9話 クイーンビーとワイルドキャット
円頓寺ダンジョンが生まれてから、二週間が経っていた。
派手な出来事は、何もなかった。
侵入者もいない。
争いもない。
世界のニュースでは各地のダンジョンで戦闘や犠牲の話が流れているのに、この場所だけが、取り残されたみたいに静かだった。
毎日、俺はジャングルを歩く。
魔力生成樹木の状態を確認し、果樹の実り具合を見て、トレントが配置通りに巡回しているかを確かめる。
秘書ハーピーは、その少し後ろを飛びながら、淡々と報告を入れる。
「魔力循環、安定しています」
「環境指数、問題ありません」
言葉だけを聞けば事務的だが、その声には、どこか満足そうな響きがあった。
このダンジョンは、ちゃんと生きている。
それが、分かる。
そんな平凡な日常の中で、いつの間にか、変化は起きていた。
「……増えてるな」
ジャングルの奥、木々が密集しているあたりで、低い羽音が聞こえた。
ぶぅん、という音。
それも一つや二つじゃない。
見上げると、枝の間に、巨大な巣ができつつあった。
「これは……」
「クイーンビーです」
ハーピーが即座に答える。
「外部から侵入した蜂が、ダンジョン内の魔力濃度に適応し、モンスター化しました」
巣の中央には、明らかに普通じゃない大きさの蜂がいた。
腹部は膨らみ、翅は半透明で、魔力を帯びて淡く光っている。
「敵性は?」
「ありません。すでにダンジョンに眷属化されています」
その言葉通り、こちらを警戒する様子はない。
ただ、忙しそうに巣を拡張している。
「……蜂蜜、期待できるか」
俺が言うと、ハーピーが一瞬だけ視線を逸らした。
「高魔力蜂蜜が生成される可能性があります」
淡々とした説明。
だが、どこか声音が柔らかい。
少し前の果実の件を思い出して、何も言わないでおいた。
変化は、もう一つあった。
それに気づいたのは、夕方だった。
トレントの巡回ルートの近くで、微かな物音がした。
落ち葉が擦れる音。
小さく、低い唸り声。
「……?」
警戒して近づくと、茂みの影から、二つの光る目がこちらを見ていた。
猫だ。
痩せていて、毛並みは荒れ、身体のあちこちに傷がある。
首輪はない。
捨てられたのか、迷い込んだのか。
猫は、威嚇するように背を丸めたが、逃げなかった。
いや、逃げられなかったのかもしれない。
周囲の魔力に、すでに影響を受けている。
「……モンスター化、進行中ですね」
ハーピーが言う。
次の瞬間、猫の身体から、淡い魔力が立ち上った。
筋肉が引き締まり、爪が伸び、瞳の色が変わる。
それでも。
目の奥にあるのは、恐怖だった。
「待て」
俺は、ゆっくり腰を下ろした。
敵じゃないと示すために、手を広げる。
「……腹、減ってるだろ」
ポケットから、持ってきていた保存食を取り出す。
果樹の実を加工した、簡単なものだ。
地面に置く。
猫――いや、変化しつつある存在は、しばらく警戒していたが、やがて匂いを嗅ぎ、恐る恐る口をつけた。
一口。
二口。
勢いよく食べ始める。
「……」
食べ終わったあと、その身体から、はっきりと魔力が定着した。
【ワイルドキャット】
【眷属登録完了】
メニューが表示される。
猫は、俺を見上げた。
さっきまでの警戒心は、もうない。
代わりに、しっぽを小さく揺らしている。
「……懐いたな」
俺が言うと、猫は小さく鳴いて、俺の足元にすり寄ってきた。
「ダンジョン管理者に餌付けされた個体は、強い帰属意識を持ちます」
「つまり……」
「はい。忠実です」
ワイルドキャットは、俺の足元で丸くなった。
その体温は、妙に温かい。
危険なモンスターでも、凶暴な存在でもない。
ただ、生きる場所を見つけただけだ。
ジャングルには、トレントがいて、クイーンビーが巣を作り、ワイルドキャットが歩き回る。
少しずつ。
本当に少しずつ。
円頓寺ダンジョンは、ただの「場所」から、「世界」になり始めていた。
この静かな時間が、いつまで続くかは分からない。
でも今は。
ここには、争いも、血もない。
あるのは、魔力と、生活と、小さな変化だけだ。
俺は、足元で眠り始めたワイルドキャットを見下ろしながら、そう思っていた。
――このダンジョンは、守る価値がある。




