49話 紅葉視点
夜の円頓寺ダンジョンは、昼とはまるで別の顔を見せる。
人の気配が減り、通路を照らす魔力灯の光が柔らかく揺れる。
カフェも閉店し、子どもたちは眠りについた時間帯。
私はカウンターの奥で、帳簿をまとめていた。
「……ふぅ」
思ったよりやることが多い。
やりがいはある
「まだ起きてたんですか」
後ろから声がして、肩が少し跳ねた。
振り返ると、そこには土門くん。
手には湯気の立つ狸印のマグカップが二つ。
「これ、ハーブティーです。眠れなくなる前に」
「ありがとう……ございます」
受け取ると、指先が一瞬だけ触れた。
ほんの一瞬なのに、胸の奥がきゅっとする。
「……今日も忙しかったですね」
「ええ。でも、慣れてきました」
椅子に腰かけると、ふっと肩の力が抜ける。
沈黙が流れる。
でも、不思議と居心地が悪くない。
「……紅葉さん」
「はい?」
「無理、してないですか」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「してないって言ったら嘘になりますけど……」
少し考えてから、続ける。
「でも、ここに来てから、怖いより“楽しい”が増えました」
カップを両手で包みながら、ぽつりと。
「前は毎日、何かに追われてる気がしてたんです。
誰かに評価されて、誰かに使われて……」
視線を落とす。
「でも今は……ちゃんと人として扱われてる気がして」
言い終える前に、少し照れてしまった。
「……変ですよね」
「変じゃないです」
即答だった。
顔を上げると、土門くんは優しく笑っていた。
「ここでは、誰も無理しなくていい。
それが……俺の作りたい場所なので」
その言葉が、胸にすっと落ちる。
「……ずるいですね」
思わず言ってしまう。
「そんなこと言われたら、頑張っちゃうじゃないですか」
彼は困ったように頭をかいた。
「じゃあ、ほどほどに頑張ってください」
ふふ、と笑ってしまった。
その瞬間、近くで物音がして、二人同時にそちらを見る。
ただの風で揺れたカーテンだった。
安堵して、自然と距離が縮まっていることに気づく。
近い。
近いけど――嫌じゃない。
むしろ、少しだけ、心地いい。
「……あの」
私が小さく言う。
「ここに来て、よかったです」
彼は少し驚いた顔をして、それから穏やかに微笑んだ。
「俺もです」
それだけで、胸がじんわり温かくなった。
外では、夜風が静かに吹いている。
今日も世界は不安定で、危険は消えない。
それでも。
この場所には、ちゃんと“帰ってくる場所”がある。
私は、カップを両手で包みながら、そっと思った。
――しばらくは、この人のそばで働こう。
それだけで、十分だった。




