65話 ジャングルエリア 中村桜視点
洞窟の奥へ、一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
――世界が、切り替わった。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
さっきまで確かに感じていた、冷たく湿った岩肌の感触が消え、視界いっぱいに広がったのは、信じられないほど鮮やかな緑だった。
背の高い樹木が天へ向かって伸び、太い蔓が幾重にも絡み合い、木々の隙間からは柔らかな光が降り注いでいる。
洞窟の奥だというのに、空は見えないはずなのに、まるで外に出たかのような開放感。
「……ジャングル?」
自分の口から出た言葉が、やけに場違いに聞こえた。
でも、すぐに違和感に気づく。
暑くない。
湿度はあるのに、肌にまとわりつくような不快さがない。
深淵の森ダンジョンで感じた、胸の奥を押し潰されるような圧迫感も、頭の奥を刺すような魔力の痛みも、ここには存在していなかった。
「……空気、軽い」
横で、蜜璃が小さく呟く。
「魔力は濃いのに……濁ってない。
ちゃんと、流れてる」
姫華も、結界札を構えたまま、困惑した表情で周囲を見回していた。
「こんな感覚……初めてです。
侵入者を拒む気配が、ほとんど感じられない……」
後ろから、合同編成の冒険者たちも次々と足を踏み入れてくる。
「は? なにここ……」
トレジャーソウルの誰かが、戸惑いを隠さず声を上げた。
「深淵の森とは、全然違うぞ……」
「殺気も、罠の気配もねぇ」
マッスルボディの前衛が、警戒しながら首を傾げる。
「ほんとにダンジョンか? これ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
(……違う)
ここは、確かにダンジョンだ。
それは、剣聖としての感覚がはっきり告げている。
でも――
「……ここ、住んでる」
気づけば、私はそう口にしていた。
全員の視線が、一斉にこちらへ向く。
「どういう意味だ?」
あかりが問いかけてくる。
私は、ゆっくりと足元の地面に視線を落とした。
踏み荒らされた痕跡はほとんどない。
けれど、放置されているわけでもない。
自然の流れを壊さず、手入れされている。
“管理されている”という表現が、一番しっくりきた。
「生き物が……ちゃんと暮らしてる感じがする」
言葉を選びながら、続ける。
「奪うための場所じゃない。
閉じ込めるための場所でもない」
一瞬、静寂が落ちた。
そのときだった。
ざわり、と木々の奥で葉が揺れた。
「来るぞ!」
誰かの叫び声と同時に、剣が抜かれる音が響く。
私は、無意識に剣を構え――
そして、動きを止めた。
姿を現したのは、巨大な黄金色の蜂だった。
威嚇するように翅を震わせてはいるが、明確な攻撃の意思は感じられない。
むしろ、距離を保ち、こちらの動きを観察している。
さらに、木の陰から影が現れる。
蔓のような腕を持つ木の魔物。
丸いフォルムの小さなキノコ型の存在。
そして、遠くの枝の上――羽を持つ人型の影。
「……モンスター、だよね?」
蜜璃の声が、わずかに揺れた。
でも、誰も襲ってこない。
それどころか、一定の距離を保ったまま、こちらを“見ている”。
「……攻撃、してこない?」
姫華が結界を維持したまま、息を呑む。
その光景を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
(あの時……)
深淵の森で、罠にかかり、追い詰められたとき。
助けてくれた、白髪のハーピー。
彼女が去っていった方向。
あの、澄んだ風の流れ。
(……やっぱり)
偶然なんかじゃない。
このダンジョンは――
敵じゃない。
「待って」
私は一歩前に出て、剣を下ろした。
「ここ……戦場じゃない」
周囲の視線を感じながら、深く息を吸う。
「少なくとも……
深淵の森みたいな場所じゃない」
静かなジャングルの中で、モンスターたちは、じっと私たちを見つめていた。
まるで――
こちらの判断を、委ねているかのように。
円頓寺ダンジョン。
その本当の姿は、まだ誰にも分からない。
けれど、私は確信していた。
ここは、ただ壊すための場所じゃない。
⸻
静かなジャングルに、張り詰めた空気。
誰も剣を振るっていないのに、判断ひとつで事態が転がり落ちかねない。
そんな予感が、胸に重くのしかかる。
その沈黙を破ったのは、トレジャーソウルのリーダーだった。
「とりあえず、四パーティで別々に探索しないか?」
軽い口調とは裏腹に、その視線は周囲の茂みを鋭く走査している。
「ここ、動きにくい。
全員で固まって進むと、視界も足場も最悪だ」
マッスルボディの前衛が、腕を組む。
「分散は危険だろ。
戦力を割くのは悪手じゃねぇか?」
「逆だよ」
トレジャーソウルのリーダーは、小石を拾い、地面に落とした。
「この密度だ。
敵に見つかったら、隊列組んでても意味ない」
指で円を描きながら続ける。
「狭い場所で固まってたら、
範囲攻撃一発で“全滅”だ」
一瞬、空気が張りつめる。
「それに」
彼は木々の奥を見据えた。
「ここは深淵の森ほどの不快感はない。
でも、そのぶん“どこから見られてるか分からない”」
蜜璃が小さく息を吸った。
「一網打尽を避ける、ってこと?」
「そう」
短く頷く。
「四方向から距離を保って情報収集。
交戦は極力避ける。
見つかったら、深追いせず撤退」
姫華が、私を見る。
「桜、どう思う?」
私は一瞬だけ目を閉じ、この場所の空気を感じ取った。
(一本道じゃない……
固まると、逆に身動きが取れなくなる)
「……私は賛成」
その言葉に、視線が集まる。
「分かれても、合流できる余地がある。
このダンジョンは……逃げ道を残してる気がする」
あかりが、静かに頷いた。
「通信は?」
「ギルド支給の簡易魔力通信。
距離制限はあるけど、最低限は使える」
短い沈黙のあと、誰かが息を吐いた。
「……決まりだな」
こうして、探索隊は分かれた。
オリジンワンは、私、姫華、あかり、蜜璃の四人で、比較的開けたルートへ。
他のパーティも、それぞれの方向へ散っていく。
ジャングルは、何も語らず、それを受け入れた。
――でも。
どこかで、葉が擦れる音がした。
円頓寺ダンジョンは、分断された私たちを、静かに“見て”いた。




