20話 星ヶ丘 雪
アイリスがゆっくりと部屋に入ってきた。
その腕には、ぐったりとした少女――星ヶ丘雪が抱えられている。
顔色は青白く、呼吸は浅い。
俺が指示すると、アイリスは慎重に歩き、病室の中央にあるベッドへと雪を寝かせた。
布が軋む音が小さく響き、静寂が落ちる。
結衣は、息をするのも忘れたようにその様子を見つめていた。
「……お姉ちゃん……」
声が震えている。
今にも泣き出しそうなのを、必死でこらえているのが分かった。
俺はポーションを手に取る。
透明な瓶の中で、淡い光がゆらゆらと揺れている。
「今から飲ませる」
そう告げて、雪の身体を少し起こし、唇に瓶を当てた。
「……」
ゆっくりと傾ける。
一滴、また一滴。
喉がわずかに動き、ポーションが体内へと流れ込む。
その瞬間だった。
淡い光が、雪の身体から溢れ出す。
最初は指先、次に腕、そして胸元へと広がっていく。
まるで、内側から光が満ちていくようだった。
「……!」
結衣が息を呑む。
雪の肌に浮かんでいた黒ずんだ模様が、まるで霧が晴れるように薄れていく。
苦しげだった表情が緩み、眉間のしわがほどけていく。
数秒後――
光がすっと消えた。
静寂。
そして。
「……ん……」
かすかな声が、雪の喉から漏れた。
「お姉ちゃん……!?」
結衣が思わず駆け寄る。
雪の瞼が、ゆっくりと開いた。
「……ゆ、い……?」
掠れた声だったが、確かに名前を呼んだ。
その瞬間、結衣の堪えていたものが一気に溢れた。
「お姉ちゃん……! お姉ちゃんっ……!」
彼女はベッドに縋りつき、何度も名前を呼ぶ。
涙がぽろぽろと零れ落ち、止まらない。
「よかった……ほんとに……
目、覚めてくれて……!」
雪はまだ状況が分からない様子で、ぼんやりと天井を見つめていたが、結衣の顔を見ると、少しだけ微笑んだ。
「……心配、かけた?」
その一言で、結衣の感情は完全に決壊した。
「当たり前でしょ……っ!!
もう……もう……!」
声にならない嗚咽が、部屋に響く。
俺は少し距離を取って、その様子を見守った。
アイリスも、マリーも、何も言わずに静かに立っている。
しばらくして、結衣はようやく顔を上げた。
涙で赤くなった目で、俺を見る。
「……ありがとうございます……本当に……」
言葉が詰まりながらも、深く頭を下げた。
「お姉ちゃんを助けてくれて……
命の恩人です……」
俺は首を横に振る。
「礼なんていい。
助けられたから助けただけだ」
そう言いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
結衣は涙を拭い、ぎゅっと拳を握った。
「……私、ここで頑張ります」
その声は、もう震えていなかった。
「強くなって、役に立って……
今度は、誰かを助けられるように」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
ダンジョンの静かな灯りの中で、
新しい“仲間”が、確かに生まれた瞬間だった。
起きて状況把握に時間がかかったが完全に目覚めたようだ。
長い睫毛が揺れ、穏やかな瞳が天井を映す。
その表情は、先ほどまでの青白さが嘘のように落ち着いていた。
「……ここ、どこかしら……?」
少し掠れた声。
だが、その声色は柔らかく、包み込むような温度を持っていた。
結衣が一歩前に出る。
「お、お姉ちゃん……!」
雪はゆっくりと視線を動かし、結衣を見つけると、ふわりと微笑んだ。
「あら……結衣。そんなに心配そうな顔して……」
その声だけで、場の空気が一段落ち着く。
まるで、場を和ませるのが自然な役割のように。
「よかった……無事だったのね……」
結衣は涙ぐみながらうなずく。
「うん……うん……!」
雪はそっと手を伸ばし、結衣の頬に触れた。
「ふふ……泣き虫なんだから……」
その仕草は、年上の余裕と優しさに満ちていた。
それから、ゆっくりと周囲を見回す。
「……ここ、病院じゃないわよね?」
俺と目が合う。
穏やかだけど、芯のある視線。
人を安心させる笑顔の奥に、しっかりとした知性がある。
「あなたが……助けてくれた人?」
「ああ。事情はあとで話す。
今は、体を休めてほしい」
雪は少し考えるように瞬きをしてから、ふっと微笑んだ。
「そう……じゃあ、甘えさせてもらうわね」
その言い方が、あまりにも自然で――
場の緊張が一気に解ける。
マリーが小声で俺に囁いた。
「……あのお姉さん、絶対モテるタイプだよね」
アイリスも小さく頷く。
「落ち着きと包容力があります。
人心掌握能力が高い方です」
ワイルドキャットも、ふらりと近寄って雪のそばに座り、喉を鳴らす。
雪はその様子を見て、くすっと笑った。
「ふふ……この子、かわいいわね」
そして、ゆっくりと視線を俺に戻す。
「ここにいる皆さんが、私を助けてくれたのね。
ありがとう……本当に」
その言葉には、計算も演技もない。
ただ、心からの感謝だけがあった。
「……それと」
少しだけ声を落とし、柔らかく微笑む。
「これからは、私もお役に立ちたいわ。
お店のことでも、お世話でも……できること、きっとあるもの」
その一言で、はっきりと分かった。
この人は、守られるだけの存在じゃない。
このダンジョンに、“居場所”を作る側の人間だ。
結衣が少し照れながら言う。
「……お姉ちゃん、ここでもカフェやる気だ」
「ふふ、だって好きなんだもの」
柔らかな笑いが、病室を満たす。
こうして――
ダンジョンには、新しい“日常の中心”が生まれ始めていた。
それからというもの、雪はダンジョン内の病室で静かに療養することになった。
解毒は成功したとはいえ、身体への負担は大きい。無理をさせるわけにはいかない。
外の世界では、当然のように騒ぎになっているだろう。
「突然消えた女性」「病院から姿を消した患者」。
だが、今さら「治りました」と戻るわけにはいかなかった。
何より――
あの“グレムリンゴ”を、誰が、何の目的で渡したのか。
それが分からない限り、外に出るのは危険すぎる。
善意だったのか。
それとも、明確な悪意か。
もし後者なら――許すつもりはなかった。
◇
雪が静養している間、結衣は落ち着く暇もなかった。
「何か、できることないですか?」
その目には、もう迷いがない。
守られるだけではなく、支える側になろうとする強さがあった。
「じゃあ……農業と建設を手伝ってもらおう」
そう言うと、結衣は一瞬きょとんとしたあと、勢いよく頷いた。
「やります!」
まずは農業。
ダンジョンのジャングル区画で、マリーが腕を組んで指示を出す。
「はいはい、そこもっと深く掘って。
根っこが伸びるからさー」
「こ、こうですか?」
結衣は汗をかきながら土を掘り返す。
怪力スキルのおかげで、慣れない作業でも土が軽い。
「おー、さすが。
普通の人なら腰やるよ、それ」
マリーは感心しながら、苗の植え方を教えていく。
ダンジョンの土は魔力を含んでいるせいか、作物の成長が早い。
芽が出て、葉が広がり、実がなり始めるまでが驚くほど早かった。
「……すごい。育ってる」
結衣は目を輝かせて畑を見つめる。
「でしょ?
これ慣れると楽しいよ」
土に触れ、育てる感覚。
誰かの役に立つ実感が、結衣の表情を少しずつ明るくしていった。
◇
次は建設。
ポイントはほとんど残っていない。
だから、建物は“自作”だ。
「カフェを作るんだよね?」
「ああ。雪のスキルを活かせる場所だ」
簡単な設計図を地面に描く。
柱の位置、壁、カウンター、簡易厨房。
結衣はそれを真剣に見つめる。
「……私、やってみます」
怪力のスキルが発動すると、木材が軽々と持ち上がる。
柱を立て、梁を組み、土台を固める。
汗をかきながらも、結衣は楽しそうだった。
「なんか……こうやって作ってると、ここが“居場所”になる感じがします」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「その通りだ」
このダンジョンは、ただの拠点じゃない。
逃げ場であり、守る場所であり、生きる場所だ。
「お姉ちゃんが元気になったら、ここでお店やれるかな」
結衣はそう言って、少し照れたように笑った。
「……ああ。きっとな」
その笑顔を見て、俺は思う。
守るべきものは、もう増えている。
そして、このダンジョンは――
ただの戦場じゃなく、確かに“居場所”になり始めていた。




