝食が終わったら次は仕込みと掃除ですわ。……殿下、あの施設では、食事の後の片付けを怠る者は海に放り込まれたそうですわよ?」


「……っ! やってやる、やってやればいいんだろう! 皿でもなんでも持ってこい!」


かつて「卑しい」と切り捨てた民の暮らしの中に、エドワードの「心」が少しずつ、しかし確実に着地した瞬間だった。





「……ひ、ひぃ、ひぃ……。床を磨くのが、これほど重労働だとは……!」


朝食後。エドワード王子は、雑巾を手に食堂の床を這いつくばっていた。

「床に顔が映るまで磨くのが基本ですわ」というラナーシャの無慈悲な指示のもと、慣れない姿勢で腰を痛めている。


かつての豪華な刺繍の入った外套は、初日にラナーシャに「邪魔よ」と剥ぎ取られ、今はどこかの古着屋でパン代に変わっている。

今の彼が纏っているのは、誰が着たかもわからぬゴワゴワした麻の服。

爪は割れ、膝は泥で黒く汚れ、かつての「国宝級」の面影はどこにもない。


(……助けてくれ。誰か、私をここから連れ出してくれ……!)


彼が心の中で悲鳴を上げた、その時だった。

食堂の開いた窓の外、路地の影に「見慣れた紋章」を刻んだ魔道具がキラリと光るのを、彼は見逃さなかった。


(……! あの隠密のサインは、父上直属の『影』! 助けが来たんだ!)


エドワードはラナーシャが奥の厨房へ入った隙を見計らい、雑巾を放り出して窓際へ駆け寄った。


「おい! 私だ! エドワードだ! すぐに私を救出し、あの公爵令嬢を捕らえろ! 私はここで酷い虐待を……」


小声で必死に訴えかける王子。

しかし、壁の影から現れた隠密は、憐れみすらこもっていない冷徹な声でこう告げた。


「……殿下。陛下より伝言を預かっております。『お前は今、重い流行り病で離宮にいることになっている。もしそこから逃げ出せば、それは王族としての身分を捨て、野垂れ死ぬことを選んだものと見なす』……と」


「な……!? 父上が、そんなことを言うはずがない! 冗談だろう!」


「以上です。……ああ、それとラナーシャ様。陛下より、追加の教育費としての寄付をお預かりしております。どうぞ、有意義にお使いください」


隠密は王子の絶望に満ちた顔を一瞥もせず、厨房から顔を出したラナーシャに恭しく一礼すると、霧のように姿を消した。


「ま、待て! 行くな! 私を見捨てるのかぁぁぁ!!」


「……叫んでも無駄ですわよ、殿下。今のあなたを助ける者は、この国のどこにもおりません。あなたが『王子の特権』を甘受するだけで、何の義務も果たしてこなかったツケですわ」


ラナーシャはお玉を肩に担ぎ、冷たく笑った。

「さあ、雑巾が止まっていますわよ。次はトイレ掃除ですわ」


エドワードは、泥水のような絶望の中に、ひとり取り残された。





その頃、王宮では――。

主のいないはずの王子の私室で、子爵令嬢マリアが贅沢な寝椅子に深く腰掛け、高級な砂糖菓子を頬張っていた。


「あら、殿下ったらまだ『離宮でお休み』なんですのね。おかげで、わたくしの思い通りですわ」


彼女の目の前には、数人の汚職貴族たちが卑屈な笑みを浮かべて並んでいる。


「マリア様、殿下の名代として承認をいただき、感謝いたします。これで我が領地の『バラ園維持税』の増税案が通りますな。……もちろん、マリア様への献金も上乗せさせていただきますぞ」


「ふふ、よろしくてよ。殿下はわたくしが『太陽のようですわ』と言えば、中身も見ずにサインしてくださるんですもの。今回も『殿下の威光を広めるための税です』と言えば、疑いもしませんわ。」


マリアは、王子の印章ハンコを玩具のように弄びながら、不敵に目を細めた。


「ラナーシャのような小難しい女、殿下も嫌気がさしているはずですわ。あの方が戻ってくる頃には、この国の金はすべてわたくしたちのもの。……あとのことは、あの『お飾り王子』に責任を押し付けて、わたくしたちは隣国へ高飛びすればいいのですものね」


悪徳貴族たちの下卑た笑い声が、豪華な部屋に響く。 彼らはまだ知らない。


自分たちが「お飾り」だと思っている王子が、今、下町の路地裏でラナーシャによる苛烈な再教育を受け、史上最強の「粛清者」に生まれ変わろうとしていることを。





王宮から隠密を通じて届いた、マリアたちの「増税案可決」の知らせ。

ラナーシャはその書類を一瞥し、冷ややかに微笑んで火の中に投じた。


「……まだですわ。今これを殿下に知らせても、ただ王宮へ駆け込んで喚き散らすだけ。それではマリア様の甘い声に言いくるめられて終わりです」


ラナーシャは窓の外で、慣れない薪割りに悲鳴を上げているエドワードを見た。


「殿下には、その『税』の一滴が、どれほどの汗と涙でできているか、骨の髄まで理解していただかなくては」


それからの1ヶ月、ラナーシャの「更生プログラム」は苛烈を極めた。





「今日から一ヶ月、あなたを『一人の人間』として叩き直しますわ。できない時は……そうね、某ヨットスクールを元にした『ラナーシャ・ブートキャンプ』の特別メニューが待っていると思ってください」


ラナーシャが掲げたのは、分刻みのスケジュール表だった。


【第一週:プライドの破砕と筋肉痛】

最初の七日間、エドワードはただの「動けない置物」だった。 朝四時の薪割りでは、斧の重さに振り回されて尻もちをつき、井戸からの水汲みでは、バケツを運ぶ途中で足がもつれて泥まみれになった。


「腕が……腕が動かん……。指にマメができて、感覚がないんだ……。ラナーシャ、もう許してくれ……」


「マメができるのは、無駄な力が入っている証拠ですわ。ほら、休んでいる暇はありません。子供たちが朝食を待っています。動かないなら、そのお尻にお玉を叩きつけて熱い洗礼を授けますわよ?」


ラナーシャは一切の容赦をせず、彼の甘えを叩き潰した。夜、泥のように眠る王子の耳に届くのは、王宮の絹のシーツの擦れる音ではなく、遠くで聞こえる野良犬の遠吠えと、自分の荒い吐息だけだった。



【第二週:『一銭』の重みと市場の洗礼】

二週目、ラナーシャは彼を市場へ連れ出した。ボロボロの労働着を着た王子に、彼女は銅貨数枚を握らせた。


「今日のスープの具材を、この予算内で最高のものを選んで買いなさい。一銭でも無駄にしたら、あなたの夕食は抜きですわ」


エドワードは困惑した。これまでの彼にとって、金は「あるのが当たり前」のもの。

しかし、市場の商人たちは、身なりの汚い彼を「王子」とは見なさない。


「兄ちゃん、冷やかしなら帰んな! 銅貨一枚でこの肉が買えるわけねえだろ!」


怒鳴られ、突き飛ばされ、彼は初めて知った。

自分がこれまで「王子」という看板なしには、リンゴ一つまともに手に入れられない無力な存在であることを。

彼は泥臭い交渉を学び、頭を下げ、ようやく手に入れた歪な人参を、宝物のように抱えて孤児院へ戻った。



【第三週:味覚の目覚めと『出汁』の深淵】

三週目、エドワードはついに包丁を握り、火の前に立つことを許された。

ラナーシャは彼に、王宮の贅を尽くしたソースではなく、「捨てられるはずの食材」から味を引き出す方法を教えた。


「魚の頭、野菜の皮、肉の脂身……。捨てればゴミですが、知恵を絞れば最高の『出汁』になります。政治も同じ。切り捨てるのは簡単ですが、活かすのが真の統治者ですわ」


エドワードは、自分が剥いた野菜の皮で取ったスープを一口飲んだ。

「……美味い。……ラナーシャ、これ、本当に皮なのか?」

「ええ。あなたの『手間』という魔法がかかっていますから」



【第四週:『おじさん』への昇格と、真実の告知】

四週目、エドワードの身体は見違えるように引き締まった。

薪割りで鍛えられた背筋は真っ直ぐに伸び、瞳からは淀みが消えた。

彼はもう、子供たちに「迷子の赤ちゃん」とは呼ばれない。


「おじさん、今日のスープ、今までで一番うまいよ!」

「ありがとう、レオ。……火加減を少し変えてみたんだ」


子供と笑い合い、自分の手で誰かを満たす喜びに、彼はかつてない充足感を感じていた。





そんな、ある夜のこと。

営業を終え、お玉を丁寧に磨き上げていたエドワードに、ラナーシャが静かに一通の書状を差し出した。


「……ラナーシャ、これは?」


「……一ヶ月前、あなたが薪割りを始めたその日に可決された、増税の決定書ですわ。……内容を、読みなさい」


エドワードは、その文字を追った。

【王宮バラ園の拡充、および第一王子婚約者候補・マリア嬢の慈善事業支援のため、下町の取引税を三割増税する】


「――っ!!」


三割。


それは、今の彼ならわかる


「……な、なんだこれは……。三割!? 三割も引かれたら、レオたちは冬を越せない! あの市場の婆さんだって、店を畳まなきゃいけなくなる!」


エドワードは震える手で書類を握りしめた。

かつての彼なら「三割くらい、贅沢をやめればいいだろう」と思ったかもしれない。

だが、今の彼には分かる。

その三割を捻出するために、民がどれほど食事を削り、どれほど身を粉にして働かなければならないのかを。


「……マリア。お前は……私の名を使って、この子たちを殺そうというのか……!」


エドワードの拳が、みしりと音を立てて握りしめられた。

その瞳に宿ったのは、ただの怒りではない。

守るべきものを知った男の、静かなる「闘志」だった。





「……ラナーシャ。私は、この子たちの『家』を守らなければならない」


エドワードは、増税案の書類を握りしめ、静かに、だが地を這うような低い声で言った。

彼の視線の先には、身寄せ合って眠る孤児たちの姿がある。


「……マリアは、慈善事業と称してこの孤児院への支援金をカットし、自分のドレス代に変えた。それどころか、私の名を使って彼らから最後の一銭まで毟り取ろうとしている」


エドワードは、一ヶ月間使い込み、自分の手に馴染んだ「鉄のお玉」を力強く握りしめた。


「私はもう、あの温室のバラではない。……泥の中で学んだ。守られる国ではなく、守る国の重さを」


気炎を吐くエドワード。しかし、ラナーシャはその泥に汚れた麻の服を冷静に見つめた。


「意気込みは良しとしますが、殿下。その格好で王宮の門を叩けば、不審者として捕らえられて終わりですわ。……それに、一ヶ月分の『修行の証(汚れ)』を、一度綺麗さっぱり洗い流していただく必要があります」



孤児院の裏手から、公爵家の隠密が手配した馬車に乗り込み、二人は王宮のほど近くにある「公爵家のタウンハウス」へと滑り込んだ。

ここは、ラナーシャが万が一の事態に備えて、一ヶ月前から「いつでも出陣できる状態」に維持させていた拠点である。


「殿下、あちらの浴室へ。使用人がすべて用意しております。……私は、あちらの部屋で『公爵令嬢』に戻らせていただきますわ」


エドワードは、一ヶ月ぶりに浴びる熱い湯に身を沈めた。

石鹸で洗い流されるのは、単なる泥ではない。

かつての傲慢で無知だった自分という「垢」だ。鏡に映った自分の体には、薪割りや水汲みで培われた、本物の筋肉が刻まれていた。


一方、別の着替え室では――。


「……ミナ、もっときつく。……ええ、それくらいよ。今夜の私は、一切の妥協も許さない『鉄の女』として立ち振る舞わねばならないのですから」


侍女二人がかりでコルセットを締め上げ、重厚なシルクのドレスを纏う。

一ヶ月、孤児院の土間で「姉御」として振る舞っていたラナーシャの瞳が、鏡の中で、冷徹な統治者の光を宿していく。

髪を複雑に編み込み、最高級の香水を一吹き。

仕上げに、陛下から預かった「全権委任」の証たる印章を、白雪の扇の房飾りに忍ばせた。


準備を整えた二人が、邸のホールで合流する。


そこには、軍礼装に身を包んだ、覇気溢れるエドワードが立っていた。

かつての青白い顔色は消え、日焼けした肌と引き締まった顎のラインが、彼を「美しい飾り物」から「一国の指導者」へと変貌させている。


「……見違えましたわね、殿下。……いいえ。今のあなたは、私が一ヶ月かけて磨き上げた『最高傑作』ですわ」


ラナーシャは流麗なカーテシーを披露し、扇をパッと広げた。


「さあ、参りましょう。――自分の判子がどこで、誰に、どんな汚れ仕事に使われているのか。……その本当の『持ち主』を、あの腐った夜会に見せつけてやりましょう」





王宮の大広間は、シャンデリアの眩い光と、贅を尽くした料理の香りに包まれていた。

しかし、その空気は腐敗した果実のように淀んでいる。


「……皆様。悲しいお知らせですが、エドワード殿下の病状は芳しくありません。今夜も離宮で、わたくしの名を呼びながら苦しんでおられるとか……」


壇上で、マリアがレースのハンカチを目元に当て、悲劇のヒロインを演じていた。

その周囲には、増税で私腹を肥やした汚職貴族たちが、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて控えている。


「ですが、ご安心を! 殿下はわたくしに、この国の未来を託すと『頷いて』くださいました。さあ、殿下の回復を祈って――そして、わたくしたちの新たな門出に、乾杯しましょう!」


「「「乾杯!!」」」


杯が掲げられ、会場が卑俗な歓喜に包まれようとした、その時。


――ギィ、と。


重厚な大扉が、地鳴りのような音を立てて押し開かれた。


「……随分と楽しそうだな。あるじのいない場所で、勝手に葬儀の真似事とは」


朗々と響き渡る、低く、力強い声。

会場中の視線が入り口に集中し、次の瞬間、時が止まった。


そこに立っていたのは、死の淵にいるはずの、エドワード王子だった。

だが、誰もが知る「ひ弱な王子」ではない。

一ヶ月の労働で鍛え上げられた逞しい身体、精悍に引き締まった顔立ち。

そして何より、周囲を圧するような、真の統治者としての覇気。


「で、殿下……!? な、なぜここに……病気では……」


マリアの手から、クリスタルのグラスが床に落ち、粉々に砕け散った。

エドワードは、震えるマリアを一瞥もせず、その隣に並ぶラナーシャをエスコートしながら、悠然とレッドカーペットを歩んでいく。


ラナーシャは、冷ややかな、しかし完璧に洗練された公爵令嬢の微笑を湛えていた。

彼女が扇をパッと閉じ、壇上の書類を指し示す。


「おやおや。殿下が意識混濁の中で『頷いた』はずの増税案が、こんなところにあるなんて。……ねえ、マリア様。殿下のどのあたりが『死にそう』に見えますの? 私には、今にも不敬な輩を叩き潰しそうなほど、お元気に見えますけれど」


「あ、あ、ありえないわ! 貴女、殿下をどこに隠して……!」


「隠していたのは、そちらでしょう?」


エドワードが壇上に上がり、マリアの目の前に立った。

彼は、一ヶ月間お玉を握りしめ、泥にまみれて働いた己の手を見せつけるように、偽造された増税案を掴み取った。


「……マリア。私はこの一ヶ月、下町の孤児院で、お前が『慈善事業』と称して切り捨てた子供たちとスープを分け合ってきた。……お前が私の名を騙って奪おうとした銅貨一枚が、どれほどの重みを持つのか。今の私には、痛いほどよく分かる」


「な、何を言って……! 下町? 孤児院? 殿下がそんな卑しい場所に……」


「卑しいのは、民の血を啜る貴様らの方だ!!」


エドワードの咆哮が、広間を震撼させた。

彼は懐から、一通の重厚な書状を取り出し、会場中に掲げた。


「――国王陛下より全権を委任された私と、公爵令嬢ラナーシャの名において命ずる。マリア・レドモンド、および、公金横領に加担した者たちをすべて捕らえよ!」


「なっ……! 待って、殿下! 私は殿下を愛するがゆえに……! あの公爵令嬢に毒された殿下を救うために、仕方なく判子を……っ!」


マリアが涙を流しながら、必死にエドワードの足元に縋り付こうとする。

しかし、エドワードは嫌悪感を隠そうともせず、その手を冷たく振り払った。

その眼差しは、もはや甘い言葉に惑わされる「お飾り」のそれではない。


ラナーシャは、絹の扇をゆっくりと閉じ、勝ち誇ったようにマリアを見下ろした。


「……あら。まだそんな見苦しいお芝居を続けるのですか? マリア様。その涙、安っぽすぎて私の食堂のスープの出汁にもなりませんわ」


「な……食堂ですって……!?」


「ええ、そうですわ。あなたが『卑しい民の掃き溜め』と蔑み、支援を打ち切ったあの孤児院。……殿下はね、この一ヶ月、そこで泥にまみれ、薪を割り、あなたがドレス一枚を新調する金で、何百人の命が繋がるのかを学ばれましたの」


ラナーシャは一歩、マリアに歩み寄る。

完璧に整えられたドレスの裾が、床に這いつくばるマリアの指先を冷たくかすめた。


「あなたが優雅にお茶を飲み、偽の判子を捺している間……殿下は、あなたが『汚らわしい』と吐き捨てた子供たちのために、汗を流して火を焚いておられました。……今の殿下を甘い言葉で騙せるなんて、思わないことですわ。あなたのその美辞麗句、一ヶ月間ジャガイモを剥き続けた殿下の『タコ』よりも、ずっと中身が空っぽですもの」


「……う、嘘よ……殿下がそんな……そんなはず……っ!」


「信じたくないのも無理はありませんわ。……ですが、残念でしたわね。あなたの知らない『泥の味』こそが、殿下を真の王者に変えてしまったのですから」


ラナーシャは扇で、会場の出口を示した。


「さあ、お掃除の時間です。……マリア様、あなたがこれから行く場所は、ここよりずっと寒くて、お腹が空く場所ですわ。そこで、あなたが散々弄んだ『民の苦しみ』を、一から学んでいらっしゃいな」


「い、嫌っ! 離して! 殿下! エドワード殿下ぁーーっ!!」


マリアの絶叫が広間に虚しく響き渡り、彼女は汚職貴族たちと共に、近衛兵によって引きずり出されていった。


静まり返った会場で、エドワードは隣に立つラナーシャを見つめ、苦笑した。


「……ラナーシャ。相変わらず、容赦ないな」


「あら、褒め言葉と受け取っておきますわ。……さあ、殿下。お掃除の後は、本物の『国づくり』を始めませんと。ここからはあなた自身の力で切り開くのですわ」


エドワードは、頼もしく微笑むラナーシャの手を、今度はしっかりと、力強く握り返した。





王宮を震撼させた断罪の夜会から、数時間後。

王都がまだ深い群青色の空に包まれている頃、下町の孤児院の厨房には、トントンと小気味よい包丁の音が響いていた。


立ち上る湯気。パチパチとはぜる薪の火。

そこにいたのは、最高級の軍礼装を脱ぎ捨て、再びゴワゴワとした麻の労働着を纏ったエドワードだった。


「……王宮の厨房より、ここはずっと狭いな」


ふっとこぼれた独り言。

かつてはあんなに不自由で、卑しいと感じていた場所。

だが、今の彼にはこの狭さが心地よかった。


「だが、ここには“昨日の責任”が残っている」


自分が守ると決めた命が、すぐ上の階で眠っている。

その体温を感じながら作るスープは、王宮で出されるどの豪華な朝食よりも、彼に「生きている」実感を与えてくれた。


階段を駆け下りる音とともに、目をこすりながら子供たちが集まってきた。


「あ! おじさん、またスープ作ってる!」

「おじさん、昨日お城の服着てたでしょ? 夢だったの?」


レオたちが不思議そうに見上げる中、エドワードは最後の一杯を器に盛り、彼らと同じ目線になるように膝をついた。


「レオ、みんな。よく聞け。……俺は今日の朝ごはん(このスープ)を持って、城に帰る。俺が誰かは……まあ、ラナーシャから聞いてくれ」


エドワードは、みんなの頭をごしごしと乱暴に、だが愛おしそうに撫でた。


「みんなと過ごしたかけがえのない時間は、一生忘れない。……もちろん、これからも顔は出す! 抜き打ちで掃除のチェックにも来てやるからな」


子供たちが寂しそうに顔を見合わせる中、エドワードの瞳に力強い光が宿る。


「だが、君たちを含めて、この国の国民が安心して過ごせる国にするために、俺は城に戻らなきゃならないんだ。……だからお前たちも、ここでしっかり学問や技術を身につけろ! 頑張って何かを成し遂げたら、俺が責任を持って城に推薦してやる。俺のそばで、一緒にこの国を支えてくれ!」


「……おじさん、かっこいい! 約束だよ!」

「うん、勉強がんばる!」


子供たちの歓声と、小さな指との指切り。

その光景を、ラナーシャは入り口で静かに見守っていた。


子供たちが食事を始めたのを見届け、エドワードは立ち上がった。

その背中には、もう迷いはない。


「ラナーシャ。私は決めたぞ。……私の最初の命令だ」


彼は懐から、昨夜の会場で書き上げた親書を取り出した。


「第一に、マリアたちが企てた増税は即時撤回する。 第二に、国内すべての孤児院と食堂を王室公認の保護下に置く。 ……だが、ただの『施し』にはしない。孤児院で学問や技術を身につけた者が、将来王室のインフラを支える人材として雇用される『循環サイクル』を作る。……働かざる者、食うべからず。私がここで学んだ真理だ」


ラナーシャは、その書状をじっくりと読み進めた。それは、彼女がかつて夢見た理想の形。

ラナーシャは静かに書状を閉じ、生涯で最も深く、最も敬意を込めたカーテシーを捧げた。


「……合格ですわ、陛下」



窓の外から、眩いばかりの朝陽が差し込んできた。


(……さて。王子は立派に育ったわ。 でも、この国はまだまだ、よちよち歩きの“子供”だわ。 叩き直すべき場所は、山ほど残っていますもの)


エドワードが手渡したのは、一ヶ月前、彼がこの孤児院に放り込まれた日にラナーシャから渡された「勝手口の古びた鍵」だった。


彼女は、エドワードから手渡された古びた鍵を愛おしそうに握り直した。


「私が道に迷いそうになったら、いつでもこれで私をここへ連れ戻してくれ。……私の『正義』の原点は、この場所にあるからな」


彼女はドレスの裾を翻し、軽やかな足取りで彼の後を追う。


「……仕方がありませんわね。 では――私は殿下あなたの作りたい未来のために、粉骨砕身働いて差し上げますわ!」


朝焼けに染まる食堂の向こう、二人の影が重なりながら、光り輝く王宮へと伸びていく。

そこには、世界で一番泥臭く、そして世界で一番希望に満ちた、新しい王国の朝が始まっていた。



「守られる側は、もう卒業だ」

2月15日誤字訂正

間違えて後書きに書くお礼を前書きに書いてました……

お恥ずかしいです。すみません。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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王子が立ち上がって改心するシーンにぶわっときました!
食べることは いきること。
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